快感3題

【ネクタイ】

ダメです。お客様。
柳瀬が何も言う前に、店長は首を振った。

千秋のために何かしたい。
そう思った柳瀬の目に留まったのが、クラブ「エメラルド」のホームページだった。
隅の目立たないスペースに、ホストの募集が掲載されていたのだ。
自分も千秋と同じ店で働ければ、もっと千秋に近づける。
羽鳥と同じ店に来てしまえば、勝ち目があるかもしれない。
そんな衝動から、柳瀬は初めて客ではなくホスト志望の者としてクラブ「エメラルド」へ来た。

だが顔見知りの店長は柳瀬の顔を見るなり「ダメです。お客様」と首を振った。
かろうじて向かい合って座ったものの、持参した履歴書を開いてさえくれなかった。
柳瀬にはその理由がわからなかった。
今の仕事を辞めることに迷いはないし、容姿に関してもさほど問題ないと思う。
よく人からは美人だと言われるし、その気になれば羽鳥以上の売れっ子になれる自信もある。

お客様は千春のご友人ですよね?
客として来店する時には、いつもテキパキとしていた印象の店長が言いにくそうに切り出す。
信用されていないのだろうか?
ホストになったら、勤務時間中は千秋との関係はきちんと切り分けるつもりでいるのに。
納得いかない柳瀬が口を開こうとする前に、店長が言葉を挟む。

私が心配するのは千春のことではありません。羽鳥のことです。
その言葉に、柳瀬はカッと頭に血が上った。
この店長にはバレている。
羽鳥と千秋の関係は知ってて当然だが、柳瀬の想いも、この店に勤めようと思った理由も。

余計なことですが、羽鳥のことをもう少し見てやって下さい。
千春のことをどう思っているか。千春とどう接しているか。
その上でやはり千春の近くにいたいということであれば、またいらしてください。
店長は立ち上がり、柳瀬に一礼すると、店の奥の扉の中に姿を消した。
従業員専用の、今の柳瀬には入れない場所だ。
テーブルの上には見てもらえなかった履歴書と「横澤隆史」と書かれた店長の名刺が残された。

羽鳥のことを見るとは、どういう意味なのだろう。
誰もいなくなったクラブ「エメラルド」の客席で、柳瀬は考える。
あの店長には見えていて、自分には見えない何ががあるのだろうか。

*****

トリって本当に俺のこと、好きなのかなぁ?
千秋の言葉に、雪名と律は思わず顔を見合わせる。
だが次の瞬間、2人は声を上げて笑った。
陽気な雪名が笑うのはよくあるが、もの静かな律がここまで声を立てて笑うのは珍しい。

開店直前のクラブ「エメラルド」では、だいたい千秋は雪名と一緒にいる。
他のホストたちはいわゆる同伴-客と食事などをしてから店に出てくることが多いからだ。
同伴を受けないのは、学生の雪名とどうしてもそういうのが苦手な千秋だけだ。
今日は同伴のない律も加わり、開店前の短いひとときのおしゃべりを楽しんでいた。

先週久々に2人で休みだったのに、トリは一之瀬さんに呼び出されて、出かけちゃってさ。
笑われたことに少々気分を害した千秋が、口を尖らせながら訴える。
羽鳥の前では気にしていない振りをしたが、やはり気にかかるのだ。
その日は結局柳瀬と食事をしたが、同じ事を言ったら「羽鳥と別れちまえ」とにべもなかった。

この店で一番ラブラブなカップルは?って聞かれたら、俺は迷わす羽鳥さんと千春さんって答えますよ。
雪名が真面目な顔でそう言うと、律もおだやかな微笑とともに頷く。
この2人だって、このクラブ「エメラルド」に恋人がいて、ラブラブだというのに。
なぜ羽鳥と千秋のことだけ、そんな風に言う理由がわからない。

昨日トリがしてたネクタイだって、一之瀬さんのプレゼントなんだ。
あんな色、トリがいつも着ているスーツには合わないのに。
千秋はなおもそう言って、頬を膨らませた。
年甲斐もないとはわかっているが、割り切れない思いが雪名と律に伝わらないのがもどかしい。

羽鳥さんのネクタイって、お客様からのプレゼント以外は千春さんが選んでいるんでしょう?
不意にずっと黙っていた律が口を開いた。
千秋は「わかるの?」と聞き返すと、律は答えの代わりにニッコリと笑う。

だって羽鳥さんはスーツを新調する時、いつも千春さんの選んだネクタイに合わせてますから。
そうそう!羽鳥さんって何事も千春さん中心です。もうありえないほど!
あまりにも意外な律と雪名の言葉に、千秋は驚き、言葉が出なかった。
この2人にはどうやら丸わかりだったらしい羽鳥の行動に全然気付けていなかったらしい。
そもそも羽鳥のスーツなんて、気にしたことなどなかった。

羽鳥さんがお客様と出かけるのは仕事熱心だからですよ。羽鳥さんの1番は千春さんです。
律があまりにもきっぱり断言するので、ついに千秋も笑った。
ここまで言い切られれば、もう反論の余地もない。
それに千秋の小さな不安は、きれいさっぱり消し飛んでしまった。
千秋は小さく「聞いてくれて、ありがとう」と礼を言った。
おかげですっきりした気分で、開店の時間を迎えることができるからだ。

*****

もしできるなら、やらせてもらいたいんですが。
羽鳥の言葉はひかえめだったが、迷いがなかった。

その日も1日の営業が終わったのは、すでに早朝。
すでに帰宅の準備を終えた横澤と嵯峨と羽鳥が、客席でくつろいでいた。
この3人は身支度が早い。
ちなみに嵯峨と羽鳥は着替えが遅い恋人を待っており、鍵を閉めるので横澤は全員の帰宅待ちだ。
先程までの喧騒が嘘のように静かな店内。
タバコの煙を燻らせながら「まだまだ先の話なんだが」切り出したのは横澤だった。

いつかクラブ「エメラルド」の2号店を出すとしたら、そこの店長をやる気はあるか?
横澤はそう言いながら、嵯峨と羽鳥の顔を交互に見る。
嵯峨と羽鳥からしてみると、いささか唐突ではある。
だが横澤は前々から考えていたことなのだろう。
何気なく切り出してはいるが、口調は真剣だった。

まったく興味がないことはないが。
嵯峨がタバコの煙と一緒に、あいまいな返事を返す。
だが羽鳥は「もしできるなら、やらせてもらいたいんですが」と即答した。
思わぬ前向きな態度に、横澤と嵯峨は顔を見合わせる。

羽鳥がクラブ「エメラルド」にいるのは、千秋のためだ。
親の病気が治って、妹も大学を卒業したら、千秋はホストを辞めるだろう。
羽鳥は千秋がホストを辞めたその後のことを考えている。
羽鳥も千秋と状況は変わらないが、親の病気が治ってもホストを続けるつもりなのだ。

将来に迷った時期もある。
今さら勤め人に戻るくらいなら、この世界を極めたい。
だから気が乗らない客の誘いだって受けるし、チャンスがあれば迷わず手を伸ばす。
そしてもう千秋に2度とホストなどさせないほどの財力を手にしたいと思っている。
横澤にも嵯峨にも、羽鳥の覚悟は痛いほどよくわかった。

わかった。もっと話が具体的になったら、また相談する。
横澤はサラリと話を切ったのと、着替えを終えた律と千秋が出てきたのはほぼ同時だった。

【続く】
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