艶めいた5題

【歓喜のナミダ】

「あっ!」
吉野が短く叫んだ途端、その手からマグカップが滑り落ちてしまった。
温かいミルクを入れたマグカップは派手な音を立てて砕け、ミルクと共に床に散らばる。
羽鳥は素早く駆け寄り「大丈夫か?」と聞いた。
吉野は「ごめん、大丈夫」と答えたものの、顔色はひどく悪かった。

「片付けるのは俺がする。お前は寝ていた方がいい。」
「そんなの悪いよ。俺が散らかしたのに。」
「いいから。ベットで休め。」
吉野はそれ以上食い下がることもなく、そのままベットに向かう。
頑固な吉野がすんなりと従ったのは、余程体調が悪いのだろう。
羽鳥はその後ろ姿を見ながら、ため息をついた。

吉野は高野によって、一連の出来事の記憶を消されていた。
柳瀬優のことも、吸血鬼と「伴侶」の話も、高野や律のこともすべて忘れていた。
そしてここ数日は体調を崩して、ずっと自宅で静養していた。
羽鳥はその吉野にずっとつきっきりで看病していた。

一気にいろいろな記憶を操作したから、しばらくは頭痛や眩暈が続くだろう。
高野は吉野の記憶を消すときに、そう言った。
吉野と柳瀬の付き合いはかなり長い。
その中から柳瀬の記憶だけ消すのは、大変なのだ。
かなり強い魔力で封印するから、吉野の身体にも負担がかかる。

羽鳥はそれを承知で、高野に吉野の記憶を消して欲しいと頼んだ。
もう「柳瀬優」はこの世から消えたのだ。
憶えていない方が吉野にとっては幸せだと思う。
その吉野はぼんやりと毎日を過ごしている。
身体の負担だけではなく、記憶の欠落のせいで何か違和感を感じているようだ。

「吉野?泣いてるのか?」
落としたカップを片付け、新しいホットミルクを持って寝室に入った羽鳥は驚いた。
ベットの上で身体を丸めた吉野の頬が涙で濡れていたからだ。
「よくわからないんだけど、なんだかすごく大事なものをなくした気がして。涙が止まらないんだ。」
吉野は枕に顔を埋めて、泣き顔を隠してしまった。

羽鳥はいつもの無邪気な吉野に戻るまで、そしてその先もずっと傍にいるつもりだ。
吉野は吸血鬼の「伴侶」ではなく、人間として生きることを選んだのだから。
身体の不調や違和感は取り去ってやれないが、なくなるまで待つことはできる。
もう絶対にこんなにつらい思いはさせない。
吉野が流すのは、歓喜のナミダだけでいい。

*****

「もう大丈夫ですよ。」
「ダメだ。寝てろ。まだ顔色が悪い。」
身体を起こそうとする律を、高野が押し留める。
律はもう何日もベットの上で過ごしていた。
身体は少しずつだが快方に向かい、もうかなりよくなっている。
だが高野は律にぴったりと寄り添い、律に何もさせなかった。

律が柳瀬の血を口にしてしまったのは、まったくの不可抗力だ。
だが高野はそのことをかなり気にしていた。
吉野と律を接触させたのは、高野だった。
羽鳥から聞く彼の想い人は、吸血鬼に告白されて迷っていると聞いた。
それならすでに「伴侶」である律と話せば「伴侶」の何たるかがわかるだろう。
まさかその場に柳瀬が踏み込んでくるとは、まったくの予想外だ。
高野の読みの甘さが、律を永遠の苦しみに突き落とすところだったのだ。

「政宗さんは気にしなくていいですよ。俺が間抜けだったってだけです。」
律は何度も口にした言葉を、また繰り返す。
飛んできた血が口に入ってしまったなんて、本当に間抜けだと思う。
結果的に周囲の人間を巻き込んで、大騒ぎになってしまった。
吉野の記憶も「柳瀬優」も消すことになってしまったのだ。

