戦い3題
【地位も名誉もお金もいらない。欲しいのは】
律、無事か!?
嵯峨は車の後部座席に横たわる律に声をかける。
だが律は目を閉じたまま、ピクリとも動かなかった。
嵯峨は、横澤や桐嶋と共に小野寺ホールディングスを見張った。
そして夜になって、嵯峨たちは「当たり」だと思った。
地下のビル専用駐車場から出て正面玄関横を通った車の運転席に、あの社長秘書を見つけたのだ。
目の前を通り過ぎる表情は、社長室で見たようなにこやかなものではない。
冷たいほどの無表情で、口元だけかすかに歪んだ笑みを浮かべている。
一言で表現するなら邪悪としかいいようがない。
律を見つけたら連れ帰れるように、横澤の車で来ていたことが幸いした。
横澤は黙って、秘書の車を尾行した。
案の定というべきか、向かった先は律の実家だった。
ここは東京都か?と叫んでしまいたくなるような広い屋敷の勝手口。
車はしばらくその前で待っていた。
そして深夜になり、事態は急変した。
勝手口から足を引きずりながら飛び出してきた律。
秘書の車がすっと近づき、律はそれに乗り込み、走り出した。
あの車を追ってくれ。目立つように頼む。
屋敷の正面で見張っていた羽鳥に、すかさず嵯峨は携帯電話をかける。
嵯峨たちが小野寺邸を張り込んでいることを予想されていたら、ここからの尾行はしづらい。
羽鳥はすぐにその意図を察して、派手にタイヤを軋ませながら追跡し、わざと振り切られた。
だから運転者はもう1台の追跡車両、嵯峨たちには気付かなかったのだ。
人気のない川沿いの道に律を乗せた車が停まると、嵯峨たちも車を離れた場所で車を降りた。
足音を潜めて駆け寄り、車から降りた男-長谷川を取り押さえる。
そして嵯峨は後部座席で意識もなく横たわる律を発見した。
律、無事か!?
嵯峨は車の後部座席に横たわる律に声をかける。
だが律は目を閉じたまま、ピクリとも動かなかった。
手首には縛られていたらしい擦りむけた痕がある。
それに靴を履いていない足裏も出血しているらしく、靴下に血が滲んでいた。
そして後部座席に「あるモノ」を見つけた嵯峨は、怒りで身体が震えるのを止められない。
お前、律に何した!
嵯峨は横澤と桐嶋に両側を固められた長谷川を睨みつけた。
長谷川は「さぁね」と、口元を歪めてニンマリと笑う。
この男は狂人であり律は本当に危なかったのだと思うと、改めて肝が冷える。
横澤が携帯電話で救急車と警察を呼んでいる。
嵯峨は車に乗り込むと、律の頭を膝に乗せ、救急車が来るまで髪を撫でていた。
*****
よかった。律さんが無事で。
ニコニコと笑うのは、今回留守番組だった千春だ。
同じく留守番組の翔太も「ホントにそうだね」と笑顔で言った。
律を拉致しようとした男を追跡し、何とか律を取り戻した直後。
男は警察に連行され、律は救急車で病院に向かった。
律は睡眠薬を飲まされただけで命に別状はないという。
嵯峨は救急車に同乗して病院に向かい、他の面々はクラブ「エメラルド」に戻った。
それにしても、長谷川だったっけ?お粗末な手口だったよな。
桐嶋は秀麗な顔を歪めて、吐き捨てる。
長谷川は律を自殺に見せかけるつもりだったようだが、無理がありすぎる。
手首の縛られた痕や、裸足の足はどうしたって不自然すぎる。
何より今は小野寺ホールディングスと縁を切っている律が、社用車を使うのはおかしい。
もしかして小野寺ホールディングスの社長は、警察にも顔が利くのかもしれませんね。
おっとりと口を開いたのは雪名だった。
雪名は長引くようなら張り込みの交代要員になるはずだったが、結局留守番で終わった。
なるほど多少の不自然なら、もみ消してしまえるということかもしれない。
かつて律が依頼して、クラブ「エメラルド」のトラブルを解決したのと、同じ手法で。
とにかく律は睡眠薬を飲まされただけですんだ。本当によかった。
横澤がしみじみとそう言うと、誰もが笑顔になった。
律が眠っていた車の後部座席には七輪と練炭があった。
嵯峨はそれを見て怒りで震えていたし、横澤も桐嶋も背筋が凍る思いだった。
いつもは自信満々な桐嶋が「俺のせいだな」と俯く。
確かに発端は桐嶋が持ち込んだトラブルを、律が自分の実家の権力で解決したことだ。
