血3題

【抉る】

どうすればこの人は自分を信じて、何もかも預けてくれるんだろう。
雪名はいつもそう思っている。
恋人である男はかわいい顔をしているのに、いつも遠い目をしているからだ。

新宿歌舞伎町にあるクラブ「エメラルド」。
ここが大学生の雪名のアルバイト先だ。
まさか自分がホストクラブでアルバイトをすることになるとは、夢にも思わなかった。
だがいわゆる水商売だとか、風俗営業だなんて暗い印象はない。
店の雰囲気は明るいし、同僚ホストたちも親切で優しい。
何よりもクラブ「エメラルド」には、愛する人がいる。
彼の笑顔のそばにいたいから、雪名は店長の横澤に直談判したのだ。
履歴書を作っていきなり押しかけ、アルバイトは採らないという店長に何度も頭を下げた。
その甲斐あって、雪名は一目惚れしたその男、翔太と恋仲になった。

翔太は初めてホストとして店に出た雪名に一目惚れしたのだと言っていたが、実は違う。
雪名の通っている大学の教授は、男でありながら男にしか興味がない。
特に見目形の麗しい美青年に目がないので、男性OKのホストクラブは大好物ときた。
その教授に連れられて来たこのクラブ「エメラルド」で、テーブルについたのが翔太だった。
その時に雪名は翔太に惹かれたのだ。
そして翔太が雪名に惚れたのは2度目に会った時なのだから、一目惚れではない。

残念なことに翔太は客として来た雪名は覚えていないらしい。
だが雪名はそれも無理からぬことだと思った。
ここに連れてきてくれた教授は本当に酒癖も悪ければ、男癖も悪い。
翔太を指名して、抱きついたり、身体に触りまくったり、髪をいじりまくった。
挙句の果てには、耳たぶに噛み付いたり、顔を舐めたり、もううんざりするほどやりたい放題だった。
それに一緒に連れて来られた学生も何人もいたから、雪名の顔を覚える余裕なんかなかっただろう。

それでも笑顔を絶やさない翔太に、プロとしての気迫と根性を見た。
髪や服を乱されても平然と笑う翔太は、雨に打たれても咲き誇る花のように美しかった。
そんな翔太に、雪名は恋に堕ちたのだ。

*****

先生、今日もご指名、ありがとうございます。
翔太が頭を下げると、男の隣に腰を下ろした。
雪名はそれを嫌な気分で見ていた。

今日は月に1度の男性客限定の営業日だ。
雪名の大学の教授も、毎月この日にだけ来店する。
どうやら女性嫌いなのだろうと、雪名は推測していた。

この日に限っては、雪名はまったくすることがない。
理由はそもそも男なのにホストクラブに来るような客はマニアが多いからだ。
いわゆるオネエ系の客が指名するのは、決まってカッコいい系の嵯峨か羽鳥か美濃。
教授のように男好きの男が指名するのは、かわいい系の翔太か千春か律だ。
雪名のように王道の王子様系は、マニアックな客たちには受けない。

横澤には、この日は休んでいいと言われている。
雪名のようなホストは、この日だけは同席できる雰囲気のテーブルもほとんどないからだ。
だが雪名は必ず出勤する。
料理を運んだり、テーブルを片付けたりという雑用をしながら、じっと翔太を見守る。
あの教授が翔太に何かしないかと心配だからだ。

案の定、開店と同時に現れた教授は、翔太と千春を指名した。
素直で良くも悪くも感情が顔に出てしまう千春は、笑顔が少々引きつっている。
だが翔太は「いつもありがとうござます」と蕩けるような笑顔を向けていた。
完璧なプロの仕事だと、雪名はいつも感心する。

だが本当の翔太は繊細で、自分に自信がなくて、折れそうなほど張り詰めている。
恋人である雪名に対してもそれは変わらない。
どうすればこの人は自分を信じて、何もかも預けてくれるんだろう。
雪名はいつもそう思っている。

*****

お客様、もう止めてください!
悲鳴のようなその声に、雪名だけでなく店中のものがそちらを見た。
声を上げたのは千春で、注意したものの全然怯まない客に困り果てている。
相変わらずマナーが悪い教授は、翔太をソファに押し倒してその上におおいかぶさっていた。

先生、少しお酒が過ぎたようですね。
教授の身体をそっと押しのけて、ソファから身を起こした翔太に、雪名も他のホストたちも驚く。
ネクタイが外され、シャツのボタンも何個か外され、むき出しになった翔太の細い首筋。
白い肌を抉るような歯型がくっきりとついていたからだ。

こんな狼藉も日常茶飯事なんていう雰囲気が悪い店もある。
だがこのクラブ「エメラルド」ではまずそんなことはない。
店長の横澤はそういうことにはことさら神経質なのだ。
めったにない事態にホストたちはみな驚き、顔を見合わせる。

一瞬止まってしまった空気を破ったのは、雪名だった。
つかつかと歩み寄ると、翔太を背中にかばうように2人の間に割って入る。
すっかり泥酔した客には、もう教授の風格はない。
目もトロンとしており「あれ、君は雪名君?」と問いかける声も呂律が怪しい。

この酔っ払い!翔太さんに触るな!
悪態をつく雪名にとって、相手が教授であるとか、客であることは二の次だ。
握った拳が震えて、今にもつかみかかりそうな衝動が止まらなかった。
さすがにまずいとはわかっているが、翔太がこんな男に何かされるのは我慢できない。
だが次の瞬間、カラカラと涼やかな音が雪名の気勢をそいだ。

お客様、お水をどうぞ。
テーブルに氷を浮かべた水のグラスを置いたのは律だった。
律は教授の腕を引くと、ゆっくりとソファに誘導し、自分もその隣に座る。
翔太さんも雪名さんも千春さんも、少し休憩されたらどうですか?
律はそう言って微笑すると、あっさりと店内の空気を落ち着かせてしまった。
他のテーブルについていた横澤もさりげなく律の反対側に座り、接客に加わる。
他のホストたちも「お騒がせしました」と自分たちの客に向き直り、店はすぐに元の喧騒に戻った。
取り残された雪名は、翔太たちと共にホストの休憩部屋へと向かった。

自分の未熟さが、雪名の心を抉る。
決してアルバイトであるとか、学生であることを言い訳にする気などない。
だがいくら翔太のためとはいえ、もう少しで客に暴力を振るっていたかもしれないのだ。
他のホストたちとのレベルの差、そして自分の子供っぽさを見せつけられるようで嫌になる。

早く大人の男になって、この人を守りたい。
雪名は自分の前を歩く翔太の後姿を見ながら、心の底からそう思った。

【続く】
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