SMILE5-2
【爆笑】
丸川書店の正面玄関で、立ち話をしている2人の男がいた。
2人も力が抜けてリラックスした表情であることから、親密な関係なのだとわかる。
不意に1人の男が、もう片方の男の耳元に唇を寄せて、何事かを囁いた。
何か面白い冗談でも言ったのだろう。
言われた方の男が、笑い出した。
大の大人がここまで笑うかと思えるほどの爆笑だ。
彼を笑わせた男が、爆笑する男の肩をポンポンと叩いた。
あまりにも笑う彼を宥めようとしているのだろう。
そんな2人の様子を目にした小野寺律は、こっそりと心の中でため息をついた。
2人のうちの1人、爆笑した男の名は高野政宗。
律の上司であり、隣人であり、今は恋人でもある。
もう1人の名は、営業部の暴れグマこと横澤隆史。
高野の親友であり、かつて高野に恋愛感情を抱いていた男だ。
一時期は律を含めて、いわゆる三角関係にあった。
その頃の横澤は律を邪魔者と見なして、律につらく当たるばかりだった。
だが今は高野と律のことを認めてくれている。
律とは普通に会社の同僚、高野とは友人として、良好な関係だ。
でも律は、横澤がうらやましいと思う。
高野は律と2人の時、あんな風には笑わない。
仕事中、例えば律が何かミスをしたときなどに爆笑することはある。
だがそれは決して律を蔑んでしていることではない。
負けん気の強い律を煽って、やる気を起こさせるため。
つまりわざとだ。
律が仕事以外の話をしても、高野があんな風に笑うことはない。
*****
律が高野に想いを告げたのは、つい最近のことだ。
今にして思えば、高野が「嵯峨先輩」だと知ったとき、もう恋に堕ちていたと思う。
だがそれをはっきりと認めるまでには、長い時間がかかった。
再会して約1年たって、ようやく律と高野は恋人同士になった。
最初のうちは浮かれていた。
とっくに終わったと思っていた恋が、愛に変わったことに。
会社の上司と部下として再会し、偶然にも住んでいる部屋が隣だった。
これが運命と言わずして、何と言うのだろう?
高野を一生愛して、高野と共に生きる。
そう心に決めたら、人生は輝くものだと思っていた。
仕事も恋愛も前向きに、頑張っていけるものだと。
だが実際は違った。
高野に「好き」と告白する前と、現在。
律と高野の関係は、まったく変わらなかった。
仕事の上では、上司と部下。
俺様横暴編集長と不器用な新人編集のままだ。
そしてプライベートでも、相変わらず。
身体を重ねることだけはしっかりやるけど、会話も覚束ない。
ちっとも高野の恋人になれたという実感がない。
それは多分自分の未熟さなのだと、律は思っている。
編集者としても人間としてもまだ遠く及ばないから、距離を感じるのだろうと。
早く成長して、高野の横に立てる人間にならなくてはいけないと思う。
*****
「今、帰りか?」
高野が律に気がついて、声をかけてきた。
律は「お疲れ様です」と2人に頭を下げる。
「たまには3人で飲みにでもいかねーか?」
横澤が律にそう言ってくれる。
かつての横澤からは考えられない言葉だ。
横澤がもう完全に高野のことを吹っ切れているのかどうかはわからない。
だが仕事が終わったこの時間帯は、高野の恋人として律と接してくれている。
全てを水に流して、こうして話しかけてくれる横澤は優しい男なのだと思う。
「すみません。今日は、ちょっと。。。」
「何か用事か?」
「実家に顔を出すことになってまして。」
親しげに声をかけてくれる横澤に、律は申し訳ない気分になる。
今日、両親と大事な話をしなければならないのは本当だ。
だがそれ以前に、高野と横澤と対等に向かい合って話す自信はまだない。
きっと高野を爆笑させることができる横澤に、嫉妬してしまうだろう。
「誘っていただいたのに、本当に申し訳ありません。」
律は頭を下げると、そそくさと逃げるように2人の横をすり抜けた。
2人の視線が背中に貼り付いているような気がしたが、それはきっと気のせい。
高野と横澤のことを、意識しすぎているせいだ。
律は視線を振り切るように、早足で会社を出た。
*****
「杏ちゃんとの婚約を解消させて下さい。」
両親と向かい合った律は、挨拶もそこそこにそう告げた。
話があるからと言って、久々に戻った実家。
どうやら両親は、律の話の内容を予想していたようだ。
「律!どうしてなの?どうして杏ちゃんじゃ。。。」
「どうしても駄目なのか?」
声を荒げる母親を手で制して、父親が冷静な声で聞いてきた。
とりあえず話は聞いてもらえるようだ。
最悪は一方的に怒鳴られて詰られることも覚悟していた律は、ホッと胸を撫で下ろす。
「どうしても杏ちゃんを女性として見ることが出来ないんだ。」
