SMILE5

【泣き笑い】

エメラルド編集部をファンシーにリリカルに飾る小物たち。
ぬいぐるみや置物に混ざって、淡いピンク色の箱がある。
材質はプラスチック。
中央には月刊エメラルドのマスコット「ティンクル」のステッカー。
その上薔薇の花のシールやネイル用のラインストーンで飾り立てられている。
その箱の正体は---救急箱だ。

俺は何でこんなことをやっているんだろう?
ラインストーンをピンセットで貼りながら、さすがの高野もそんなことを思った。
でもこれは仕事だ、必要なことだと言い聞かせながら、細かい作業を続けた。

エメラルドに限ったことではないが、やはり締め切り時期は忙しい。
何日も帰宅できないし、体調も悪くなることだってある。
ギリギリの状態でやっているので、少々の怪我や体調不良では抜けられない。
だから救急箱は必需品だ。

そして編集部に置く以上は、かわいい物に仕上げなくてはならない。
無味乾燥で無粋な箱など、エメラルド編集部には置けないのだ。
一度決めたからには、絶対に手を抜かないのは高野のポリシーでもある。
気の遠くなるような作業の果てに、編集長渾身の力作が誕生した。

*****

一番よく売れるのは絆創膏で、理由は写植貼りのカッターの操作ミスが多い。
だが胃薬、風邪薬、鎮痛剤も減りが早い。
高野は、湿布がよく出るのではないかと予想していた。
デスクワークが多いので、肩こりや腰痛の対策だ。
だが乙女部の部員たちは、湿布薬のにおいをよしとしない。
我慢をしているのか、そういうケアは自宅ですることにしているのか。
部員たちがそういうこだわりを持ってくれるのは、高野としても頼もしい。

この救急箱のお世話になるのが一番多いのは、木佐だった。
本人はナイーブだ、繊細だと言っている。
だが他の編集部員たちは内心「若く見えても三十路だし」と思っている。
一応年長者への礼儀として、誰もあえて口に出して言うことはしないが。
実際のところの原因は、プライベートでの遊びが過ぎたための不摂生だ。
高野はそこまでは見抜いている。
だがその遊びの内容の詳細までは知らない。
また木佐の押しかけ同棲中の若い恋人が、木佐のために家事一切を引き受けていることも。
そのため木佐の夜遊びも減ったし、食事なども健康的になり、睡眠時間も増えた。
木佐の使用頻度が減りつつあるのは、その若い恋人のせいだということも知らない。

そしてこの箱の管理担当は、特に言い渡したわけでもないのに羽鳥になった。
理由は月刊エメラルドの稼ぎ頭である羽鳥の担当作家が「お母さん」と揶揄する通り。
一番細かいことが気になるのが羽鳥だからだ。
使用期限が過ぎたものを買い換えたり。
水なしでも飲めるものや、空腹時でも胃に負担がかからないものを選んだり。
そういう細かいことを気にかけているうちに、羽鳥の担当になってしまった。
ちなみに胃薬だけ見ると、羽鳥の使用量が一番多い。
高野は頼りになる副編集長の胃の具合が、少し気がかりだ。

*****

この救急箱に、ちょっとした転機が訪れた。
それは中途入社の新入社員、小野寺律が加入したことによる。
羽鳥が救急箱をチェックしているのを見て、律が「自分がやります!」と申し出たのだった。

律にしてみれば、雑用は一番年下で後輩の自分がやるべきだろうという気持ちが一番。
そして羽鳥がしているということも、あったようだ。
律の初めて担当した作家は、元々羽鳥の担当だ。
何かと相談したり、アドバイスを受けたりしていた。
そんな羽鳥に少しでも恩返し、という気持ちなのだろう。
羽鳥は律に「自分がやります!」と言われた瞬間、無言で高野を見た。
アイコンタクトで「任せていいですか?」と聞いてきたのだ。

