SMILE5-2

【照れ笑い】

「何でダメなんだよ!」
青年はそう叫んで、律のジャケットの襟を掴んだ。
詰め寄られて、まるでキスでもしてしまうほど近づく顔。
至近距離で見ると、彼の怒りがひしひしと伝わってくる。
だが律は何も言うことができなかった。

律は会議で遅い高野を待っていた。
最近何となくギクシャクしている高野と、話をしたかったのだ。
いや別に話なんかしなくてもいい。
顔を見て、一緒に帰れればそれだけでよかった。
だが会議は長いようで、高野はなかなか戻ってこない。
会議中だから、電話やメールもためらわれた。
律はあきらめて、先に会社を出たのだ。
会社を出たところで、青年が待ち構えていたのだった。

「こんばんは」
丸川書店の正面玄関を睨みつけていた青年が、律の姿を見つけて声をかけてきた。
一見するとただの挨拶だが、その口調がひどくとげとげしい。
かつて律を目の敵にしていた頃の横澤が、こんな口調ではなかっただろうか。
つまり青年は律が出てくるのを待っていたのだ。

*****

「こんばんは。久しぶりです。」
律は静かに挨拶を返した。
喧嘩腰でもないが、にこやかでもない。
愉快な会話にならないことはわかりきっているのに、笑顔にはなれない。
青年が何をしに来たのか、何となくわかる気がした。

この青年の名前を、律は知らない。
だが彼とは面識があった。
彼は律の「元」婚約者である小日向杏の友人だ。
杏と一緒にいるのを何度か見かけたことがあった。

随分昔、律は杏に彼の事を「友だち?」と聞いたことがある。
だが杏に「気になる?」と聞き返されたので「別に」と答えた。
本当に気にならなかったからだ。
質問に質問で返されたのも気に入らなかったせいもある。
それきり彼の名前を聞くこともなかった。
杏と一緒のときに会えば、会釈くらいはする。
そんな程度の知り合いだ。

だが今ならわかる気がする。
多分この青年は杏のことが好きなのだ。
だが杏は律が好きで、彼もそのことを知っている。
ひょっとして杏は律に嫉妬させたくて、何度も彼と一緒に律の前に現れたのかもしれない。
だとすれば彼は杏のために、心ならずも協力したのだろう。

*****

「杏との婚約、解消したそうですね。」
案の定、青年はそう切り出した。
律は小さく「はい」と頷く。

「杏が泣いてます。あなたは電話もメールも着信拒否してるって。」
「その気がないのに期待させるのはよくない。そう思ったからです。」
「子供の頃からずっと婚約してたんでしょう?今になって酷すぎませんか?」
「俺は。。。」
律は口を開いたものの、言いよどんだ。
杏には杏の言い分があるように、律には律の言い分がある。
だがこの青年に言うのは、何かが違うような気がする。
彼はあくまで杏の友人というだけ。
少なくても律と杏を巻き込んだ「お家騒動」については、完全に部外者だからだ。

「何でダメなんだよ!」
青年は不意にそう叫ぶと、黙ってしまった律の襟をつかんで引き寄せた。
そして律の方に顔を近づけ、睨みつけてくる。
「あんなにいいコなのに、何が不満なんだよ!」
「君が杏ちゃんを好きなように、俺も好きな人がいる。だからダメなんだ。」
律はそれだけ言うと、今度こそ押し黙った。
彼に言うべき言葉はこれだけだと思う。

青年はしばらくそのままの体勢で律を睨んでいたが、やがて手を離した。
そして「アンタ、サイテーだよ」と言い放つと、律に背を向け、駅の方へと歩き出す。
律はしばらくその背中を見ていたが、同じく駅の方向へと歩き出した。

*****

翌日になっても気分は晴れない。
律は鬱々とした気持ちで、仕事をしていた。
パソコンに向かいながら、チラリと編集長の席に視線を送る。
高野は席に座ったまま、書類を届けにきた女子社員と話をしていた。
何を話しているのかまでは、よく聞き取れない。
律の隣の席で、木佐が担当作家と電話で話をしているからだ。

「今回の重版は......」
「一之瀬先生と、吉川先生と......」
切れ切れに聞こえる2人の会話に、律は秘かにため息をつく。
そして視線をパソコンに戻した。
今回重版が決まったのは、一之瀬絵梨佳と吉川千春の作品。
同じ時期に出た律の担当作家の作品は、入っていないらしい。

自分が担当じゃなかったら、重版がかかっただろうか?
律はそんな弱気なことを考えて、またため息をついた。
ダメだ。体調も悪い上に、気持ちもふさいでいる。
何でもかんでも悪い方向に考えてしまうのは、そのせいだ。

律はもう一度、高野の方を見た。
高野は女子社員の話を聞きながら、笑っていた。
そしてこんな笑顔は見たことがないと思った。
まるで褒められて、照れているような笑顔だ。
律はその照れ笑いのような笑顔に、思いのほかショックを受けている自分に気付く。

横澤が高野を爆笑させるのは、仕方ないと諦めていた。
高野と横澤は10年来の親友であり、律の知らない2人の時間があるからだ。
だが他部署の女子社員でも、あんな風に高野を笑わせている。

*****

高野さんと俺は、何のために付き合っているんだろう?
律は心の中で、すでに何度も悩んだ問いを繰り返す。
横澤を傷つけて、杏を悲しませて、そこまでして貫いた恋愛なのに。
好きな人を笑わすことさえできない自分に、高野の恋人の資格はあるのか?

「おい、七光り!」
不意に耳元で大声を出させて、律は顔を顰めた。
うるさい。しかも七光りって何だ!
怒りを込めて、勢いよくそちらを見上げた律は驚く。
そこに立っていたのは、丸川書店の専務取締役である井坂龍一郎だったからだ。

「何度も呼んでるんだぞ」
井坂は律の不機嫌な表情が気に入らなかったらしい。
律よりさらに顔を歪めながら「ちょっと来い」と手招きする。
そして律の耳元に口を寄せて「お前の親から伝言」と小声で告げた。
律は一瞬驚きに目を瞠り、すぐにガックリと肩を落とした。
最近母親からよく電話があるのだが、生返事を繰り返していたのだ。
それにしてもまさか井坂に、使い走りのような真似をさせるとは。

「・・・っ!?」
立ち上がった律は、眩暈のような感覚に焦った。
ここ最近、何回か立ち眩みがあったが、よりによって何も今とは。
井坂が怪訝な表情で「どうした?」と聞いてきたが、律は「なんでもありません」と答える。
そして机に両手をついて、何とかやり過ごした。

「ちょっと席を外します。」
ちょうど電話が終わった木佐にそう声をかけて、律は井坂についていく。
その後ろ姿を高野がじっと見ていたことに、律は気がつかなかった。

【続く】
3/5ページ