快感3題
【ミルク】
千秋、何か飲んだら?
柳瀬が飲み物を勧めると、隣に座る青年は申し訳なさそうに笑う。
そしてちょっとだげ迷ったような素振りの後「じゃあホットミルクもらうね」と笑った。
柳瀬優は友人が勤めるクラブ「エメラルド」にもう何年も通っている。
だが実質通った回数は、すごく少ない。
ごくごく平均並みの給料で暮らす柳瀬には、毎日ホストクラブに通い詰める財力はないからだ。
毎月給料が出ると1回、ボーナスが出たり余裕がある月にはもう1回。
それが柳瀬の限界だった。
そこまでして柳瀬が足を運ぶ理由はただ1つ、友人の千秋のせいだ。
千秋は千春という源氏名で、クラブ「エメラルド」で働いている。
病気の親の治療費と、妹の学費を稼ぐために働く千秋の売り上げに少しでも貢献したい。
それが千秋に想いを寄せる柳瀬の、小さなアプローチだった。
柳瀬はもう10年以上も、千秋に好意を寄せている。
だが千秋本人は柳瀬のことを親しい友人だとしか思っていない。
千秋が好きなのは、同じくここでホストをしている幼なじみの羽鳥だ。
羽鳥も千秋と同じく病気の親を抱えており、その治療費のためにホストをしていた。
今の状態では羽鳥に勝てない。柳瀬はそう思っている。
羽鳥は千秋よりも先にホストをしていたが、わざわざ千秋のために店を移ったのだ。
前に勤めていた店は、クラブ「エメラルド」より過激な店だが、給料はよかったはずだ。
そこまでして千秋を支える羽鳥には勝てない。
だから友人という立ち位置のまま、こうして千秋の店に通っている。
千秋はいくら勧めても、高い飲み物は頼まない。
頼むのはいつも決まって烏龍茶か、ミルクだった。
酒は決して弱くないはずだが、いつも「最近飲みすぎてるから」と言う。
ノンアルコール飲料でも、クラブ「エメラルド」はジュースもそこそこ高い。
生の果物をオーダーが入ってから搾っているからだ。
つまり千秋は柳瀬の負担にならないように、安い飲み物を選んでいるのだ。
千秋のために他に出来ることはないだろうか?
それが今の柳瀬の最大の悩みだった。
*****
悪いが、でかける。
羽鳥は携帯電話を切ると、千秋にそう声をかけた。
千秋は「え?」と思わず聞き返したが、すぐに「いってらっしゃい」と作り笑顔で答えた。
千秋と羽鳥はマンションの同じ部屋で一緒に暮らしている。
そして今日は久しぶりに2人とも休日だった。
店は年中無休で営業しているので、ホストたちは交代でシフトを組んで休みを取る。
ホストたちもギリギリの人数でやっているから、あまり無理は言えない。
だからこうして2人揃って休みというのは、実は月に1回くらいしかなかった。
そして今日はその貴重な休みだったのだ。
基本的に千秋は出不精であるし、羽鳥も休日はのんびりしたい方だ。
だからこんな日には、2人は基本的には何もしない。
2人でテレビを見たり、一緒に食事を作ったり、ただゴロゴロ抱き合ったりする。
そんな2人だけの穏やかな時間が、一番幸せなのだと思える。
今日もそんな時間を過ごしていたのだが、羽鳥に電話がかかってきた。
千秋には携帯電話越しでも相手の声がはっきりと聞こえた。
クラブ「エメラルド」の常連客、一之瀬絵梨佳だ。
女性実業家として成功している一之瀬は、毎月多額の金を店に落としてくれる。
そして羽鳥が大のお気に入りで、来店すれば羽鳥を必ず指名した。
その一之瀬がわざわざ電話で羽鳥を呼び出したのだ。
柳瀬でも呼んで、一緒にメシでも食ったらどうだ?
