戦い3題

【誰もいない何も見えない静寂の刻】

やっと取れた!
本当は叫びたいほど嬉しいが、残念ながら声を上げることはできない。
律はベットに腰掛けると、ゆっくりと呼吸を整えた。

自宅に監禁された律が取った方法は、実に原始的だった。
後手に縛られた手首を揺すり続けて、根気よく縄をゆるめたのだ。
正直なところ、この状態で思いつけることが他になかった。

かなりの時間をかけて、律はなんとか手首の縄をはずすことに成功していた。
不自然に力を込めて動かし続けたので、肩も肘も二の腕も痛む。
何よりも手首は擦りむけてヒリヒリした。
だがかまっている余裕はない。
律は目を塞ぐ布と足の縄も外して、ベットに腰掛けると、ゆっくりと呼吸を整えた。

視界がクリアになっても暗いのは、今が夜だからだ。
だが目を凝らしていると、だんだん辺りが見えてくる。
予想通りここは実家の2階の律の部屋だ。
律が実家に来たのは昼過ぎ、夕方に近い時間だった。
少なくても1日以上は経過しているだろうから、店は無断欠勤だ。
嵯峨は心配しているだろうし、横澤たちにも迷惑をかけている。

律は辺りを見回したが、持っていた鞄はなかった。
ポケットに入れていた携帯電話もない。
だがとにかく今は脱出最優先、迷っている暇はない。
律は部屋の窓を開けると足をかけ、思い切って飛び降りた。

着地の瞬間、律は「痛!」と小さく声を上げた。
芝生を狙って飛び降りたのだが、靴を履かない足には衝撃が強すぎた。
恐る恐る足を動かすと、右足首にズキンと激痛が走る。
だが背後から「律、待ちなさい!」と声がしたので、律は足を引きずりながら走り出した。

正面は明るい門灯の光に照らされているから、勝手口の方がいい。
とっざの判断で、律は必死に勝手口から外へ出る。
するとまるで出てくるのを待ち構えていたように、律の前にスッと車が止まった。
ドアのロックが外される音がして、律は一瞬ためらう。
見覚えのない車であり、誰が運転しているのかわからないからだ。
だが背後で勝手口の扉が開く音が聞こえたので、律は思い切って車の後部座席に身を滑らせた。
律を乗せた車はタイヤを軋ませながら、急発進した。

*****

律君の居場所ですか?さぁわかりませんね。
その男はそう言って、困ったような笑顔を見せた。

クラブ「エメラルド」の面々が動き出したのは、律が実家から逃走する少し前。
夕方、本来なら開店の準備をしている時間帯だ。
だが今日はクラブ「エメラルド」始まって以来の臨時休業だ。
嵯峨は、横澤、桐嶋と共に小野寺ホールディングスの巨大な本社ビルに来ていた。
いきなり社長に会いたいなどと言っても、普通はいきなり会えないだろう。
だが現社長は律とは旧知の仲であり、嵯峨や横澤の名も聞いていたらしい。
さらに幸いなことに社長は会社におり、電話口に出てくれた。
名乗って律のことで話があると言ったら、すんなりと面会することができたのだ。

このたびはうちの店のためにご尽力いただき、ありがとうございました。
社長室に通されてすぐ、まずは横澤が頭を下げた。
この部屋の主である社長は鷹揚に「いえいえ」と受け流して、手で座るように促す。
3人が長いソファに並んで腰掛けた途端、秘書だと名乗る男性社員がコーヒーを持って来た。
さすが大企業、接客は完璧だった。

律が昨日、実家に戻ると言ったまま帰らないんです。
現在の律の所在に、何かお心当たりはないでしょうか?
嵯峨は単刀直入に切り出した。
実家の方にも足を運んだが、律はもう帰ったのでいないと言われた。
そんなはずはないと何度もインターホンを鳴らしたが、家人は外に出てきてさえくれなかったのだ。

嵯峨たちはそれは嘘だと確信した。
仮にも息子の所在がわからないなら、親としては絶対に気になるはずだと思う。
だから実家の前には羽鳥や美濃たちを張り込ませていた。
交代で人の出入りを見張り、律が見つけられたならそのまま確保する算段だ。
そして嵯峨たちは別の突破口を見つけるべく、こうして新しい社長を捕まえたのだ。

実家にいないなら、わかりませんね。
律君は昔から知っていますが、彼の交友関係は知りませんので。
その笑顔は完璧だったし、別に何の不自然もなかった。
律の行方がわからないことを心配し、でも力になれないことを申し訳なく思う。
そんな気分が伝わってくるような口調と態度だ。
多分今この男から引き出せる情報はないだろう。
嵯峨たちは早々に引き上げた。

なんかすっきりしないな。あの社長。
ビルの外に出るなり桐嶋が口を開くと、嵯峨も横澤も頷いた。
それはホスト業を長くやっていた3人に共通する勘のようなものだ。
大企業の社長であるなら、本音を笑顔で隠すことくらいおかしくも何ともない。
だが奥底にどこか黒い邪心を感じるのだ。

予定変更だな。
横澤の言葉に、嵯峨も桐嶋も頷いた。

*****

ありがとうございます。助かりました。長谷川さん。
後部座席に乗り込んだ律は、運転する男に礼を言った。
そして男が渡してくれた缶入りの緑茶を飲みながら、安堵のため息をつく。
車を運転する男は「どういたしまして」と笑った。
彼は現在の社長の秘書であり、嵯峨たちが社長と面会したときにコーヒーを出した男だった。

夕方、律君の同僚って人が社長に会いに来たよ。話を聞いてもしやと思ったんだ。
長谷川はバックミラー越しに律を見ながら、そう言った。
律は「そうですか」と答えながら、シートに身を沈めた。
脱出できた開放感、嵯峨たちが捜してくれているんだという喜び。
だが今は疲労が勝っていた。

表玄関の方に張り込んでいる人がいた。あれは多分律君の同僚じゃないのかな。
長谷川がにこやかな笑顔で続けると、律は「え?」と声を上げた。
店の誰かが正面の玄関を見張っているなら、その人にも律の脱出を伝えなくてはいけないだろう。

よかったよ。勝手口から出て来てくれて。彼らの目に留まらずに連れ出せる。
長谷川は律を振り返って「そっちに賭けたんだ」とニンマリと笑う。
その笑顔に律は不吉なものを感じて、思わず身を乗り出す。
だがすぐに眩暈を感じて、再びシートに沈み込んだ。

律君はもう会社に戻らないって約束してくれた。
それはもちろん君の本心なんだと思う。
でも律君がこの世に存在する限り、旧社長一派は諦めてくれないんだ。
何せ実の息子を監禁してまで、考えを変えさせようって言うのだから。
つまり社長にとって、邪魔な存在なんだよね。

長谷川は律を振り返ることなく、まるで歌うように淡々と喋っている。
ふと窓の外を見ると、車は人通りのない細い道に入っていた。
どうにも穏やかではない展開に「止めてください」と律は声を上げる。
だが叫んだつもりが、囁くような細い声しかでなかった。

クスリが効いてきたみたい。
長谷川が小さく笑い声を立てるのと、律の手から緑茶の缶が滑り落ちるのはほとんど同時だった。
襲ってくる急速な眠気に逆らえず、律はついに目を閉じた。
長谷川はまだ何か喋っているようだが、もう何も聞こえない。
何とか実家から逃げた律は、新たな追っ手に捕まってしまった。

誰もいない何も見えない静寂の刻。
律を乗せた車は、闇の中を疾走していた。

【続く】
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