SMILE5
【微笑】
よく見慣れた微笑が、まるで違う人に見える。
それが最初に感じた違和感だった。
「あ、律っちゃん。お疲れ~!」
「木佐さん。打ち合わせ、お疲れ様です。」
午後の昼下がり、木佐翔太は小野寺律とともに丸川書店の正面玄関にいた。
担当作家との打ち合わせから戻った木佐と、仕事が立て込んで遅い昼食から戻った律。
2人はちょうど入口で顔を合わせ、一緒に編集部へ戻ろうとしていたのだ。
この時間の正面玄関は、いつも閑散としている。
昼休みに食事に出た社員たちは、もう仕事に戻っている。
また午後一番の来客の波も引いており、受付嬢ものんびりしている時間帯だ。
だが今日は違った。
受付には大柄な男性が1人、受付嬢に何か早口でまくし立てている。
その男性は外国人-欧米を思わせる白人だった。
どうやら日本語は話せないらしい。
顔なじみの受付嬢は困った表情だ。
助けてあげたい気持ちはあるが、無理そうだ。
木佐は受付嬢に目で詫びて、そのままそこを通り過ぎようとした、
「え、ちょっと?律っちゃん!」
だが律は木佐から離れ、つかつかと受付に歩いていく。
そして外国人の来客に、流暢な言葉で話しかけた。
木佐は知らない言葉で話す律を、呆然と見ていた。
こころなしかいつもより大きな声と、大きめな手の動き。
よく見慣れた律の微笑が、まるで違う人に見える。
それが小さな違和感となって、木佐の心に残った。
*****
「律っちゃん、すごいね。通訳しちゃった!」
「ええ、まぁ。一応、留学経験があるんで。」
木佐と律は並んでエレベーターに乗り込みながら、談笑する。
律の微笑はいつもと同じ、ひかえめなものだ。
先程の外国人の来客は、律のおかげで事なきを得た。
律が彼の訪問先の部署を聞き出し、受付嬢が内線で連絡したのだ。
すぐに彼の訪問相手である社員が、受付に駆けつけてきた。
解放された受付嬢は、何度も律に礼を言った。
すっかり恐縮した律は「気にしないでください」と笑って答えていた。
「留学って、やっぱり将来親の会社を継ぐためとか?」
「いえ、そういうわけじゃありません。」
律は口を尖らせるようにして、そう答えた。
そして「七光りネタはやめてください」と苦笑する。
いったい何なのだろう?
木佐は午後の仕事に取りかかった後も、どうにも違和感が拭えずにいた。
たまたま会社に現れた外国人の来客を、留学経験があり語学が堪能な律が相手をした。
ただそれだけの話なのだ。
律は何事もなかったように、仕事をしている。
律本人ですら、大した話だと思っていないのだ。
「木佐。企画書、今日中だぞ。」
考え込んで手が止まっている木佐に、高野の声が飛ぶ。
木佐は明るく「は~い」と答えながら、内心はかなり焦った。
凄腕編集長の目は誤魔化せない。
とりあえず違和感は一時忘れることにして、木佐は無理矢理仕事に集中した。
*****
「七光り、いるかぁ?」
夕方になってエメラルド編集部に現れたのは、丸川書店専務取締役の井坂だった。
律は「小野寺です!」と涙目で言い返している。
「高野~、今日の夜、コイツ借りていい?」
井坂は律の肩に手を乗せながら、高野に声をかける。
編集長席で書類に目を通していた高野が「何か仕事ですか?」と聞き返した。
さすがに長谷川の時のように、いきなりことわるような真似はしない。
「お前さ、昼間受付に来た外国人の通訳しただろ?」
「通訳って大げさな。ちょっと話しただけですよ。」
「あの人は出版社の人なんだ。」
井坂はそう言って、海外の大手出版社の名前を挙げた。
丸川の作品を翻訳して出しており、また丸川でも翻訳本を出したりしている。
「今日は接待パーティだから、通訳として来い。」
「何で俺です?事前に通訳できる方を呼ばなかったんですか?」
「用意していたけど、急に来られなくなったんだよ。先方もお前を気に入ったらしいし。」
律はなおもブツブツ言っている。
修羅場が終わった後で久々に早く帰れる日だから、ゆっくりしたいのだ。
「うちの会社のお偉いさんや他の出版社の人も来るから、人脈増えるぞ。」
「諦めて行って来い。」
井坂の言葉に、高野が追い討ちをかける。
律があきらめたような表情で「わかりました」と肩を落とした。
*****
木佐はようやく「違和感」の正体に気がついた。
これは焦り、そして嫉妬だ。
雪名や高野を見ていると、自分とは違う特別な人間だと思う。
自分は凡人だと思っている木佐は、彼らとは違うペースで頑張ればいいと思っている。
