SMILE5-2

【怒りのあまり】

「高野さん?どうしたんですか?」
最初は不機嫌そうな顔をしていた律だったが、高野の表情を見て驚いている。
いや、怯えているというべきかもしれない。
高野は怒っていた。
怒りのあまり、表情を取り繕うこともできないほどに。

今日も高野は仕事が立て込んでしまい、深夜の遅い帰宅になった。
律は先に帰宅している。
高野が自宅マンションに帰り着き、向かったのは自分の部屋ではなく律の部屋だった。
ドアチャイムを何度も鳴らすが、応答はない。
もう眠ってしまっているのかもしれない。
高野は携帯電話を取り出すと、律の番号をコールした。

「何ですか?」
案の上、随分待たされた後出て来た律は、完全に寝惚け眼だった。
そしてこの深夜の無礼に対して、不機嫌そうだ。
寝入りばなに叩き起こされたのだから、無理もないと言えば無理もない。
普段の高野だったら、ここまで強引に寝ている律を起こすようなことはしない。
だが今日は何としても、律と話をしなければならないと思った。

「高野さん?どうしたんですか?」
最初は完全に寝惚けていた律も、高野の顔を見て一気に覚醒したようだ。
高野にも怖い顔をしてしまっているのだという自覚はある。
だが高野には、表情を取り繕う余裕などなかった。

*****

「どうぞ」
律は諦めたようにため息をつくと、高野を室内に招き入れた。
誤魔化したり、逃げたりする気はないようだ。
高野はそんな律の様子に、少しだけ安堵した。
そして勝手知ったる律の部屋、リビングのソファに腰を下ろす。

付き合い始めてからの律の一番の変化は、部屋だ。
一時期は多忙のため、荒れ放題だった律の部屋。
今では高野の部屋には及ばないが、まぁまぁ片付いている。
律にそれを言うと「いつ高野さんの襲撃があるか、わかりませんから」と拗ねたように言う。
それももちろんあるだろう。
だが一番大きな理由は、漫画編集として律が成長したことによると思う。
仕事で手一杯だった時期を過ぎ、部屋の整頓に手が回るほどの余裕ができたのだ。

今日も律は調子が悪そうに見えた。
顔色も悪くて、表情も冴えない。
それに専務取締役である井坂龍一郎に呼び出されていた。
ただの編集部員である律が、専務取締役である井坂に呼ばれるのは変だ。
その上呼び出されて編集部を出て行く律は、立ち眩みを起こしたように見えた。
前日に知らない青年と話していたことも含めて、ついに高野の限界を超えた。
これ以上、何もないような顔はできない。

「お茶でも」
「いらない。大事な話がある。」
高野は律の言葉に首を振った。
ソファの隣をバンと叩き、座るように促す。
律は「はい」と小さく答えて、高野の隣に腰を下ろした。

*****

「井坂さんから聞き出した。お前と何を話したか。」
俯いていた律が、弾かれたように顔を上げて高野を見た。
だがすぐにまた俯いて「そうですか」と小さく呟いた。

井坂のところに押しかけて、高野が聞いた話はこうだった。
律は高校生の頃から、ずっと定期的に病院に通っていた。
だが丸川書店に入社してからは、もう通院していない。
心配する担当医師から律の母親に電話があり、母親が律に電話した。
それなのに一向に病院にも行かず、電話でも曖昧な返事を繰り返している。
そこで業を煮やした両親が、父親のゴルフ仲間である井坂に伝言を頼んだのだ。

「お前、何の病気なの?」
「それは聞いてないんですか?」
高野は黙って頷くと、じっと律の目を見据えた。
井坂も病名だけは高野に教えてくれなかったのだ。
言うべきではないと思ったのかもしれないし、本当に知らなかったのかもしれない。
「・・・自律神経失調症・・・です。」
高野の強い視線を受けた律が、ついに白状した。
それは杏ですら知らない、小野寺家のトップシークレットだった。

「自律神経。。。高校生のときから、って、まさか」
「だから、知られたくなかったんです。」
発症のきっかけは、高野-嵯峨政宗とのあの誤解による別れだった。
律は俯いたまま、淡々と語り始めた。