いや、律にそんな真似させたのは、俺に力がないせいだろう。
横澤は桐嶋の肩を叩いて、諌めた。
桐嶋に問題があることを知りながら採用したのは、横澤だ。
クラブ「エメラルド」はスタートしたばかりの小さな店で、トラブルを解決する力もないのに。
そんな風に自分を責めたらダメだよ。
2人がしっかりして、律君と嵯峨さんを迎えないと。
美濃がいつもと変わらない笑顔で励ました。
羽鳥と共に律の実家を張り込んでいた疲れなど微塵も見せない。
よくも悪くも素性が見えない美濃の懐は深い。
色々と問題は山積みだが、みんなで立ち向かっていけばいい。
まずは自分を責めているに違いない律と嵯峨を受け止めてやりたい。
クラブ「エメラルド」のホストたちは、心の底からそう思った。
*****
嵯峨さん、俺を拾わなければよかったですね。
病院の個室のベットの上で、律は嵯峨を見上げながらそう言った。
甘えている風でも、拗ねている風でもない。
淡々とした口調の裏で、律は自分を責めている。
店のためによかれと思った行動が、結果的に大騒動になったことを。
律の身体の怪我は右足の捻挫と、両手首、足裏の擦過傷。
右足が腫れてしまった以外は軽傷だ。
深刻なのは、短い時間のうちに種類が違う2つの強い睡眠薬を投与されたことだった。
頭に霞がかかっているみたい、と律は力なく笑う
美しいエメラルドの瞳は焦点が合わず、ぼんやりしていた。
お前を拾ったことは後悔してない。ホストにしたことは後悔しているけど。
嵯峨はベットの横のパイプ椅子に座り、律の包帯が巻かれた細い手を握っていた。
律同様、嵯峨の言葉も淡々としていた。
甘い言葉を並べるのは簡単だが、嵯峨は律に対してはいつも飾らず本音で話すことにしている。
仕事上、思ってもいないのに「綺麗」とか「かわいい」と言うことに慣れすぎているからだ。
嵯峨は律を拾ったときには、ただの駒だと思っていた。
薄汚れたホームレスの青年だったが、綺麗な顔立ちをしていた。
嵯峨もいつかは自分の店を出したいと思っていたから、金は欲しかった。
磨いて店に出して稼がせて、給料は巻き上げてやるつもりだったのだ。
だが律はまるで蝶のように美しく変貌して、嵯峨を魅了した。
それでいて夜の世界に身を置いても、無邪気さや初々しさはなくならない。
もう手放せないと思うほど愛するまでに、時間はかからなかった。
だから今後悔している。
ホストになどしたから律は自分の家と決別し、さらに殺されそうにまでなったのだ。
横澤から伝言だ。お前が今回の件で店を辞めたいと言っても絶対に許さんとさ。
嵯峨が横澤の口真似を混ぜながらそう言うと、律は思わず「え?」と思わず聞き返した。
実はクラブ「エメラルド」を去った方がいいのかと思い始めていたのだ。
まるで心を読まれ出鼻を挫かれた気がするが、嬉しいのは間違いない。
決して優しくはないが、心がこもった横澤らしい言葉に律は微笑した。
俺のそばから離れるのも禁止だ。当分は1人で外出もダメ。出勤日も俺と同じにするから。
あまりにも横暴な口調に、律は唖然とした。
だが嵯峨はおかまいなしに「少し眠れ」と言って、律の髪をサラリとなでる。
律は素直に「はい」と答えて、微笑した。
まだ睡眠薬が残っているらしく、目がトロンとしており、まるで幼子のようにあどけない。
地位も名誉もお金もいらない。欲しいのは政宗さんだけなのに。
律はポツリとそう呟くと、目を閉じた。
小野寺ホールディングスの創業者家に生まれたのは、律にとって呪いのようなものだ。
律本人だけではなく、周りの人間まで迷惑がかかることが悔しくて悲しいのだろう。
これからのことは、しっかり考えなくてはならない。
長谷川は逮捕されたが、律の実家と小野寺ホールディングスの罪状はどこまで暴けるのかわからない。
本意ではないが、それらの動きを見ながら駆け引きも必要かもしれない。
この愛しい青年を何としても守る。
嵯峨は寝息をたて始めた律の寝顔を見つめながら、決意を新たにしていた。
【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
律、無事か!?
