グロテスク5題

【脳の色は】

雪名皇が初めて木佐翔太に逢ったのは、もう25年も前のことだ。
木佐はまだ5歳くらいの小さな子供だった。
だがその気配はすでに子供らしからぬ芳しい香りを放っていた。
普通の人間には到底わからないだろう。
だが魔物にとっては本当に魅力的で、食欲をそそるものだった。

その気配に惹かれた雪名は、木佐に近づいた。
所詮相手は小さな子供、何とか丸め込んで仲良くなろうと思った。
あの頃の雪名は今よりも血の気が多くて、獰猛だった。
この子供の血肉はどんな味だろう?脳の色は?
本当に食べるつもりだったし、その後は隠し通してしまえばいいと思った。

だが木佐少年は、本当に無垢で純粋だった。
雪名のことを素直に信じて「お兄ちゃん」と呼んで懐いた。
その愛らしい笑顔に、雪名は恋に落ちたのだ。
いつのまにかこの少年を食べるなんて、絶対にできないと思うようになった。
だが雪名が木佐を逃がしても、木佐の気配は危険だ。
魔物を惹きつけて、いつか喰われてしまうかもしれない。

雪名は木佐の前から姿を消して、その後は人知れず木佐を見守り続けた。
だが木佐ときたら、本当に男にモテる。
彼に惹かれる男は数知れず、言い寄る男の見目形が美しいとすぐに身体を開いてしまう。
そしてついに顔見知りの食人鬼が木佐に目をつけてしまった。
だから意を決して、雪名は木佐に近づいたのだ。

その木佐が今、危機に瀕している。
雪名は救出に向かう横澤の後を追って、走っていた。
横澤には余計な手出しをしないことを条件に、同行を許可してもらっている。
基本的には従うつもりだが、いざとなれば闘うつもりだった。
大事な存在である木佐を守るためなら、取り決めを破ることなど躊躇しない。

*****

ホテルのソファでくつろいでいた高野政宗は、読んでいた本から顔を上げて目を閉じた。
そして静かに意識を集中して、律の気配を追う。
買い物に出た律の帰りが遅いのは、よくあることだ。
律は雑踏の中を散歩するのが好きで、よくフラフラと街歩きをしているからだ。

律のことを大事に思う高野としては、本当はいつも目の届く場所にいて欲しいと思う。
だが律だって、1人で街を歩いてストレスなどを発散したい時もあるだろう。
だから基本的に外出なども自由にさせている。
基本的に徒歩で行ける場所なら、その気配を追える。
万が一のことでもあれば、すぐにわかるからだ。

だが今、その律の気配が変わった。
いつもの穏やかなものではなく、緊張をはらんだものに。
そして律の気配に、何か得体の知れない黒い妖気が近づいている。
どうやら何かの魔物と接触したのだろう。

助けに行かなくては。
高野は本を閉じてテーブルに置くと、立ち上がった。
おそらく危険に巻き込まれた人間を救おうとして、自分も危険に飛び込んだのだろう。
律はそういうことをほっておけない性格なのだ。
そんな真っ直ぐな律が好きで「伴侶」に望んだ。

まったく、やっかいなことだと思う。
だけど万が一にも律に危険が及んだらと思うと、気が気ではない。
この不安を解消する方法は1つしかない。
さっさと律を取り戻して、この腕で抱きしめることだけだ。

*****

「早く逃げて!」
向かってくる食人鬼の返り血を浴びた律が、木佐を振り返りながら叫んだ。
木佐を背後にかばいながら、男をナイフで切りつけたのだ。

だが木佐はその場に座り込んだまま、動けなかった。
鬼だの食べるだの言われても、どうしてもピンと来ない。
それよりもナイフを振るう青年と血まみれの男という光景の方がショッキングだった。
驚きに腰が抜けてしまって、立ち上がることさえままならなかった。

