グロテスク5題

【伝う赤い液体】

「頼む、助けてくれ!」
その男は地面にひれ伏しながら、必死に声を振り絞る。
いわゆる土下座の懇願だ。
だが男を見下ろしながら立つ3人の男は、何の反応もしなかった。

「みっともねーな。悪党なんだろ?死に際ぐらいちゃんとしろよ。」
3人の中の1人、切れ長の目と薄い唇が印象的な男が、土下座する男の真正面にしゃがんだ。
確かに土下座の男の姿は、みっともないと言えた。
いわゆる中年男で、仕立てのよいスーツはそれなりに裕福なことを示している。
なのに顔を涙と鼻水でグシャグシャにして、必死の形相で、しかも土下座。
そんな姿で、男は必死に命乞いをしていた。

「死にたくない!助けてくれ!」
「ダメ。じゃあまず俺ね。」
しゃがみこんだ切れ長の目の男が、土下座の男の懇願をあっさりと退けた。
そして一見痩せているその姿からは想像もできない強い力で土下座の男の髪を掴むと、その首に噛み付く。
切れ長の目の男の喉がゴクゴクと音を立て、伝う赤い液体がその唇を塗らした。
残る2人の男は冷ややかにその様子を見ていた。

「やっぱり性格悪いヤツの血はまずい。」
ひとしきり血を吸った切れ長の目の男が、土下座の男の身体を放り投げた。
そして血に濡れた口元を手で拭いながら立ち上がる。
放り投げられた男は、そのまま床に転がったまま動けない。

「よく言いますね。貧血で動けなくなるほど血を吸ったくせに。」
ずっと様子を見ていた男のうちの1人、長身で大きな瞳の男が揶揄する。
大きな瞳の男はツカツカと倒れている男に近寄り、襟首を掴んで男を持ち上げた。
そして大きく口を開けると、男の首に齧りつく。
ガランとした部屋に、男の断末魔の悲鳴が響いた。

「もう帰っていいぞ。」
3人目の熊のような風貌の男が切れ長の目の男に声をかける。
そして大きな瞳の男が、今や肉片となりつつある土下座の男を喰らう様子をジッと見ていた。

*****

「お前、律儀だな。」
切れ長の目の男、桐嶋禅がそう言った。
熊のような風貌の男、横澤はチラリと一瞬見たが、すぐに視線を大きな瞳の男、雪名に戻した。

土下座していた男は、吸血鬼と人間の間に何度も問題を起こしていた人物だった。
横澤が所属する組織は男を捕らえて、ついに処分を下すことになった。
男は食人鬼である雪名の「餌」にされたのだ。

その前に男の血を吸った桐嶋は吸血鬼だ。
特定の「伴侶」を持たない桐嶋は、こうして時々組織が食人鬼に喰らわせる人間の血を飲む。
いわば「おこぼれ」に預かっているという状態で命を繋いでいた。

桐嶋が律儀と言ったのは、横澤の仕事に対する姿勢だった。
元々組織では吸血鬼の担当だった横澤が、食人鬼の担当に変わったのはつい最近だ。
以前の担当者たちは食人鬼がこうして処分対象者を喰らう時、こうしてその場に立ち会うことなどなかった。
やはりそれはあまりにもグロテスクであり、見るにはきつい光景なのだ。
雪名の食事は、食人鬼の中では全然綺麗な方だ。
特にエグいような部分はなるべく隠すような配慮さえ見える。
だが中にはわざとからかうように、骨や臓器を見せつける輩もいる。
人間たちを格下の生き物だと思っている表れなのだろう。
横澤は無表情を保ちながら、最後まで必ず見届けた。
最初のうちはその後トイレに駆け込んで吐いたりもしていたが、今ではもう平気なようだ。

「終わりました。横澤さん。」
やがて雪名が食事を終えて、立ち上がる。
血まみれの床に転がっているのはもはや人間ではない。
骨と皮と肉片で構成されたただの物体-汚物だ。

「シャワー、借りますね。」
返り血まみれの雪名が、さっさとシャワー室に向かう。
横澤は短く「おう」と応じて、血のにおいが充満する部屋を出た。
桐嶋も当然と言う顔で、横澤の後をついて来た。

*****

「なんでここまでついて来るんだ?」
横澤は心底ウンザリした声でそう言った。

先程のあの「処置室」は、このビルの地下にある。
そして同じビルの3階に横澤のデスクが置かれた居室があった。
大して広くはないが、横澤の専用ルームだ。
吸血鬼を担当していた頃は、デスクワークが多かった。
彼らは概ね友好的で、頻繁に顔を出したり、近況をメールで知らせてきたりする。
だが食人鬼担当になってからは、外回りが増えた。
彼らは顔を出すこともメールを寄越すこともほとんどない。
それをするのは雪名くらいだ。
だから横澤が自分から出向いて、彼らの様子を定期的に確認するのだ。

雪名の「食事」の後、居室に戻る横澤に、桐嶋はついて来た。
しかも一緒に横澤の居室に入り、堂々と寛いでいる。
流石に食人鬼の「食事」は見るだけで疲れるから、1人で少し休みたい。
そんなことがわからない桐嶋ではないだろうに。
横澤がデスクに備え付けの椅子に座ると、桐嶋もその隣の椅子に腰を下ろす。