嵯峨は車の後部座席に横たわる律に声をかける。
だが律は目を閉じたまま、ピクリとも動かなかった。
嵯峨は、横澤や桐嶋と共に小野寺ホールディングスを見張った。
そして夜になって、嵯峨たちは「当たり」だと思った。
地下のビル専用駐車場から出て正面玄関横を通った車の運転席に、あの社長秘書を見つけたのだ。
目の前を通り過ぎる表情は、社長室で見たようなにこやかなものではない。
冷たいほどの無表情で、口元だけかすかに歪んだ笑みを浮かべている。
一言で表現するなら邪悪としかいいようがない。
律を見つけたら連れ帰れるように、横澤の車で来ていたことが幸いした。
横澤は黙って、秘書の車を尾行した。
案の定というべきか、向かった先は律の実家だった。
ここは東京都か?と叫んでしまいたくなるような広い屋敷の勝手口。
車はしばらくその前で待っていた。
そして深夜になり、事態は急変した。
勝手口から足を引きずりながら飛び出してきた律。
秘書の車がすっと近づき、律はそれに乗り込み、走り出した。
あの車を追ってくれ。目立つように頼む。
屋敷の正面で見張っていた羽鳥に、すかさず嵯峨は携帯電話をかける。
嵯峨たちが小野寺邸を張り込んでいることを予想されていたら、ここからの尾行はしづらい。
羽鳥はすぐにその意図を察して、派手にタイヤを軋ませながら追跡し、わざと振り切られた。
だから運転者はもう1台の追跡車両、嵯峨たちには気付かなかったのだ。
人気のない川沿いの道に律を乗せた車が停まると、嵯峨たちも車を離れた場所で車を降りた。
足音を潜めて駆け寄り、車から降りた男-長谷川を取り押さえる。
そして嵯峨は後部座席で意識もなく横たわる律を発見した。
律、無事か!?
嵯峨は車の後部座席に横たわる律に声をかける。
だが律は目を閉じたまま、ピクリとも動かなかった。
手首には縛られていたらしい擦りむけた痕がある。
それに靴を履いていない足裏も出血しているらしく、靴下に血が滲んでいた。
そして後部座席に「あるモノ」を見つけた嵯峨は、怒りで身体が震えるのを止められない。
お前、律に何した!
嵯峨は横澤と桐嶋に両側を固められた長谷川を睨みつけた。
長谷川は「さぁね」と、口元を歪めてニンマリと笑う。
この男は狂人であり律は本当に危なかったのだと思うと、改めて肝が冷える。
横澤が携帯電話で救急車と警察を呼んでいる。
嵯峨は車に乗り込むと、律の頭を膝に乗せ、救急車が来るまで髪を撫でていた。
*****
よかった。律さんが無事で。
ニコニコと笑うのは、今回留守番組だった千春だ。
同じく留守番組の翔太も「ホントにそうだね」と笑顔で言った。
律を拉致しようとした男を追跡し、何とか律を取り戻した直後。
男は警察に連行され、律は救急車で病院に向かった。
律は睡眠薬を飲まされただけで命に別状はないという。
嵯峨は救急車に同乗して病院に向かい、他の面々はクラブ「エメラルド」に戻った。
それにしても、長谷川だったっけ?お粗末な手口だったよな。
桐嶋は秀麗な顔を歪めて、吐き捨てる。
長谷川は律を自殺に見せかけるつもりだったようだが、無理がありすぎる。
手首の縛られた痕や、裸足の足はどうしたって不自然すぎる。
何より今は小野寺ホールディングスと縁を切っている律が、社用車を使うのはおかしい。
もしかして小野寺ホールディングスの社長は、警察にも顔が利くのかもしれませんね。
おっとりと口を開いたのは雪名だった。
雪名は長引くようなら張り込みの交代要員になるはずだったが、結局留守番で終わった。
なるほど多少の不自然なら、もみ消してしまえるということかもしれない。
かつて律が依頼して、クラブ「エメラルド」のトラブルを解決したのと、同じ手法で。
とにかく律は睡眠薬を飲まされただけですんだ。本当によかった。
横澤がしみじみとそう言うと、誰もが笑顔になった。
律が眠っていた車の後部座席には七輪と練炭があった。
嵯峨はそれを見て怒りで震えていたし、横澤も桐嶋も背筋が凍る思いだった。
いつもは自信満々な桐嶋が「俺のせいだな」と俯く。
確かに発端は桐嶋が持ち込んだトラブルを、律が自分の実家の権力で解決したことだ。
いや、律にそんな真似させたのは、俺に力がないせいだろう。