「そんなこと!このままお付き合いして、好きになる努力をすれば。。。」
「だって小さい頃から20年近くかかっても、好きになれなかったんだよ?」
「杏ちゃんは律が好きなのに!かわいそうじゃない!」
「愛せないのに結婚する方がかわいそうだ。俺はそう思う。」
声がどんどん上ずっていく母親に、律は努めて冷静に話をした。
とにかくちゃんと話をして、そしてわかってもらいたい。
それが高野の恋人として、対等になるための第一歩だ。
「ほかに好きな人がいるのか?」
父親もまた静かに聞いてきた。
だが律は「いないよ」と答えた。
ここで好きな人がいると言えば、絶対に誰だという話になる。
恋人が男だなどと知れれば、話がややこしくなる。
「とにかく杏ちゃんとは絶対に結婚しない。もう2度と会うつもりもないから。」
高野と付き合い始めてから、杏の番号は電話もメールも着信拒否にしていた。
それが横澤の想いを捨てて律を選んでくれた高野への、律なりの決意だ。
とにかく杏との婚約関係を、綺麗さっぱり消し去らなければならないと思ったのだ。
そんな律の覚悟が伝わったのだろう。
律の父親と母親は、諦めたように肩を落とした。
*****
ごめんなさい。お父さん。お母さん。杏ちゃん。
律は心の中で何度も詫びていた。
律は実家からマンションに戻るため、電車の中にいた。
時刻はもうすっかり深夜、地下鉄のシートに身を沈めるように座っている。
両親には泊まっていくようにと言われたが、ことわった。
明日も仕事があるから、マンションに帰った方が都合が楽なのは事実。
だが最大の理由は、それではない。
律の決意を聞き入れてくれた両親の悲しそうな表情が耐えられなかったからだ。
杏の実家、小日向家は業界に大きな力を持っている。
だから両親は杏との縁談を、律の将来に良かれと思って進めてくれたのだ。
杏も律のことを好きだと言ってくれた。
それなのにその気持ちに答えることができない。
両親や妹のように大事に思う存在を、悲しませて、傷つけるだけなんて。
果たして今の自分にどれほどの価値があるんだろうか?
高野と付き合い始めてから、もう何度も自問自答したことをまた考える。
編集者としても半人前、人間としても未熟なのに。
高野を爆笑させるなんて、いったいいつになったらできるんだろう。
不意に目の前の風景がグニャリと歪んだ。
まるで貧血のような眩暈、立ちくらみ。
まさか、また。あの時のように?
律は不安な気持ちを振り払うように、かすかに首を振る。
疲れていただけだ。毎日忙しいから。
自分に懸命にそう言い聞かせながら、律は目を閉じた。
【続く】
丸川書店の正面玄関で、立ち話をしている2人の男がいた。
2人も力が抜けてリラックスした表情であることから、親密な関係なのだとわかる。
不意に1人の男が、もう片方の男の耳元に唇を寄せて、何事かを囁いた。
何か面白い冗談でも言ったのだろう。
言われた方の男が、笑い出した。
大の大人がここまで笑うかと思えるほどの爆笑だ。
彼を笑わせた男が、爆笑する男の肩をポンポンと叩いた。
あまりにも笑う彼を宥めようとしているのだろう。
そんな2人の様子を目にした小野寺律は、こっそりと心の中でため息をついた。
2人のうちの1人、爆笑した男の名は高野政宗。
律の上司であり、隣人であり、今は恋人でもある。
もう1人の名は、営業部の暴れグマこと横澤隆史。
高野の親友であり、かつて高野に恋愛感情を抱いていた男だ。
一時期は律を含めて、いわゆる三角関係にあった。
その頃の横澤は律を邪魔者と見なして、律につらく当たるばかりだった。
だが今は高野と律のことを認めてくれている。
律とは普通に会社の同僚、高野とは友人として、良好な関係だ。
でも律は、横澤がうらやましいと思う。
高野は律と2人の時、あんな風には笑わない。
仕事中、例えば律が何かミスをしたときなどに爆笑することはある。
だがそれは決して律を蔑んでしていることではない。
負けん気の強い律を煽って、やる気を起こさせるため。
つまりわざとだ。
律が仕事以外の話をしても、高野があんな風に笑うことはない。
*****
律が高野に想いを告げたのは、つい最近のことだ。
今にして思えば、高野が「嵯峨先輩」だと知ったとき、もう恋に堕ちていたと思う。
だがそれをはっきりと認めるまでには、長い時間がかかった。
再会して約1年たって、ようやく律と高野は恋人同士になった。
最初のうちは浮かれていた。
とっくに終わったと思っていた恋が、愛に変わったことに。
会社の上司と部下として再会し、偶然にも住んでいる部屋が隣だった。
これが運命と言わずして、何と言うのだろう?
