SMILE5
【困ったように】
困ったように笑う表情が、かわいらしい。
でもそれこそが最大の武器だってこと、気付いてないのかな?
「小野寺君、ちょっといいかな?」
「あ、長谷川さん」
とある日の丸川書店、エメラルド編集部。
そのとき席にいたのは、美濃奏と小野寺律の2人だった。
他の編集部員たちは打ち合わせや会議で席を外している。
「何か久しぶりですね。」
律がそう言って、軽く会釈をした。
美濃はそんな2人など気にしない素振りで、パソコンに向かっている。
だが美濃は気付いていた。
長谷川は昨日から何回か、エメラルド編集部に来ている。
そして物陰からこちらの様子をうかがっている。
おそらく高野がおらず、律だけがいるタイミングを計っているのだろう。
美濃はそう思った。
以前、彼が律を飲みに行こうと誘ったとき、高野が横からことわったせいだと思う。
長谷川はきっと、高野に邪魔されずに律と話をしたいのだ。
案の定、高野がいないと見るや、長谷川は律に駆け寄ってきた。
*****
「実は最近、角先生の調子が悪くて。」
「スランプですか?」
「いや、身体の問題。どうやらすっかり夏バテしてしまったみたいなんだ。」
「大丈夫なんですか?」
「とにかく食欲が全然なくなっちゃってね。」
「それは心配ですね。」
律は心配そうにそう言った。
上っ面だけではなく、心の底から心配しているのがわかる。
角遼一は、小野寺出版で律が担当していた作家だった。
現在丸川書店の担当がこの長谷川。
律と長谷川はそれが縁で、顔見知りになったのだ。
そのきっかけとなった人物であり、かつて担当していた作家だった角の不調。
文芸大好き青年、律が気にならないはずがない。
「それで頼みがあるんだ。」
「なんでしょう?」
「先生がね、小野寺君が以前よく差し入れてくれたお弁当なら食べられそうだって言ってて。」
「あぁ、あれですか。」
「どこで買える物なのか、教えてもらおうと思って。」
仕事をしている振りで聞いていた美濃の感想は「なーんだ、つまらない」だった。
高野が律を気に入っていて、とにかくかわいがっている。
過保護で長谷川など部外者が仲良くすることを、特に嫌う。
ここでまた長谷川が「飲みに行こう」などと言い出したら、面白いかも。
美濃は笑顔の裏で何とも悪趣味なことを考えていた。
*****
「あれは俺の実家でよく行く料亭のものなんです。」
「料亭?」
「はい。メニューにはない特別にお願いしたものなんです。角先生は舌が肥えてらっしゃるので。」
「うわ、じゃあむずかしいなぁ。」
「頼めば何とかなると思います。そこの板前さん、角先生のファンなんで。」
「でもそれ、高いんじゃない?」
「それほどでも。2000円ほど払ってました。ほとんどご厚意でやってもらってました。」
2000円。
自分たちの昼食と考えると高価だが、大作家・角遼一への差し入れなら決して高い額ではない。
さすが七光り、庶民とは違う。
美濃は内心、ひそかに感心していた。
実家の家族とよく行く飲食店なんて、庶民感覚ならファミリーレストランぐらいじゃなかろうか。
もしくは焼肉、回転寿司、ファーストフード。。。
ぜったいに料亭なんて単語は出てこない。
それにしても無防備だと思う。
料亭の弁当を安価で手に入れて作家に差し入れるなんて、簡単にはできることではない。
しかも夏バテして食欲がない作家に、それならば食べられると言わしめる逸品。
そのコネクションは、編集者としては立派な武器だ。
律はそれを惜しみなく、長谷川に教えるつもりらしい。
俺だったらもう少しもったいつけるのにな、と美濃は思う。
*****
「もしよろしければ、今日の帰りにご案内しますよ。」
「いいの?」
「もちろんです。一度紹介すれば、以後は電話で頼めば作ってくれると思います。」
「本当にありがとう。感謝するよ。」
「いえ。俺も早く角先生の新作を読みたいですから。」
困ったように笑う律の表情が、かわいらしい。
でもそれこそが最大の武器だってこと、気付いてないのかな?
美濃は律の笑顔を盗み見ながら、そう思う。
屈託のない無邪気な、そして謙虚な笑顔。
こんな顔で「頑張ってください」なんて言われたら。
たいていの作家は、早く原稿を上げようと思うだろう。
まだエメラルド編集部に配属されたばかりの律に、漫画編集のあれこれを教えていたときも。
「よくできたね」と声をかけると、やはり律はこんな風に笑った。
この笑顔を見ると、もっともっといろいろ教えてやろうと思ってしまう。
「ええと、じゃあ6時に正面玄関でいいかな?」
「あ~、待ち合わせは社外にしませんか?また高野さんに邪魔されると困るので。」
「ああ、そうか。高野は厳しいからね。」
長谷川と律が声を潜めて、コソコソと相談し始めた。
待ち合わせるに当たっての最大の難関は、やはり高野だ。
さぁ、2人はうまく待ち合わせできるだろうか?
高野の目をかすめて、うまく会社を出ることができるのか。
そして無事に待ち合わせて出かけられたとして、その後高野にバレずにすむか?
またまた心に浮かぶ悪趣味な好奇心。
美濃は何も興味がないという素振りで、いつもの笑顔をほんの少しだけ濃くした。
この先の展開が楽しみだ。
【終】
困ったように笑う表情が、かわいらしい。
でもそれこそが最大の武器だってこと、気付いてないのかな?