「話があるなら羽鳥にしてくれ。俺はもう吸血鬼の担当じゃねぇ。」
「お前に話があるんだ。横澤。」
「それなら今度にしてくれ。疲れてるんだ。」
「大事な話だ。それに時間はかからない。」
「じゃあさっさと言ってくれ。何だ?」
「俺の『伴侶』にならないか?」

あまりにも唐突な申し出に、横澤は驚いて、桐嶋を見る。
桐嶋は真剣な表情で、横澤を見据えている。
かつて恋焦がれた高野政宗ではなく、別の吸血鬼の「伴侶」になる。
それは横澤にとって、あまりにも予想外のことだった。

横澤の脳裏に、先程の男の血を啜る桐嶋の様子が思い起こされた。
伝う赤い液体で濡れた唇のあの艶っぽさを。
ありえないと思いながら、妙に胸が高鳴るのはなぜなのか。
横澤は激しく動揺しながら、桐嶋から視線を逸らせた。

*****


「送ってください。」
律は財布からクレジットカードを取り出して、カウンターに置く。
プラチナのカードに、店員の態度があからさまに変わった。
それはそうだろう。
律の外見はせいぜい20代半ばにしか見えないだろう。
そんな青年がゴールドカードのさらに格上のプラチナカードを持っているのだから。

律が吸血鬼である高野政宗の「伴侶」になったとき、渡されたものが3つある。
1つは新しい名前が書かれた戸籍謄本、運転免許証、そしてこのプラチナのクレジットカードだ。
名前はすべて織田律。
律というのは本名だが、名字は変わっている。
戸籍上の本物の律は、すでに死亡したことになっているのだ。

吸血鬼は概ね金回りがいい。
横澤らが所属する組織からは金が出ているらしいが、それだけではないようだ。
知り合いの吸血鬼には専用のリムジンを持っている者もいる。
高野は「長い間生きるうちに、いつの間にか金が貯まっていた」としれっと言い切った。
律は金には興味がないので、それ以上のことは知らないし、どうでもいい。

律は基本的には不老不死であり、食費はかからない。
衣類など生活にかかる費用は一切高野が支払っている。
だからプラチナのカードを使用するのは、もっぱら書店だ。
好きな本を買い、それを滞在するホテルまで送ってもらう。
かなりの限度額が設定されたカードなのに、月に1万円程度しか使わない。
高野には何でも好きな物を買っていいと言われているが、本当に使い道がない。

律は書店を出ると、都会の雑踏へと足を踏み出した。
買った本をわざわざ送るようにしたのは、散歩を楽しむためだ。
特に目的もなくブラブラと街を歩くのが、律の数少ない趣味の1つだった。
ひっきりなしに人が行き交う都会の中を歩くと、安心する。
それは「伴侶」になってからのことだ。
普通の人間であった時には、都会の喧騒など嫌いだった。
ひょっとして自分が人間の中に混ざっても溶け込めることを確認したいのかもしれない。

そういえば今日は「処分」の日だっけ。
律は歩きながら思い出す。
以前、吸血鬼の「伴侶」を誘拐するという事件があった。
当時まだ普通の人間だった律も巻き込まれ、あやうく死にかけた。
そのことで高野も律もお互いに深く相手を想っていることを痛感し、律は高野の「伴侶」になった。
そんな律の運命を変えた事件の首謀者が、多分今頃「処分」されている。

*****

律はふと不穏な気配を感じて、立ち止まった。
目には見えない黒い気配。
普通の人間は決して感じることない、魔物の気配だ。
吸血鬼の「伴侶」になってから、律は魔の力を感じ取ることができるようになっていた。

律は辺りをキョロキョロと見回しながら、気配を探った。
関東に住む吸血鬼はせいぜい10名程度しかいないし、全員を知っている。
だがその中の誰のものでもないようだ。
そもそもこの気配は吸血鬼のものではない。
もっと獰猛で凶暴で無遠慮だ。
そして明らかに特定の人間を狙っている。
これはおそらく食人鬼のものだ。

律は懸命に魔物の気配を追ったが、どうしても魔物の正体や所在はわからない。
だが魔物が向けている気配の先-狙われている人間の方はわかった。
オープンカフェの席に座り、コーヒーを飲みながら、スマートフォンをいじっている男。
見た目は律と同じくらいの年齢、黒髪でかわいらしい顔立ちの小柄な青年だ。
魔物の気配が黒くうねりながら、その青年を取り巻いている。

律は携帯電話を取り出し、電話帳を開いた。
魔物を監視する組織に、この不穏な気配を報告した方がいいだろう。
最初は羽鳥を呼び出そうとして、担当が違うことに気付き、相手を変えた。
羽鳥の担当は吸血鬼、呼び出すなら食人鬼の担当の横澤だろう。

「もしもし。横澤さんですか?」
話をしながら、律はオープンカフェの青年から視線を離さない。
魔物の黒い気配はその間もジリジリと青年に迫りつつあった。

だが当の青年-木佐翔太は何も気がつかなかった。
自分に絡み付いている魔物の気配も、じっと自分を見ている律のことも。
メールを送ろうとしている恋人が、人間でないことさえ知らずにいた。

【続く】
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