横澤は桐嶋の肩を叩いて、諌めた。
桐嶋に問題があることを知りながら採用したのは、横澤だ。
クラブ「エメラルド」はスタートしたばかりの小さな店で、トラブルを解決する力もないのに。
そんな風に自分を責めたらダメだよ。
2人がしっかりして、律君と嵯峨さんを迎えないと。
美濃がいつもと変わらない笑顔で励ました。
羽鳥と共に律の実家を張り込んでいた疲れなど微塵も見せない。
よくも悪くも素性が見えない美濃の懐は深い。
色々と問題は山積みだが、みんなで立ち向かっていけばいい。
まずは自分を責めているに違いない律と嵯峨を受け止めてやりたい。
クラブ「エメラルド」のホストたちは、心の底からそう思った。
*****
嵯峨さん、俺を拾わなければよかったですね。
病院の個室のベットの上で、律は嵯峨を見上げながらそう言った。
甘えている風でも、拗ねている風でもない。
淡々とした口調の裏で、律は自分を責めている。
店のためによかれと思った行動が、結果的に大騒動になったことを。
律の身体の怪我は右足の捻挫と、両手首、足裏の擦過傷。
右足が腫れてしまった以外は軽傷だ。
深刻なのは、短い時間のうちに種類が違う2つの強い睡眠薬を投与されたことだった。
頭に霞がかかっているみたい、と律は力なく笑う
美しいエメラルドの瞳は焦点が合わず、ぼんやりしていた。
お前を拾ったことは後悔してない。ホストにしたことは後悔しているけど。
嵯峨はベットの横のパイプ椅子に座り、律の包帯が巻かれた細い手を握っていた。
律同様、嵯峨の言葉も淡々としていた。
甘い言葉を並べるのは簡単だが、嵯峨は律に対してはいつも飾らず本音で話すことにしている。
仕事上、思ってもいないのに「綺麗」とか「かわいい」と言うことに慣れすぎているからだ。
嵯峨は律を拾ったときには、ただの駒だと思っていた。
薄汚れたホームレスの青年だったが、綺麗な顔立ちをしていた。
嵯峨もいつかは自分の店を出したいと思っていたから、金は欲しかった。
磨いて店に出して稼がせて、給料は巻き上げてやるつもりだったのだ。
だが律はまるで蝶のように美しく変貌して、嵯峨を魅了した。
それでいて夜の世界に身を置いても、無邪気さや初々しさはなくならない。
もう手放せないと思うほど愛するまでに、時間はかからなかった。
だから今後悔している。
ホストになどしたから律は自分の家と決別し、さらに殺されそうにまでなったのだ。
横澤から伝言だ。お前が今回の件で店を辞めたいと言っても絶対に許さんとさ。
嵯峨が横澤の口真似を混ぜながらそう言うと、律は思わず「え?」と思わず聞き返した。
実はクラブ「エメラルド」を去った方がいいのかと思い始めていたのだ。
まるで心を読まれ出鼻を挫かれた気がするが、嬉しいのは間違いない。
決して優しくはないが、心がこもった横澤らしい言葉に律は微笑した。
俺のそばから離れるのも禁止だ。当分は1人で外出もダメ。出勤日も俺と同じにするから。
あまりにも横暴な口調に、律は唖然とした。
だが嵯峨はおかまいなしに「少し眠れ」と言って、律の髪をサラリとなでる。
律は素直に「はい」と答えて、微笑した。
まだ睡眠薬が残っているらしく、目がトロンとしており、まるで幼子のようにあどけない。
地位も名誉もお金もいらない。欲しいのは政宗さんだけなのに。
律はポツリとそう呟くと、目を閉じた。
小野寺ホールディングスの創業者家に生まれたのは、律にとって呪いのようなものだ。
律本人だけではなく、周りの人間まで迷惑がかかることが悔しくて悲しいのだろう。
これからのことは、しっかり考えなくてはならない。
長谷川は逮捕されたが、律の実家と小野寺ホールディングスの罪状はどこまで暴けるのかわからない。
本意ではないが、それらの動きを見ながら駆け引きも必要かもしれない。
この愛しい青年を何としても守る。
嵯峨は寝息をたて始めた律の寝顔を見つめながら、決意を新たにしていた。
【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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