羽鳥が外出着に着替えながらそう言ったので、千秋は内心がっかりする。
つまり羽鳥は一之瀬に食事に誘われたのだ。
一緒に食事はできないし、きっと夜遅くまで帰って来ないのだろう。
そうだね。いつも店に来てもらってるし、たまには優にご馳走しようかな。
千秋は内心の失望を隠して、笑顔で答えた。
仕事熱心で真面目な羽鳥は、こうして休みの日でも客からの呼び出しはことわらない。
誘われれば、よほどのことがない限りは出向いていく。
ホストとしてはその生真面目さに頭が下がるが、恋人としてはもどかしい。
じゃあ行ってくる。
羽鳥は手早く身支度をすると、部屋を出て行った。
千秋はなんともやりきれない気分で、残された部屋でしばらくぼんやりしていた。
そして「よし!」と無理矢理明るい声を出しながら、携帯電話を取り出した。
*****
わかった。今から行く。
柳瀬は電話を切ると、ため息をついた。
最初に来たのは羽鳥からのメールだった。
千秋が家で1人だから、時間があるなら一緒に食事でもしてやってほしいと書いてあった。
願ってもないことではあるが、面白くない。
柳瀬にとって羽鳥は恋敵であり、千秋を奪った憎い相手でもある。
そんな相手から「千秋と食事でもしろ」などと言われると、馬鹿にされたような気分になるのだ。
だがその後、千秋から電話で「夕ご飯、一緒に食べようよ」と言われれば、話は別だ。
おそらく羽鳥が勧めた話なのだろうとわかっていても、どうしても浮かれてしまう。
千秋はあまり外食は好きではないのだし、何か胃に優しいものでも作ってやろうか。
そんなことを思いながら、繁華街のスーパーへと向かっていた柳瀬はふと足を止めた。
行き交う人波の合間に見えたのは、1組のカップル。
背の高い男は羽鳥で、女が羽鳥にぶら下がるように腕をからませている。
女の方は名前は知らないが、見覚えがあった。
確かクラブ「エメラルド」の常連で、羽鳥をよく指名していた女性客だ。
トリちゃん、今日はとことん飲もうね!
女の大きな声がここまで聞こえる。
羽鳥の声は聞こえないが、女に笑顔を向けていた。
そして女はますます羽鳥に身体を寄せて、2人はそのまま雑踏の中に消えた。
だが柳瀬の心には、ざらざらとした不快感が残った。
わかっている。羽鳥も千秋もホストなのだ。
恋人がいたってそんな素振りなど見せず、目の前の客に笑顔を向ける。
あたかもその客が特別であるように思わせるのが、ホストの腕だ。
だが千秋の想い人である羽鳥が女と親しげに歩くことが、どうしても許せない。
千秋はこれを許せるのだろうか。
ホストクラブなどという場所で、酒よりもミルクが似合う純情な千秋は納得しているのだろうか。
柳瀬はどうにも割り切れない気持ちのまま、千秋のもとへと向かった。
【続く】
千秋、何か飲んだら?
柳瀬が飲み物を勧めると、隣に座る青年は申し訳なさそうに笑う。
そしてちょっとだげ迷ったような素振りの後「じゃあホットミルクもらうね」と笑った。
柳瀬優は友人が勤めるクラブ「エメラルド」にもう何年も通っている。
だが実質通った回数は、すごく少ない。
ごくごく平均並みの給料で暮らす柳瀬には、毎日ホストクラブに通い詰める財力はないからだ。
毎月給料が出ると1回、ボーナスが出たり余裕がある月にはもう1回。
それが柳瀬の限界だった。
そこまでして柳瀬が足を運ぶ理由はただ1つ、友人の千秋のせいだ。
千秋は千春という源氏名で、クラブ「エメラルド」で働いている。
病気の親の治療費と、妹の学費を稼ぐために働く千秋の売り上げに少しでも貢献したい。
それが千秋に想いを寄せる柳瀬の、小さなアプローチだった。
柳瀬はもう10年以上も、千秋に好意を寄せている。
だが千秋本人は柳瀬のことを親しい友人だとしか思っていない。
千秋が好きなのは、同じくここでホストをしている幼なじみの羽鳥だ。
羽鳥も千秋と同じく病気の親を抱えており、その治療費のためにホストをしていた。
今の状態では羽鳥に勝てない。柳瀬はそう思っている。
羽鳥は千秋よりも先にホストをしていたが、わざわざ千秋のために店を移ったのだ。
前に勤めていた店は、クラブ「エメラルド」より過激な店だが、給料はよかったはずだ。
そこまでして千秋を支える羽鳥には勝てない。
だから友人という立ち位置のまま、こうして千秋の店に通っている。
千秋はいくら勧めても、高い飲み物は頼まない。
頼むのはいつも決まって烏龍茶か、ミルクだった。
酒は決して弱くないはずだが、いつも「最近飲みすぎてるから」と言う。
ノンアルコール飲料でも、クラブ「エメラルド」はジュースもそこそこ高い。
生の果物をオーダーが入ってから搾っているからだ。
つまり千秋は柳瀬の負担にならないように、安い飲み物を選んでいるのだ。
千秋のために他に出来ることはないだろうか?