「小野寺君、ちょっといいかな?」
「あ、長谷川さん」
とある日の丸川書店、エメラルド編集部。
そのとき席にいたのは、美濃奏と小野寺律の2人だった。
他の編集部員たちは打ち合わせや会議で席を外している。
「何か久しぶりですね。」
律がそう言って、軽く会釈をした。
美濃はそんな2人など気にしない素振りで、パソコンに向かっている。
だが美濃は気付いていた。
長谷川は昨日から何回か、エメラルド編集部に来ている。
そして物陰からこちらの様子をうかがっている。
おそらく高野がおらず、律だけがいるタイミングを計っているのだろう。
美濃はそう思った。
以前、彼が律を飲みに行こうと誘ったとき、高野が横からことわったせいだと思う。
長谷川はきっと、高野に邪魔されずに律と話をしたいのだ。
案の定、高野がいないと見るや、長谷川は律に駆け寄ってきた。
*****
「実は最近、角先生の調子が悪くて。」
「スランプですか?」
「いや、身体の問題。どうやらすっかり夏バテしてしまったみたいなんだ。」
「大丈夫なんですか?」
「とにかく食欲が全然なくなっちゃってね。」
「それは心配ですね。」
律は心配そうにそう言った。
上っ面だけではなく、心の底から心配しているのがわかる。
角遼一は、小野寺出版で律が担当していた作家だった。
現在丸川書店の担当がこの長谷川。
律と長谷川はそれが縁で、顔見知りになったのだ。
そのきっかけとなった人物であり、かつて担当していた作家だった角の不調。
文芸大好き青年、律が気にならないはずがない。
「それで頼みがあるんだ。」
「なんでしょう?」
「先生がね、小野寺君が以前よく差し入れてくれたお弁当なら食べられそうだって言ってて。」
「あぁ、あれですか。」
「どこで買える物なのか、教えてもらおうと思って。」
仕事をしている振りで聞いていた美濃の感想は「なーんだ、つまらない」だった。
高野が律を気に入っていて、とにかくかわいがっている。
過保護で長谷川など部外者が仲良くすることを、特に嫌う。
ここでまた長谷川が「飲みに行こう」などと言い出したら、面白いかも。
美濃は笑顔の裏で何とも悪趣味なことを考えていた。
*****
「あれは俺の実家でよく行く料亭のものなんです。」
「料亭?」
「はい。メニューにはない特別にお願いしたものなんです。角先生は舌が肥えてらっしゃるので。」
「うわ、じゃあむずかしいなぁ。」
「頼めば何とかなると思います。そこの板前さん、角先生のファンなんで。」
「でもそれ、高いんじゃない?」
「それほどでも。2000円ほど払ってました。ほとんどご厚意でやってもらってました。」
2000円。
自分たちの昼食と考えると高価だが、大作家・角遼一への差し入れなら決して高い額ではない。
さすが七光り、庶民とは違う。
美濃は内心、ひそかに感心していた。
実家の家族とよく行く飲食店なんて、庶民感覚ならファミリーレストランぐらいじゃなかろうか。
もしくは焼肉、回転寿司、ファーストフード。。。
ぜったいに料亭なんて単語は出てこない。
それにしても無防備だと思う。
料亭の弁当を安価で手に入れて作家に差し入れるなんて、簡単にはできることではない。
しかも夏バテして食欲がない作家に、それならば食べられると言わしめる逸品。
そのコネクションは、編集者としては立派な武器だ。
律はそれを惜しみなく、長谷川に教えるつもりらしい。
俺だったらもう少しもったいつけるのにな、と美濃は思う。
*****
「もしよろしければ、今日の帰りにご案内しますよ。」
「いいの?」
「もちろんです。一度紹介すれば、以後は電話で頼めば作ってくれると思います。」
「本当にありがとう。感謝するよ。」
「いえ。俺も早く角先生の新作を読みたいですから。」
困ったように笑う律の表情が、かわいらしい。
でもそれこそが最大の武器だってこと、気付いてないのかな?
美濃は律の笑顔を盗み見ながら、そう思う。
屈託のない無邪気な、そして謙虚な笑顔。
こんな顔で「頑張ってください」なんて言われたら。
たいていの作家は、早く原稿を上げようと思うだろう。
まだエメラルド編集部に配属されたばかりの律に、漫画編集のあれこれを教えていたときも。
「よくできたね」と声をかけると、やはり律はこんな風に笑った。
この笑顔を見ると、もっともっといろいろ教えてやろうと思ってしまう。
「ええと、じゃあ6時に正面玄関でいいかな?」
「あ~、待ち合わせは社外にしませんか?また高野さんに邪魔されると困るので。」
「ああ、そうか。高野は厳しいからね。」
長谷川と律が声を潜めて、コソコソと相談し始めた。
待ち合わせるに当たっての最大の難関は、やはり高野だ。
さぁ、2人はうまく待ち合わせできるだろうか?
高野の目をかすめて、うまく会社を出ることができるのか。
そして無事に待ち合わせて出かけられたとして、その後高野にバレずにすむか?
またまた心に浮かぶ悪趣味な好奇心。
美濃は何も興味がないという素振りで、いつもの笑顔をほんの少しだけ濃くした。
この先の展開が楽しみだ。
【終】