そして律もまた自分と同じだと思っていたのだ。
後輩でしかも漫画はそれまで読んだこともないという新人編集者。
無意識のうちに、律を自分よりも下だと位置づけていたのだろう。
でもやはり律もまたある意味では特別な人間なのだと改めて思った。
留学経験を生かして、即席の通訳をこなした。
そしてそれをきっかけにして、普通の社員が入れないような接待パーティに呼ばれた。
律自身は気が進まないようだが、平の編集部員にはありえないチャンスだ。
何だかんだで律はそういう幸運が舞い降りるようになっているのだ。
そもそも出版社社長の息子に生まれ育ったことがそうだ。
七光りなどと律は嫌がっているが、編集者にとって絶対に有利なことは間違いない。
それに編集者としての資質も、根性もある。
何しろあの高野が、本気で育てようとしているのだから。
もし仮に高野がエメラルド編集長になったとき、木佐が若い新人編集だったとしても。
高野は多分、木佐を鍛えようとは思わなかっただろう。
*****
そろそろ律を対等な編集者として見るべきなのかもしれない。
後輩だとか新人だとか、いつまでもそんな風に考えていたら、あっと言う間に追い抜かれる。
律はこれからまだまだ編集者として成長していくだろう。
少し前だったら、そこまで考えてネガティブに落ち込んでいただろう。
だが今の木佐は違う。
木佐だって今の自分で満足などしていない。
編集業は決して勝ち負けではないが、まだまだ負けてなどいられないのだ。
多分半ば押しかけ同棲状態の恋人のキラキラしたオーラが原因だ。
頑張らなくてはならない。
彼に相応しい恋人であるために。
「頑張ってね、七光りくん。」
「もう、木佐さんまで!」
井坂が「じゃあ後で」と言い残して去った後、木佐は律をからかった。
不満そうに口を尖らせているその横顔は童顔で、少年のように幼く見える。
もしも律がいつか親の会社を継いだとしたら。
木佐などは口も聞けない遠い存在になるのかもしれない。
だったら今のうちにいっぱいからかっておこう。
こればっかりは先輩社員の特権だ。
木佐はむくれた表情もかわいい後輩の横顔を見ながら、微笑んだ。
【終】
よく見慣れた微笑が、まるで違う人に見える。
それが最初に感じた違和感だった。
「あ、律っちゃん。お疲れ~!」
「木佐さん。打ち合わせ、お疲れ様です。」
午後の昼下がり、木佐翔太は小野寺律とともに丸川書店の正面玄関にいた。
担当作家との打ち合わせから戻った木佐と、仕事が立て込んで遅い昼食から戻った律。
2人はちょうど入口で顔を合わせ、一緒に編集部へ戻ろうとしていたのだ。
この時間の正面玄関は、いつも閑散としている。
昼休みに食事に出た社員たちは、もう仕事に戻っている。
また午後一番の来客の波も引いており、受付嬢ものんびりしている時間帯だ。
だが今日は違った。
受付には大柄な男性が1人、受付嬢に何か早口でまくし立てている。
その男性は外国人-欧米を思わせる白人だった。
どうやら日本語は話せないらしい。
顔なじみの受付嬢は困った表情だ。
助けてあげたい気持ちはあるが、無理そうだ。
木佐は受付嬢に目で詫びて、そのままそこを通り過ぎようとした、
「え、ちょっと?律っちゃん!」
だが律は木佐から離れ、つかつかと受付に歩いていく。
そして外国人の来客に、流暢な言葉で話しかけた。
木佐は知らない言葉で話す律を、呆然と見ていた。
こころなしかいつもより大きな声と、大きめな手の動き。
よく見慣れた律の微笑が、まるで違う人に見える。
それが小さな違和感となって、木佐の心に残った。
*****
「律っちゃん、すごいね。通訳しちゃった!」
「ええ、まぁ。一応、留学経験があるんで。」
木佐と律は並んでエレベーターに乗り込みながら、談笑する。
律の微笑はいつもと同じ、ひかえめなものだ。
先程の外国人の来客は、律のおかげで事なきを得た。
律が彼の訪問先の部署を聞き出し、受付嬢が内線で連絡したのだ。
すぐに彼の訪問相手である社員が、受付に駆けつけてきた。
解放された受付嬢は、何度も律に礼を言った。
すっかり恐縮した律は「気にしないでください」と笑って答えていた。
「留学って、やっぱり将来親の会社を継ぐためとか?」
「いえ、そういうわけじゃありません。」
律は口を尖らせるようにして、そう答えた。
そして「七光りネタはやめてください」と苦笑する。
いったい何なのだろう?