「俺のせいですよ。全部俺が悪い。」
「泣くなよ。」
不意に高野は、ベットに横たわる律の身体に覆い被さった。
そしてそのまま唇を重ねる。
「泣いてないです!それに俺、病人ですよ?」
「もう大丈夫なんだろ?」
唇が離れると、すかさず律が文句を言う。
だが高野はまたすぐに唇を重ねて、これ以上律に何も言わせなかった。

これでいいのだと、高野は思う。
落ち込んでいる律は見たくない。
これは高野のミスなのだから、律が悩む必要はないのだ。
もう言葉はいらない。
ここから先は歓喜のナミダを流させてやるだけだ。

*****

「これが新しい俺の名前?」
柳瀬優は、差し出された紙を受け取って読み上げる。
今しっくりこないのは、まぁ仕方がない。
この先使っていくうちに、徐々に馴染んでいくだろう。

吉野千秋の部屋に乗り込んだあの日、羽鳥はついに柳瀬を殺すことはなかった。
ナイフをかまえたものの、切りつけることができなかったのだ。
苦しむ律、泣き叫ぶ吉野、呆然と動けない高野と羽鳥。
どうにもならない状況下で現れたのが、目の前のこの男だ。
彼は羽鳥の前任者で、組織で吸血鬼の監視をしていた。
何か問題を起こして、吸血鬼の担当を外されたと聞く。
だが羽鳥より年上でキャリアがある分、霊力も高い。

「何やってんだ。お前ら」
男は吉野の部屋に入ってくるなり、冷ややかにそう言った。
高野も羽鳥も彼の登場に心底驚いていたようだ。
もちろん柳瀬もそうだったが。

彼はすかさず律に駆け寄ると、両手をかざした。
その高い霊力で、律の身体の中の柳瀬の血に浄化を施したのだ。
律の苦しげな呼吸が、少しずつ安らかなものに変わる。
「これで少しずつ毒は消える。完全に抜けるには少し時間がかかるがな。」
男は事も無げにそう言った。
柳瀬が絶命すれば一瞬で楽になるのだが、この方法だと少しずつ身体から毒が抜けていくらしい。

そして柳瀬はしばらく組織預かりの身になり、軟禁状態になっていた。
そして今日、解放される。
渡されたのは新しい戸籍の謄本と運転免許証だ。
結局何もなかったが、人間を無理矢理「伴侶」にしたのだ。
柳瀬は名前を変えられ、別の人間となることを条件に生かされることになった。

「落ち着き先が決まったら知らせろ。羽鳥が様子を見に行くだろう。」
「マジかよ。羽鳥の顔、もう見たくないんだけど。」
柳瀬が文句を言っても、男は「俺が知るか」とにべもない。
だが最後に男は「元気でやれよ」と笑った。
ハードボイルドな笑顔に見送られて、柳瀬優は何日か滞在した部屋を出た。

*****

「落ち着き先が決まったら知らせろ。羽鳥が様子を見に行くだろう。」
「マジかよ。羽鳥の顔、もう見たくないんだけど。」
横澤隆史は、悪態をつきながら部屋を出て行く吸血鬼を笑いながら見送った。

横澤は羽鳥が所属する組織に籍を置く霊能者で、かつては吸血鬼の監視任務を行なっていた。
現在は別の仕事についており、吸血鬼の監視は羽鳥に引き継いでいる。
高い霊力を持ちながらその任を羽鳥に譲ったのは、理由がある。

横澤はずっとその監視対象である吸血鬼、高野政宗に恋をしていた。
容姿端麗で、言動はどこか斜に構えたような皮肉屋。
でも実は純粋で、心を許したものにはとことん優しい。
横澤はそんな孤高の吸血鬼に惹かれた。
いつしか彼の「伴侶」になりたいと、心の底から願うようになった。