高野を一生愛して、高野と共に生きる。
そう心に決めたら、人生は輝くものだと思っていた。
仕事も恋愛も前向きに、頑張っていけるものだと。
だが実際は違った。
高野に「好き」と告白する前と、現在。
律と高野の関係は、まったく変わらなかった。
仕事の上では、上司と部下。
俺様横暴編集長と不器用な新人編集のままだ。
そしてプライベートでも、相変わらず。
身体を重ねることだけはしっかりやるけど、会話も覚束ない。
ちっとも高野の恋人になれたという実感がない。
それは多分自分の未熟さなのだと、律は思っている。
編集者としても人間としてもまだ遠く及ばないから、距離を感じるのだろうと。
早く成長して、高野の横に立てる人間にならなくてはいけないと思う。
*****
「今、帰りか?」
高野が律に気がついて、声をかけてきた。
律は「お疲れ様です」と2人に頭を下げる。
「たまには3人で飲みにでもいかねーか?」
横澤が律にそう言ってくれる。
かつての横澤からは考えられない言葉だ。
横澤がもう完全に高野のことを吹っ切れているのかどうかはわからない。
だが仕事が終わったこの時間帯は、高野の恋人として律と接してくれている。
全てを水に流して、こうして話しかけてくれる横澤は優しい男なのだと思う。
「すみません。今日は、ちょっと。。。」
「何か用事か?」
「実家に顔を出すことになってまして。」
親しげに声をかけてくれる横澤に、律は申し訳ない気分になる。
今日、両親と大事な話をしなければならないのは本当だ。
だがそれ以前に、高野と横澤と対等に向かい合って話す自信はまだない。
きっと高野を爆笑させることができる横澤に、嫉妬してしまうだろう。
「誘っていただいたのに、本当に申し訳ありません。」
律は頭を下げると、そそくさと逃げるように2人の横をすり抜けた。
2人の視線が背中に貼り付いているような気がしたが、それはきっと気のせい。
高野と横澤のことを、意識しすぎているせいだ。
律は視線を振り切るように、早足で会社を出た。
*****
「杏ちゃんとの婚約を解消させて下さい。」
両親と向かい合った律は、挨拶もそこそこにそう告げた。
話があるからと言って、久々に戻った実家。
どうやら両親は、律の話の内容を予想していたようだ。
「律!どうしてなの?どうして杏ちゃんじゃ。。。」
「どうしても駄目なのか?」
声を荒げる母親を手で制して、父親が冷静な声で聞いてきた。
とりあえず話は聞いてもらえるようだ。
最悪は一方的に怒鳴られて詰られることも覚悟していた律は、ホッと胸を撫で下ろす。
「どうしても杏ちゃんを女性として見ることが出来ないんだ。」
「そんなこと!このままお付き合いして、好きになる努力をすれば。。。」
「だって小さい頃から20年近くかかっても、好きになれなかったんだよ?」
「杏ちゃんは律が好きなのに!かわいそうじゃない!」
「愛せないのに結婚する方がかわいそうだ。俺はそう思う。」
声がどんどん上ずっていく母親に、律は努めて冷静に話をした。
とにかくちゃんと話をして、そしてわかってもらいたい。
それが高野の恋人として、対等になるための第一歩だ。
「ほかに好きな人がいるのか?」
父親もまた静かに聞いてきた。
だが律は「いないよ」と答えた。
ここで好きな人がいると言えば、絶対に誰だという話になる。
恋人が男だなどと知れれば、話がややこしくなる。
「とにかく杏ちゃんとは絶対に結婚しない。もう2度と会うつもりもないから。」
高野と付き合い始めてから、杏の番号は電話もメールも着信拒否にしていた。
それが横澤の想いを捨てて律を選んでくれた高野への、律なりの決意だ。
とにかく杏との婚約関係を、綺麗さっぱり消し去らなければならないと思ったのだ。
そんな律の覚悟が伝わったのだろう。
律の父親と母親は、諦めたように肩を落とした。
*****
ごめんなさい。お父さん。お母さん。杏ちゃん。
律は心の中で何度も詫びていた。
律は実家からマンションに戻るため、電車の中にいた。
時刻はもうすっかり深夜、地下鉄のシートに身を沈めるように座っている。
両親には泊まっていくようにと言われたが、ことわった。
明日も仕事があるから、マンションに帰った方が都合が楽なのは事実。
だが最大の理由は、それではない。
律の決意を聞き入れてくれた両親の悲しそうな表情が耐えられなかったからだ。
杏の実家、小日向家は業界に大きな力を持っている。
だから両親は杏との縁談を、律の将来に良かれと思って進めてくれたのだ。
杏も律のことを好きだと言ってくれた。
それなのにその気持ちに答えることができない。
両親や妹のように大事に思う存在を、悲しませて、傷つけるだけなんて。
果たして今の自分にどれほどの価値があるんだろうか?
高野と付き合い始めてから、もう何度も自問自答したことをまた考える。
編集者としても半人前、人間としても未熟なのに。
高野を爆笑させるなんて、いったいいつになったらできるんだろう。
不意に目の前の風景がグニャリと歪んだ。
まるで貧血のような眩暈、立ちくらみ。
まさか、また。あの時のように?
律は不安な気持ちを振り払うように、かすかに首を振る。
疲れていただけだ。毎日忙しいから。
自分に懸命にそう言い聞かせながら、律は目を閉じた。
【続く】
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