あの日律は遊ばれたのだと思い込み、高野を蹴り倒して逃げるように帰った。
その次の日から、律は学校に行けなくなった。
学校へ行こうとすると、立ち眩みのような眩暈で歩くことすらできない。
律は学校を休んで、心療内科でカウンセリングや投薬による治療を受けた。
そしてある程度、症状が改善したところで留学した。
律はもう長く学校を休んでしまっていたからだ。
心を病んでしまったことを隠すにはそれしかなかった。

ついに明かされた律の秘密は、高野にショックを与えるには充分だった。
10年以上昔のあの日、律は姿を消したのではなかった。
姿を隠さざるを得ないほど、追い詰められてしまったのだ。
誰でもない高野の、不用意な言動によって。

*****

「就職してからはもう症状もないから、半年に1回の経過観察で通院してて」
「丸川に就職してから、1年以上病院に行ってないって?」
「だから、もう治ってるから。。。」
「でも最近、立ち眩みが多いよな。」
高野は律の言い訳がましい言葉に、いちいち反論するように口を挟んだ。
律は高野の剣幕に押されて、ますます俯いてしまう。

「最近、またちょっと調子が悪いけど。多分俺自身のせいです。」
「どういうことだ?」
「俺は、高野さんを笑顔にできないから。」
「はぁぁ!?」
思わず上げてしまった高野の大声に、律がビクッと身体を震わせる。
だが何のことかわからない高野は「何を言ってるんだ?」とますます律に詰め寄った。

「この前、正面玄関で高野さんと横澤さんが大爆笑してたでしょ?」
「ああ?いつだ?」
「横澤さんが3人で飲みに行こうかって言ってくれた日ですよ。」
「あ、あ~あの時か」
「俺じゃあんな風に、高野さんを笑わせられません。」
「バカ。あれはお前の話をしてたんだ。」
今度は律が「はぁぁ!?」と大声を上げた。

きっかけは数日前に発売された丸川書店の人気漫画誌「ジャプン」だ。
「ザ☆漢」に出てくる新キャラが律に似ているという話になったのだ。
見てくれだけではなく、かわいいくせに負けず嫌いという性格まで似ている。
高野は秘かにそう思っていたが、横澤も同じ指摘をした。
それが面白くて、2人で大爆笑したのだった。

*****

「じゃ、じゃあ今日は?重版の知らせに来た女子社員の方に、照れ笑いしてて。」
律としては、横澤よりこちらの方が気がかりらしい。
しかも「バカ」と言われたことに腹を立てたようだ。
怒りのあまり、綺麗な顔を紅潮させながら身を乗り出してきた。

「あの女子社員がお前を褒めたんだよ。だから自分のことみたいに照れた。」
「嘘だ!高野さんが照れるなんて。」
「否定するトコ、そっちかよ。」
高野が心外だと言わんばかりに、律を睨む。
律はコホンと咳払いをすると、さらに続けた。

「いえ、その。何で俺が褒められるんです?」
「重版が決まったからだろ?」
「え?重版は一之瀬先生と吉川先生。。。」
「武藤先生もだ。ちなみに一之瀬先生と吉川先生は三千。武藤先生は五千だ。」
「そっか。木佐さんが横で電話してたから。全部聞き取れなかった。。。」
「絵梨佳様や吉川先生を差し置いて、五千はすごいってさ。」
「そうだったんですか。。。」

高野は腕を伸ばして、律の肩を抱き寄せた。
10年前は高野に遊ばれたと思い込んで、学校に来られないほど心を病んだ。
そして今度は高野を笑わせられないのだと思いつめて、体調を崩した。
強がって、いつも折れてしまいそうなほど張り詰めているからだ。

本当に迂闊だったと思う。
律が追い詰められているのに、またしても気付けないところだった。
だけど今回はこうして話を聞けて、手を差し伸べてやれた。
これからも何としても守らなくてはいけない。

律が高野に甘えるように、身体をすり寄せてきた。
高野は律の髪をくしゃくしゃとなでながら「好きだ」と囁いた。

【続く】
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