だが高野が律に恋し「伴侶」にすることを迷っていた頃。
ちょっとした事件が起きた。
高野とその友人の吸血鬼の「伴侶」たちが誘拐され、律も巻き込まれたのだ。
その情報を高野たちより先に察知していた横澤は、もしかしたら律たちを助けられたかもしれない。
だが横澤は見て見ぬ振りをした。
その結果誘拐された律は、心身ともにかなりのダメージを負うことになった。
そしてその事実が組織にも発覚してしまい、横澤は高野とは顔を合わせない任務に変えられたのだ。

今回横澤がすでに自分の任務ではない吸血鬼関係のトラブルで動いたのは、高野のためだ。
今さら高野とどうなるつもりもないが、完全に諦めきれたわけでもない。
だがそれとは別に、高野とは対等な友人でいたかった。
だから今回は借りを返すというつもりだった。

それに後輩である羽鳥は、今回は監視者でありながら当事者だ。
つらい気持ちもよくわかる。
だからギリギリまで見守るつもりだった。
いよいよ誰も何もできなくなるその瞬間に介入すればいい。
出番が来なければそれでいいという気持ちで、横澤は足を踏み入れたのだ。

「また始末書かよ」
誰もいない部屋で、横澤は1人悪態をついた。
結果的には丸く収まったとはいえ、任務外の仕事で動いたのだ。
また上からの覚えが悪くなることは間違いない。

それでも気分は悪くなかった。
高野への借りも返せたし、羽鳥を助けることもできたのだから。
横澤は「じゃあな、政宗」と小さく呟くと、会心の笑みを浮かべた。

*****

吉野千秋は久しぶりに街を歩いていた。
特に目的もない家の近所の散歩だ。
体調を崩して、ここ何日かずっと寝たきりだった。
今日は久しぶりに気分がいいので、足慣らしがてらに外出したのだった。

「トリ、大丈夫なのかな。」
吉野は歩きながら、ポツリと1人呟く。
羽鳥はもうずっと吉野のマンションに居ついていた。
吉野は記憶を失ったせいで、羽鳥のことを普通の会社員だと思っている。
だからずっとつきっきりで吉野の隣にいる羽鳥は大丈夫なのかと心配してしまう。

「ひどい風邪だな。」
吉野を看病しながら、羽鳥は何回もそう言った。
だが吉野にはどうしても風邪とは思えなかった。
眩暈や頭痛はひどいものの、発熱も喉の痛みもない。
それに世話焼きの羽鳥が、一言も病院へと言わないのも気になった。
普段はくしゃみを1つするだけで、病院に行けと言い出すのに。

何か大事なものが欠けているという感じが拭えない。
だがそれでいて心は不思議に落ち着いていた。
大事なものを失ったけれど、そのかわりにもっと大事なものを手に入れた。
収まるべきところに、全てが収まった。
何の根拠もないが、そんな気がするのだ。

ふと吉野は前方から歩いてくる人物を見て、足を止めた。
吉野や羽鳥と同じくらいの年頃だろう。
猫のような目が印象的な、綺麗な顔立ちの青年だ。
彼は吉野とすれ違い、吉野の方など見もせずに歩き去っていく。
もちろん顔見知りでもないし、向こうだって吉野を知らないはずだ。
それなのに何故かひどく懐かしい気がして、吉野は思わず「あの!」と声を上げていた。
猫目の美青年が立ち止まり、吉野の方を振り返る。

「あの、どこかでお会いしませんでしたか?」
吉野は人見知りで、普段は知らない人間に自分から声をかけるなどほとんどない。
だがこのときは無我夢中で、何も考えることなく自然に声が出た。

「さぁ?初対面だと思いますけど。」
かつて「柳瀬優」と呼ばれていた青年は、笑顔でそう答えて、すぐに去っていく。
吉野は遠ざかっていく青年の後ろ姿をいつまでも見ていた。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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