SMILE5-2

【目が笑ってない】

「ちょっと律っちゃん!大丈夫?」
「すみません!もう俺、何やってるんでしょうね。。。」
本棚に資料を戻そうとしていた律の手から、数冊のファイルが落ちた。
バサバサと落下する音に驚いた木佐が、律に声をかける。
律は「アハハ」と乾いた笑いを浮かべて、誤魔化そうとしている。
だが目が笑っていない。
高野は最近の律はどこかおかしいと思っている。

律が「好きだ」と告白してくれたとき、高野はようやく取り戻せたと思った。
かわいい恋人を。そして10年間という失われた時を。
そして同時に楽しみでもあったのだ。
高野に対していつもつんけんと、とんがっていた律がどう変わるのか。
10年前と同じとまではいかなくても、少しは素直になるのか。
いやまったく変わらなくても、それはそれでいい。
どっちの律もきっとかわいい。
だが律は高野の予想とは違う変化を見せた。

律は笑わなくなった。
何かあれば口元を綻ばせて、笑みを浮かべることはする。
だがその目は笑っていない。
どこか迷うような、すがるような。
高野が愛する大きな瞳が、弱々しく揺れている。

*****

それと同じくらい気になるのは、最近律は体調が悪そうに見える。
よく物を落としたり、歩いていてふらついたりするのだ。
顔色も悪いし、少し痩せたような気がする。
先程資料を取り落としたのも、おそらく立ち眩みではなかろうか。

そのことを高野が指摘しても、律は「大丈夫」と繰り返す。
寝不足なのだとか、ちょっと疲れ気味なんだとか。
さっきの資料も手をすべらせてしまったと木佐にあやまっている。
そんな調子で、体調が悪いことを認めようとしない。

高野としては、何とか病院に行かせたいと思っている。
だが律にそう言っても「そんな暇ありません」と言い張る。
そして「会社の定期健診で診てもらいますから」と付け加えた。
だが会社の定期健診などまだまだ先だ。
とても待っていられない。

どうしてうまくいかないのだろう。
お互いが相手のことを好きで、その想いを受け入れているのに。
律は1人で困難を抱えこんで、堪えているように見える。
助けてやりたいと思うのに、律は助けを求めようとしない。
高野はもどかしい気持ちを、持て余していた。

*****

その日は午後から会議だった。
少女漫画部門の主要メンバーが集まる販売促進会議。
議論が白熱し、終わったときにはもうすっかり夜だ。
編集部に戻ったときには、もう全員が帰宅していた。

ひょっとして律は待っていてくれるかもしれない。
そう思っていた高野は、すこしがっかりした。
だがすぐに思い直す。
こんなに遅くなってしまうのは、予想外だった。
しばらくは待っていたけれど、帰ってしまったのかもしれない。
そもそも律は体調が悪いようだし、早く帰って身体を休めた方がいい。

俺も今日は、もう帰るか。
高野は小さくため息をつくと、帰り支度を始めた。
仕事は溜まっていたが、緊急のものはない。
だが長い会議で疲れていたし、何より早く律の顔が見たい。

「お前も今、帰りか?」
高野が編集部を出て、エレベーターに乗ると、途中の階で扉が開いた。
乗ってきたのは、先程まで同じ会議に出席していた横澤だ。
高野は短く「おう」と片手を上げて、応じた。
そして軽口を叩きながら、並んで会社を出た。

律とはこうはいかない。
並んで歩くということにさえ、未だに律は緊張している。
ごく自然に横にいる。
こんな簡単なことがどうして出来ないのだろうと、高野は思う。

*****

「小野寺?」
会社を出て駅に向かう高野は、小さく声を上げた。
横澤も無言で頷く。
夜遅く、すっかり人通りもほとんどない路上。
10メートルほど先にいたのは律だった。

「一緒にいるの、誰だ?」
横澤にそう聞かれたが、高野は黙って首を振った。
律は1人ではなかった。
横にいたのは、律と同じくらいの年頃の見知らぬ青年だ。
そして2人は、微妙な体勢で向かい合っていた。

青年は両手で律のジャケットの襟首を掴んでいた。
そして律を引き寄せ、青年自身も身を乗り出しているせいで、2人の顔が近い。
まさかキスする直前、またはキスした直後なのだろうか。
そんなことを想像してしまうほどの近さだ。
律が青年に何事かを言うと、諦めたように目を伏せた。

高野たちから見えるのは、向かい合う2人の横顔だ。
わかるのは、相手の青年は律より頭半分くらい背が高いということ。
そして律同様、整った綺麗な顔をしていること。
年頃からも雰囲気からも、カップルに見せないこともない。

青年が律から手を離し、駅の方へと歩いていく。
しばらくその後ろ姿をじっと見ていた律も、距離を置きながら同じ方向へ歩き出す。
高野たちには気がついていないようだ。

*****

「今の、キス、じゃねーよな?」
横澤もただならぬ雰囲気を感じたようだ。
あっけにとられたような口調で、そう聞いてきた。
高野は「多分」と答えながら、律の後ろ姿を目で追った。

あの青年は誰なのか。
2人はいったい何をしていたのか。
気になり始めたその疑問が、嫉妬へと変わっていく。
笑顔を作っても、目が笑っていない律。
何を思って、何を隠しているのだろう。

「気になるなら、聞けばいいだろ?」
横澤はそう言って、苦笑した。
その通りなのだと高野も思う。
部下なのだから、隣に住んでいるのだから、恋人なのだから。

でも律は聞いても、本当の事を言わない気がする。
高野にとって、今の律は近くて遠い。
恋人になったのに少しも安心できない。
ちょっとでも手を離したら、また消えてしまいそうだ。

前を歩いていた律が、先に角を曲がった。
視界から律の姿が消える。
まるで悲しい過去が、不吉な予感が、再び現実になったようだ。
高野はそれを振り払うように小さく首を振ると、ゆっくりと歩き出した。

【続く】
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