高野がその瞬間思い浮かべたのは、惨状を極めた律の部屋だった。
自分の部屋さえ管理しきれない律に、任せて大丈夫だろうか?
だがすぐに思い直した。何事も経験だ。
本人がやると言っているのだから、やらせてみればいい。
それに羽鳥の仕事を1つでも減らしてやるのは、いいことだ。
どうしても無理だと思ったら、やめさせればいいのだから。

高野は羽鳥に無言で頷いた。
羽鳥がそれを受けて、律に「じゃあ、頼むな」と答える。
そこでファンシーでリリカルな救急箱の管理者は、小野寺律となった。

高野の心配をよそに、律はよくやっていた。
編集部全員に「必ず入れておいて欲しい薬ってあります?」と聞いて回った。
よく箱を開けて、減り具合や使用期限もチェックしている。
忘れていた。律はやると決めたら、とことんやりぬくヤツだったのだ。
高野は自分の心配が杞憂に終わったことを、内心嬉しく思っていた。

*****

ちなみに高野はこの救急箱の中の薬を使ったことはない。
律に「必ず入れておいて欲しい薬ってあります?」と聞かれたときも「ない」と答えた。
理由の1つは編集長としての威厳。
編集長が薬を飲んでいるような姿は、あまり見せたくないというプライドだ。
そしてもう1つの理由は、高野の個人的な嗜好。
高野はどうにも錠剤が苦手なのだ。
羽鳥がそろえる薬は、錠剤が多かった。
どうやら編集部員たちは、どちらかというと粉薬が苦手らしい。

高野が錠剤が苦手な理由は、子供時代に遡る。
高野が幼少だったころ、不仲な両親もまた食事を共にしていた。
だが食卓はどうにもとげとげしい雰囲気だった。
幼い高野はその雰囲気がどうにも嫌で、いつも早く食事を終わらせようとした。
多めに口に頬張り、早めに飲み込む。
それが日常化したことで、食べ物の飲み込みが悪くなる。
いわゆる嚥下障害と言われるものだ。
それを両親に知られるのが嫌で、毎日懸命に食事を飲み込んだ。
目に涙を浮かべて、泣き笑いの表情で。

皮肉なことに、両親の不仲がさらに進んだことでそれは自然に治ってしまった。
食事を一緒にしなくなり、自分のペースで食べるようになったからだ。
だが錠剤のように、噛まずに飲み込むものは今も苦手だ。
喉に引っかかるあの感じ。
どうしても子供の頃のとげとげしい両親を思い出してしまう。

*****

「うわ、粉薬ばっかりじゃない!」
ある時、救急箱を開けた木佐が悲鳴を上げた。
前日より、急に気温が下がったある日のこと。
風邪気味の木佐が、風邪薬を求めて救急箱を開けたのだ。

「俺、粉は苦手なんだよね~何か苦くて。」
「子供みたいなこと言わないで下さい。顆粒の方が胃に負担がかからないんですよ。」
「それって俗説じゃないの?」
「文句があるなら、飲まなくていいですよ。」
木佐と律の小気味よい会話が編集部に響いた。

高野は表情こそ変えなかったが、愉快でならない。
入社当初は木佐や他の部員たちにいいように茶化されていた律なのに。
木佐と対等にポンポンとやり取りする律が頼もしい。

それに恐らく顆粒タイプに買い換えたのは、高野のためだ。
いつぞや高野の体調が悪かったとき、錠剤は苦手なのだと言ったことがある。
言った相手は横澤で、律はたまたま同じエレベーターに乗り合わせただけだったが。
律はその時のことを憶えていたに違いない。

泣き笑いの表情で、風邪薬を飲み下す木佐の隣。
律が一瞬、高野の方を見た。
だが高野と目が合った瞬間、すっと目を逸らしてしまった。

まったく。かわいいのに、かわいくない。
高野は頼もしい部下であり、最愛の想い人の横顔を見つめて、口元を緩めた。

【終】
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