戦い3題

【生きるか死ぬかただそれだけの世界で】

なぜここにいるのだろう?
真っ暗な部屋で目覚めた律は、懸命に考えをめぐらせる。
だがいくら考えても、楽観的になれる要素は1つもなかった。

今日は久しぶりに実家に帰ってきた。
日本を代表する大企業小野寺ホールディングス。
律はその創業者一族の1人息子であり、将来は日本の経済界のトップに君臨するはずだった。
だがある日家を飛び出して、新宿歌舞伎町のクラブ「エメラルド」のホストになった。
連れ戻して後を継がせようとする親を黙らせるために、父親の横領を内部告発した。

自分の親をいわば「売った」形になったが、律に後悔はなかった。
父親が横領をして遊興費に当てていることを知ったのは、家出をする直前だ。
末端の社員たちは懸命に働いているのに、トップである父親が横領をする。
それは許されないことだし、会社のためにならないと思った。
だから律は心を鬼にして、自分の父親を告発したのだ。

その後の律の実家は、まさしく修羅場となった。
父親は激しく律を責めたし、母親は泣き叫んだ。
律はそんな両親を捨てて、再びクラブ「エメラルド」に戻った。
そしてそれ以来、実家とは疎遠になっていた。

今回実家に戻ったのは、事情があった。
律が働くクラブ「エメラルド」がトラブルに巻き込まれて、ドラッグの売人に襲撃を受けたのだ。
律は父の失脚後に会社を仕切っている新社長に、この件を収めてもらうよう頼んだ。
新社長は父親の部下であった男で、律も子供の頃から知っている人物だ。
トラブル収拾の交換条件として、律は絶対に会社を継がないことを約束した。
今日はそのことをはっきりと両親に告げ、決別するために来たのだ。
そして2度と実家には来ないつもりだった。

だが両親らと話している途中から記憶がない。
そして気が付くと真っ暗な部屋にいた。
正確には目を塞がれており、手足も縛られて転がされていたのだ。
何とか這いずって部屋の様子を探ろうと思ったが、ある程度以上動こうとすると手首が引かれて傷む。
どうやら後手に縛られた手はどこかに繋がれているようだ。

なぜこんなことに?いったい誰が?ここは何処だ?
律は懸命に考えをめぐらせる。
だがいくら考えても、楽観的になれる要素は1つもなかった。

*****

律の行方がわからない。
クラブ「エメラルド」に現れた嵯峨は、焦燥しきった顔でそう言った。

昨日律は店を休んでいた。
実家に帰らなくてはならなくなったので、1日お休みをください。
事前に律にそう言われたので、店長の横澤は休みを許可した。
だが今日は律も恋人の嵯峨も出勤日なのに、現れたのは嵯峨だけだった。

律の行方がわからない。
昨日から帰ってこないんだ。携帯も通じない。
嵯峨の言葉に、出勤してきていた他のホストたちが顔を見合わせた。
実家に帰ったんだろ?泊まってるんじゃないのか?
至極当然の疑問を口にしたのは、最近この店で働き始めた桐嶋だった。
だが嵯峨は首を振った。

律の実家には行ってみた。来ていないと言われた。
嵯峨が憔悴しきった顔でそう言うのを聞いて、ホストたちもただ事ではないと悟る。
千春が「まさか、どこかで事故とか」と口走ると、慌てて口を噤んだ。

心当たりの場所はないの?
美濃の質問に、嵯峨は首を振った。
律は俺と一緒にいるために、全部捨てたんだ。家族も友人も。
嵯峨がポツリとそう言うと、他のホストたちもハッとした表情になった。
家を継ぐために連れ戻された律は、その家自体を壊して戻ってきた。
帰る場所はクラブ「エメラルド」以外にはない。

律が実家に帰ったのは、この前のトラブルと関係があるんですか?
冷静な声でそう聞いてきたのは、羽鳥だった。
嵯峨が黙って頷くと、全員が不安で顔を曇らせる。
クラブ「エメラルド」は先日、ドラッグの売人に銃撃されるという事件があった。
それを実家のコネを使って、収めてしまったのが律だったのだ。
まさかその件のからんで窮地に陥っているのだろうか?

店は臨時休業にする。律を捜そう。
沈黙を破って宣言したのは、もちろん店長の横澤だった。
真面目な性格の律が、ラブラブ同棲中の嵯峨に黙って姿を消すなど異常事態だ。
何かがあったことは間違いないのだから、とにかく無事を確認するべきだろう。
もし何かの危機に瀕しているなら、助け出さなくてはならない。

*****

律。どうしても会社を継ぐ気はないのか?
不意に聞こえた声に、律はビクリと身体を震わせた。
相変わらず縛られ、目を塞がれた状態であり、どのくらい時間が経ったかわからない。
だが聞こえてきた声は誰のものかすぐわかる。
幼い頃から聞きなれた、父親の声だった。

どうやらここは自宅、しかも自分の部屋らしい。
においとか、ベットの感触で律はそれを確信していた。
何よりも両親と話をしている最中に急激に眠くなり、意識が飛んだのだ。
母親が淹れた紅茶に何かが混入されていたと思うのが正解だろう。
つまり両親によって、監禁されてしまったということだ。
わかってはいたし、諦めてもいた。
だがこうして父親の声を聞かされれば、やはりショックだった。

今、会社の経営は揺れている。
もう1度小野寺家に経営を取り戻すチャンスなんだ。
だから今お前が戻って、お前が会社を継げ。
そして私を会社に戻すんだ。
そうすれば内部告発の件は、水に流してやる。
実の父親のあまりに冷たい声と言葉。
律は背筋に寒気を感じて、身体を震わせた。

俺は戻りません。何度言われても変わりませんから。
視界を塞がれている律は、声がした方に顔を向けて、そう答えた。
では考えが変わるまでそうしていろ。
冷たく言い放つ父親に律はポツリと「時間の無駄です」と言い返す。
すると首筋に小さな冷たい物体を押し付けられた。ガラスの小瓶だ。
思わず「ひっ!」と声をあげると、父親の渇いた笑い声が聞こえた。

何でも言うことを聞く薬だ。
どうしても折れてくれないなら、これを注射する。
足音とドアの音がして、人の気配が遠ざかった。
どうやらまた1人で取り残されてしまったらしい。

自分の両親はこんな人間だったのか。
会社のために、自分の権力や財力のために実の息子を監禁する。
あまつさえ怪しげな薬物を投与しようとするなんて。
そんな暴挙を平然とできる人物だったのか。

生きるか死ぬかただそれだけの世界で、律は独りだ。
律の実家はセキュリティは無駄にしっかりしているから、外部から侵入などできない。
つまり嵯峨が助けに来てくれたところで、その手は届かない。
律が自力で切り抜けなくてはいけないのだ。

今の自分に何ができるのか。どうすればいいのか。
律は必死に考えをめぐらせた。

【続く】
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