それが今の柳瀬の最大の悩みだった。
*****
悪いが、でかける。
羽鳥は携帯電話を切ると、千秋にそう声をかけた。
千秋は「え?」と思わず聞き返したが、すぐに「いってらっしゃい」と作り笑顔で答えた。
千秋と羽鳥はマンションの同じ部屋で一緒に暮らしている。
そして今日は久しぶりに2人とも休日だった。
店は年中無休で営業しているので、ホストたちは交代でシフトを組んで休みを取る。
ホストたちもギリギリの人数でやっているから、あまり無理は言えない。
だからこうして2人揃って休みというのは、実は月に1回くらいしかなかった。
そして今日はその貴重な休みだったのだ。
基本的に千秋は出不精であるし、羽鳥も休日はのんびりしたい方だ。
だからこんな日には、2人は基本的には何もしない。
2人でテレビを見たり、一緒に食事を作ったり、ただゴロゴロ抱き合ったりする。
そんな2人だけの穏やかな時間が、一番幸せなのだと思える。
今日もそんな時間を過ごしていたのだが、羽鳥に電話がかかってきた。
千秋には携帯電話越しでも相手の声がはっきりと聞こえた。
クラブ「エメラルド」の常連客、一之瀬絵梨佳だ。
女性実業家として成功している一之瀬は、毎月多額の金を店に落としてくれる。
そして羽鳥が大のお気に入りで、来店すれば羽鳥を必ず指名した。
その一之瀬がわざわざ電話で羽鳥を呼び出したのだ。
柳瀬でも呼んで、一緒にメシでも食ったらどうだ?
羽鳥が外出着に着替えながらそう言ったので、千秋は内心がっかりする。
つまり羽鳥は一之瀬に食事に誘われたのだ。
一緒に食事はできないし、きっと夜遅くまで帰って来ないのだろう。
そうだね。いつも店に来てもらってるし、たまには優にご馳走しようかな。
千秋は内心の失望を隠して、笑顔で答えた。
仕事熱心で真面目な羽鳥は、こうして休みの日でも客からの呼び出しはことわらない。
誘われれば、よほどのことがない限りは出向いていく。
ホストとしてはその生真面目さに頭が下がるが、恋人としてはもどかしい。
じゃあ行ってくる。
羽鳥は手早く身支度をすると、部屋を出て行った。
千秋はなんともやりきれない気分で、残された部屋でしばらくぼんやりしていた。
そして「よし!」と無理矢理明るい声を出しながら、携帯電話を取り出した。
*****
わかった。今から行く。
柳瀬は電話を切ると、ため息をついた。
最初に来たのは羽鳥からのメールだった。
千秋が家で1人だから、時間があるなら一緒に食事でもしてやってほしいと書いてあった。
願ってもないことではあるが、面白くない。
柳瀬にとって羽鳥は恋敵であり、千秋を奪った憎い相手でもある。
そんな相手から「千秋と食事でもしろ」などと言われると、馬鹿にされたような気分になるのだ。
だがその後、千秋から電話で「夕ご飯、一緒に食べようよ」と言われれば、話は別だ。
おそらく羽鳥が勧めた話なのだろうとわかっていても、どうしても浮かれてしまう。
千秋はあまり外食は好きではないのだし、何か胃に優しいものでも作ってやろうか。
そんなことを思いながら、繁華街のスーパーへと向かっていた柳瀬はふと足を止めた。
行き交う人波の合間に見えたのは、1組のカップル。
背の高い男は羽鳥で、女が羽鳥にぶら下がるように腕をからませている。
女の方は名前は知らないが、見覚えがあった。
確かクラブ「エメラルド」の常連で、羽鳥をよく指名していた女性客だ。
トリちゃん、今日はとことん飲もうね!
女の大きな声がここまで聞こえる。
羽鳥の声は聞こえないが、女に笑顔を向けていた。
そして女はますます羽鳥に身体を寄せて、2人はそのまま雑踏の中に消えた。
だが柳瀬の心には、ざらざらとした不快感が残った。
わかっている。羽鳥も千秋もホストなのだ。
恋人がいたってそんな素振りなど見せず、目の前の客に笑顔を向ける。
あたかもその客が特別であるように思わせるのが、ホストの腕だ。
だが千秋の想い人である羽鳥が女と親しげに歩くことが、どうしても許せない。
千秋はこれを許せるのだろうか。
ホストクラブなどという場所で、酒よりもミルクが似合う純情な千秋は納得しているのだろうか。
柳瀬はどうにも割り切れない気持ちのまま、千秋のもとへと向かった。
【続く】
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