血3題

【隠した手首】

俺はどうしようもなく汚れている。
翔太はいつもそう思っている。
恋人である男が綺麗であるから、余計にそう思う。

新宿歌舞伎町にあるクラブ「エメラルド」。
ここが翔太の現在の職場であり、いわゆるホストクラブだ。
ここに居ついてもう2年にもなることが信じられない。
気まぐれで飽きっぽい翔太が、こんなに長く1つの店にいられるのは理由がある。

当初の理由は、この店が珍しく男性もOKの店だからだ。
通常ホストクラブの客は女性であり、男性は入れない店がほとんどだ。
この店は毎日ではないが、男性客も入れる日を設けている。
それに月1度だけ男性客しか入れない日もあったりする。
どうやら生まれついての性格で、翔太は女には興味がない。
惚れるのは男ばかり。
だから男性客も受け入れるホストクラブを転々としていた。

トラブルは絶えなかった。
止せばいいのに、同僚ホストや客の男に惚れてしまう。
若い頃は気になる男には躊躇せずに言い寄った。
同じ性癖の同僚ホストと客の取り合いをしたこともある。
逆に言い寄られて好きでもない男と関係を持って、付きまとわれたり逆恨みされたりもした。
相手の男が両刀で、女と恋敵になったりするともう最悪だ。
アイツらは女であるだけで、まるで自分の方が優れているような顔をする。

トラブルメーカーと呼ばれ、あちこちの店を追い出されて。
そんな翔太を拾ってくれたのが、クラブ「エメラルド」の店長、横澤だった。
うちの店では、身体で客を取り合うような真似はするな。
行き場のない翔太は、横澤のこの条件を飲むしかなかった。

そして翔太はクラブ「エメラルド」で、雪名と出逢った。
雪名が初めてこの店に出勤したその日、翔太は雪名に恋をした。
どういうわけか雪名も翔太が好きだと言ってくれて、2人は恋人同士になった。
翔太が今ここにいる理由は、このキラキラした王子様のような恋人の存在に他ならない。

*****

今夜も翔太はクラブ「エメラルド」で、接客をしている。
今日は女性客限定の営業日だから、翔太のテンションは上がらない。
横澤にはよく「女相手の時に手を抜くな」と注意されるが、こればっかりは仕方がない。
雪名という恋人がいても、やはりいい男を見ると心がときめくものだ。

それに女性客が自分のような男に求めるのは、誠実さではないと思う。
翔太を指名する女性客は落ち込んでるので元気付けて欲しいとか、楽しく騒ぎたい者がほとんどだ。
その証拠に擬似恋愛目的など真剣モードの客は、羽鳥や嵯峨を選ぶ。
だがら女性客に対しては、軽薄に近い明るさで接するのが翔太のスタイルになっている。

向かいのテーブルでは、恋人の雪名が2人組の女性客の相手をしていた。
同じテーブルについているのは、クラブ「エメラルド」で一番新しいホストの律だ。
雪名を指名する客は若い客が多いので、年齢が高かったり陰があるホストは似つかわしくない。
必然的に同じテーブルには、かわいらしい雰囲気の律か千春がつくことが多い。
翔太も実年齢はともかく見た目は若く見えるが、雪名のテーブルにはつかせてもらえない。
それは雪名と翔太が恋人同士だからだ。
横澤は基本的には、付き合っている2人を同じテーブルにはつかせない。
万が一にもそんな雰囲気が客にバレてしまっては台無しだからだ。
だから嵯峨と律、羽鳥と千春が同じテーブルにつくこともほとんどなかった。

フロアを見回していた横澤が、こちらに歩いてきた。
翔太の横に来ると素早く長身を屈めて「向こうのテーブルばかり見るな」と耳元で囁く。
そしてそのままフロア内を回りながら、客席をチェックして回っている。
灰皿を変えたり、空のグラスを下げたり、本来はウエイターがするような雑用も横澤は厭わない。
さりげない動作だか、横澤は雪名の方ばかり見ている翔太を注意する目的だったのだろう。

はいはい。わかりましたよ。
翔太は心の中だけでおどけた返事をすると、自分の客に視線を戻して営業用の笑顔を作った。

*****

不意に雪名が「うわ!」と声を上げた。
なるべく雪名のテーブルを見ないようにしていた翔太も思わずそちらを見てしまう。
どうやら立ち上がろうとした女性客が、酔ってふらついたらしい。
雪名はとっさに倒れかかってきた女性客を、腕を伸ばして抱きとめた。
その結果、雪名の右手首の内側、ちょうどワイシャツから出ている肌の部分に女性客の口紅がついたのだ。
今時珍しいほど真っ赤な口紅はベッタリと付着していて、まるで雪名が手首から出血しているように見えた。

それを見た翔太は昔を思い出して血の気が引いた。
震えだしそうになる膝に力を込めて、懸命にこらえる。
そして右手でそっと左手首にはめている腕時計を押さえた。

翔太は小柄で細身のわりには、ゴツい腕時計をしている。
もっと細身、いっそ女物の時計の方が自分に合うことはわかっているが、変えられない。
実はクラブ「エメラルド」に来る前の荒れていた時期に、何度か自分で手首を切ったことがある。
いわゆるリストカットだ。
別に死のうとしたわけではない。
流れる赤い血を見て、自分が生きていることを確認できる。
その頃の翔太は、本当に投げやりだった。
腕時計はその手首の傷跡を隠しているのだ。

つらくなったらこんなことをする前に、俺に言ってくださいね。
初めて翔太の手首を見た雪名は、その傷跡にそっとキスを落としてそう言った。
幸せで、すごく幸せで、ずっと忘れていた昔の自分。
だがこんな些細なことで頭をもたげて、翔太自身を怯えさせる。
雪名の手首に残された赤い口紅、たったそれだけのことで。

あ、俺が行きますから。あとタクシーを呼んだ方がよさそうですね。
女性客は手洗いに行こうとしていたようだ。
足元が覚束ない彼女について行こうとした雪名に、律が気を回してそう言った。
そして「大丈夫ですか?」と声をかけながら、さり気なくエスコートしていく。
律はこういうところが実に細やかだ。
この間に雪名は口紅を落とすことができるし、多分動揺している翔太の顔色も読んだに違いない。

雪名が使い捨てのおしぼりで手首の赤を落とそうとした瞬間、翔太と目が合った。
この赤から翔太が何を思ったか、雪名にもわかったのだろう。
とっさに両手を後ろに回して、翔太に唇だけで「大丈夫ですよ」と囁いた。

後手の状態で、雪名は手首を拭いたのだろう。
背中に隠した手首が、再び現れた時には口紅の赤は消えていた。
安心させるように笑顔でこちらを見つめる雪名の優しさに、翔太は不意に泣きたくなった。
こんなに優しく気遣ってもらえる価値など、自分にはないのに。

【続く】
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