一方の律は、眩暈と吐き気を感じながら、懸命に足を踏ん張っていた。
木佐を逃がすために勝負に出たのに、その木佐が動けなくなるのは計算外だ。
男に傷を負わせたものの、その血から漂う強い妖気が律にじわじわとダメージを与えていたのだ。
だがそれを男に悟られるわけにはいかない。
律が弱ったことがわかれば、男は一気に襲いかかってくるだろう。
何とか横澤が来るか、異変を感じ取った高野が駆けつけるまで持ちこたえるしかない。

男もまた律がどれほどの敵かを見極めようとしているようだ。
律と男はじっと睨み合い、2人の間にピリピリとした緊張が漂う。
だが程なくして、バタンと大きな音がした。
開け放たれたドアから飛び込んできたのは、横澤と雪名、そして桐嶋だった。

「木佐さん!」
雪名がすかさず木佐に駆け寄り、横澤は律と男の方へ向かってきた。
待ちかねた横澤の到着に安堵した律の足から力が抜ける。
その一瞬の隙に、男は律の身体を突き飛ばして標的を横澤へと移した。

*****

その建物に足を踏み入れた瞬間、横澤は息苦しさを感じた。
そしてその原因はすぐにわかった。
ナイフを構える律と、切り付けられて血を流す魔物の男。
魔物の血が持つ邪悪な妖気が、辺りに漂っているのだ。
もっともその妖気を感じるのは、横澤や律のように「魔」を感じる者だけだ。
雪名の想い人である木佐翔太は、何も感じていないだろう。

「市村、正気に戻れ」
横澤は静かに諭しながら、律と男に歩み寄る。
男は空腹に耐えかねて、木佐に接触したはずだ。
その上律に怪我を負わされて、すでにまともな精神状態ではなくなっている。
案の定、男は横澤の説得になど耳を貸さない。
律の身体を薙ぎ払うように壁に叩き付けた。
そしてその狂気を横澤に向けてきた。

「これ以上暴れると、処分対象になるぞ!」
「処分だと?俺が人間ごときに捕まるわけねーだろ!」
男が雄叫びを上げると、横澤に踊りかかってきた。
横澤もナイフを構えて、男を迎え撃つ。
正直なところ、勝算はない。
男から感じる魔の気配は強い。
男の血のにおいだけで、息苦しくて足元がふらつきそうだ。

だが仕方がない。
これが横澤の仕事なのだから。
魔物と人間が共存するために、時にはこうして戦わなくてはならない。

*****

「悪いけど、こいつの相手は俺がするわ。」
「あー、俺も。」
意気込んだ横澤の前に進み出たのは桐嶋。
そしていつ現れたのか、その横にすっと並んだのは高野だった。

「なんで、お前らが」
自分を守るように立ちはだかる2人の吸血鬼の後ろ姿に、横澤は怒りと共に問いかける。
これは横澤の仕事であり、手出しされることは横澤のプライドに関わる問題だ。
だが横澤も高野もすでに戦闘態勢で、引くつもりはまったくなさそうだ。

「俺は大事な『伴侶』を傷つけられたから。」
高野はそう答えると、ちらりと律を見た。
突き飛ばされて壁に叩きつけられた律は、壁にもたれて座り込みながら苦しげに高野を見上げている。

「俺は大事な未来の『伴侶』のお前を守りたいから。」
桐嶋が一瞬だけ横澤を振り返って、そう答えた。
未来の「伴侶」など、横澤は承知していないし、馬鹿げている。
だが桐嶋の真剣な目を見てしまうと、なぜか否定することが出来なかった。

「木佐さん、大丈夫ですか?」
雪名が木佐に手を貸して、ゆっくりと立ち上がらせる。
木佐は雪名に抱きとめられながら、呆然と見ていた。
2人の吸血鬼が狂った魔物の男の動きを封じ、その息の根を止める様子を。
ズタズタに引き裂かれた魔物の男の血のにおい、脳の色を。

あまりにも非現実的なその光景に震えながら、目を離すことができなかった。

【続く】
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