木佐は午後の仕事に取りかかった後も、どうにも違和感が拭えずにいた。
たまたま会社に現れた外国人の来客を、留学経験があり語学が堪能な律が相手をした。
ただそれだけの話なのだ。
律は何事もなかったように、仕事をしている。
律本人ですら、大した話だと思っていないのだ。
「木佐。企画書、今日中だぞ。」
考え込んで手が止まっている木佐に、高野の声が飛ぶ。
木佐は明るく「は~い」と答えながら、内心はかなり焦った。
凄腕編集長の目は誤魔化せない。
とりあえず違和感は一時忘れることにして、木佐は無理矢理仕事に集中した。
*****
「七光り、いるかぁ?」
夕方になってエメラルド編集部に現れたのは、丸川書店専務取締役の井坂だった。
律は「小野寺です!」と涙目で言い返している。
「高野~、今日の夜、コイツ借りていい?」
井坂は律の肩に手を乗せながら、高野に声をかける。
編集長席で書類に目を通していた高野が「何か仕事ですか?」と聞き返した。
さすがに長谷川の時のように、いきなりことわるような真似はしない。
「お前さ、昼間受付に来た外国人の通訳しただろ?」
「通訳って大げさな。ちょっと話しただけですよ。」
「あの人は出版社の人なんだ。」
井坂はそう言って、海外の大手出版社の名前を挙げた。
丸川の作品を翻訳して出しており、また丸川でも翻訳本を出したりしている。
「今日は接待パーティだから、通訳として来い。」
「何で俺です?事前に通訳できる方を呼ばなかったんですか?」
「用意していたけど、急に来られなくなったんだよ。先方もお前を気に入ったらしいし。」
律はなおもブツブツ言っている。
修羅場が終わった後で久々に早く帰れる日だから、ゆっくりしたいのだ。
「うちの会社のお偉いさんや他の出版社の人も来るから、人脈増えるぞ。」
「諦めて行って来い。」
井坂の言葉に、高野が追い討ちをかける。
律があきらめたような表情で「わかりました」と肩を落とした。
*****
木佐はようやく「違和感」の正体に気がついた。
これは焦り、そして嫉妬だ。
雪名や高野を見ていると、自分とは違う特別な人間だと思う。
自分は凡人だと思っている木佐は、彼らとは違うペースで頑張ればいいと思っている。
そして律もまた自分と同じだと思っていたのだ。
後輩でしかも漫画はそれまで読んだこともないという新人編集者。
無意識のうちに、律を自分よりも下だと位置づけていたのだろう。
でもやはり律もまたある意味では特別な人間なのだと改めて思った。
留学経験を生かして、即席の通訳をこなした。
そしてそれをきっかけにして、普通の社員が入れないような接待パーティに呼ばれた。
律自身は気が進まないようだが、平の編集部員にはありえないチャンスだ。
何だかんだで律はそういう幸運が舞い降りるようになっているのだ。
そもそも出版社社長の息子に生まれ育ったことがそうだ。
七光りなどと律は嫌がっているが、編集者にとって絶対に有利なことは間違いない。
それに編集者としての資質も、根性もある。
何しろあの高野が、本気で育てようとしているのだから。
もし仮に高野がエメラルド編集長になったとき、木佐が若い新人編集だったとしても。
高野は多分、木佐を鍛えようとは思わなかっただろう。
*****
そろそろ律を対等な編集者として見るべきなのかもしれない。
後輩だとか新人だとか、いつまでもそんな風に考えていたら、あっと言う間に追い抜かれる。
律はこれからまだまだ編集者として成長していくだろう。
少し前だったら、そこまで考えてネガティブに落ち込んでいただろう。
だが今の木佐は違う。
木佐だって今の自分で満足などしていない。
編集業は決して勝ち負けではないが、まだまだ負けてなどいられないのだ。
多分半ば押しかけ同棲状態の恋人のキラキラしたオーラが原因だ。
頑張らなくてはならない。
彼に相応しい恋人であるために。
「頑張ってね、七光りくん。」
「もう、木佐さんまで!」
井坂が「じゃあ後で」と言い残して去った後、木佐は律をからかった。
不満そうに口を尖らせているその横顔は童顔で、少年のように幼く見える。
もしも律がいつか親の会社を継いだとしたら。
木佐などは口も聞けない遠い存在になるのかもしれない。
だったら今のうちにいっぱいからかっておこう。
こればっかりは先輩社員の特権だ。
木佐はむくれた表情もかわいい後輩の横顔を見ながら、微笑んだ。
【終】
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