…したい10題
【泣かせたい】
泣かせたい。
動揺してそう思い、そう思ったことにまた動揺した。
高野政宗は、深夜の病院に駆け込んだ。
部下であり、想いをよせる青年-小野寺律が搬送された救急病院だ。
本当はもっと早くに駆けつけたかった。
だが校了直前に発生した事件のせいで、できなかったのだ。
見知らぬ男にナイフで襲われた律が抜け、病院に付き添う形で木佐が抜けた。
羽鳥は吉川千春のデット入稿に付きっきり。
高野は美濃と共に、フル回転で働かなくてはならなかった。
高野はこの時点ではまだ事件の詳細は何も知らなかった。
吉川千春のヘルプに行った律が、見知らぬ男にナイフで刺されたという事実以外は。
連絡してきた木佐は、出血がかなり多くて危険な状態だと言った。
そしてその木佐はかなり取り乱していた。
本当は仕事など放り出してしまいたかった。
一度は失い、10年の時を経て再会した初恋の相手。
こんなことで、こんな形で失うなど。
万が一にも律が死んでしまったら、高野も消えてなくなるだろうとさえ思えた。
それでもどうにか仕事を続けたのは、編集長としての職業倫理だった。
この状態で高野が抜けたら、もう雑誌が出せない。
高野は懸命に自分を奮い立たせてどうにか仕事をこなした。
そして今、律が運び込まれたという病院へと駆けつけたのだ。
*****
律は夢を見ていた。
夢の中で律は、長い長い洞窟のようなトンネルの中を歩いていた。
遥か先にかすかに光が見える。
多分それがこのトンネルの出口なのだろう。
律はその出口を目指して歩いていた。
トンネルの中は暗くて、物音がまったくしない。
その中を律はまっすぐに歩いていく。
寂しくて、怖くて、不安だった。
こんな場所に1人でいるのが嫌で、律は足早に歩く。
不意に1人の人影が見えた。
トンネルの壁面に寄りかかって、腕を組んで立っていた。
長身のシルエットに見覚えがある。
白いシャツと黒いズボンは、律の高校の制服と同じものだ。
初恋の彼が高校生の姿で、律を待っていたのだ。
「嵯峨先輩」
律は大好きな彼の名を呼んだ。
もちろん今の律はもう20代半ばで、相手がまだ高校生なのはおかしい。
だがそこは夢の中のことで、律は違和感を感じなかった。
嵯峨は何も言わずに律を抱き締めた。
そして耳元で「帰ろう」と囁く。
律が笑顔で「はい」と答えると、嵯峨は律の手を取った。
律はその手を握り返して、2人は手をつないで歩き始めた。
*****
高野が律の病室に入ると、律は眠っていた。
そして1人の少女がベットの横に座り、律の手を握っていた。
高野はその少女に見覚えがあった。
いつか律が「杏ちゃん」と呼んでいたあの「婚約者」の女性だ。
杏は勢いよく飛び込んでいた高野に驚いた顔になった。
だが彼女も高野の顔を覚えていたようだ。
座っていたパイプ椅子から立ち上がり、高野に頭を下げた。
「こいつ、大丈夫なの?」
「はい。一時は危なかったけど、なんとか峠は越しました。」
単刀直入の質問に、杏はそう答えた。
その一言に、高野は心の底から安堵した。
杏がまた椅子に座り、律の手を握る。
すると律の唇がかすかに震え、何かを呟き、微笑した。
高野は律の表情に驚き、目を見開いた。
杏が律の口元に耳を寄せて「律っちゃん?何?」と声を上げる。
だが律は意識を取り戻すことはなく、また眠ってしまった。
「あ、どうぞ。今椅子を」
「いや、取り込んでるようだし。帰ります。」
高野は杏が招き入れてくれるのをことわり、そのまま病室を後にした。
杏は律のことがまだ好きなのだろう。
律は意識がないのだから、付き添っているのが杏だということさえわかっていない。
だけど杏が手を取った瞬間、律は確かに笑った。
杏に向けたその笑顔を壊して、泣かせたい。
高野は動揺してそう思い、そう思ったことにまた動揺した。
どうかしている。あの状態の律にそんなことを思うなんて。
律が助かったことへの喜びと杏への嫉妬を抱えて、高野は病院を出た。
【続く】
泣かせたい。
動揺してそう思い、そう思ったことにまた動揺した。
高野政宗は、深夜の病院に駆け込んだ。
部下であり、想いをよせる青年-小野寺律が搬送された救急病院だ。
本当はもっと早くに駆けつけたかった。
だが校了直前に発生した事件のせいで、できなかったのだ。
見知らぬ男にナイフで襲われた律が抜け、病院に付き添う形で木佐が抜けた。
羽鳥は吉川千春のデット入稿に付きっきり。
高野は美濃と共に、フル回転で働かなくてはならなかった。
高野はこの時点ではまだ事件の詳細は何も知らなかった。
吉川千春のヘルプに行った律が、見知らぬ男にナイフで刺されたという事実以外は。
連絡してきた木佐は、出血がかなり多くて危険な状態だと言った。
そしてその木佐はかなり取り乱していた。
本当は仕事など放り出してしまいたかった。
一度は失い、10年の時を経て再会した初恋の相手。
こんなことで、こんな形で失うなど。
万が一にも律が死んでしまったら、高野も消えてなくなるだろうとさえ思えた。
それでもどうにか仕事を続けたのは、編集長としての職業倫理だった。
この状態で高野が抜けたら、もう雑誌が出せない。
高野は懸命に自分を奮い立たせてどうにか仕事をこなした。
そして今、律が運び込まれたという病院へと駆けつけたのだ。
*****
律は夢を見ていた。
夢の中で律は、長い長い洞窟のようなトンネルの中を歩いていた。
遥か先にかすかに光が見える。
多分それがこのトンネルの出口なのだろう。
律はその出口を目指して歩いていた。
トンネルの中は暗くて、物音がまったくしない。
その中を律はまっすぐに歩いていく。
寂しくて、怖くて、不安だった。
こんな場所に1人でいるのが嫌で、律は足早に歩く。
不意に1人の人影が見えた。
トンネルの壁面に寄りかかって、腕を組んで立っていた。
長身のシルエットに見覚えがある。
白いシャツと黒いズボンは、律の高校の制服と同じものだ。
初恋の彼が高校生の姿で、律を待っていたのだ。
「嵯峨先輩」
律は大好きな彼の名を呼んだ。
もちろん今の律はもう20代半ばで、相手がまだ高校生なのはおかしい。
だがそこは夢の中のことで、律は違和感を感じなかった。
嵯峨は何も言わずに律を抱き締めた。
そして耳元で「帰ろう」と囁く。
律が笑顔で「はい」と答えると、嵯峨は律の手を取った。
律はその手を握り返して、2人は手をつないで歩き始めた。
*****
高野が律の病室に入ると、律は眠っていた。
そして1人の少女がベットの横に座り、律の手を握っていた。
高野はその少女に見覚えがあった。
いつか律が「杏ちゃん」と呼んでいたあの「婚約者」の女性だ。
杏は勢いよく飛び込んでいた高野に驚いた顔になった。
だが彼女も高野の顔を覚えていたようだ。
座っていたパイプ椅子から立ち上がり、高野に頭を下げた。
「こいつ、大丈夫なの?」
「はい。一時は危なかったけど、なんとか峠は越しました。」
単刀直入の質問に、杏はそう答えた。
その一言に、高野は心の底から安堵した。
杏がまた椅子に座り、律の手を握る。
すると律の唇がかすかに震え、何かを呟き、微笑した。
高野は律の表情に驚き、目を見開いた。
杏が律の口元に耳を寄せて「律っちゃん?何?」と声を上げる。
だが律は意識を取り戻すことはなく、また眠ってしまった。
「あ、どうぞ。今椅子を」
「いや、取り込んでるようだし。帰ります。」
高野は杏が招き入れてくれるのをことわり、そのまま病室を後にした。
杏は律のことがまだ好きなのだろう。
律は意識がないのだから、付き添っているのが杏だということさえわかっていない。
だけど杏が手を取った瞬間、律は確かに笑った。
杏に向けたその笑顔を壊して、泣かせたい。
高野は動揺してそう思い、そう思ったことにまた動揺した。
どうかしている。あの状態の律にそんなことを思うなんて。
律が助かったことへの喜びと杏への嫉妬を抱えて、高野は病院を出た。
【続く】