艶めいた5題

【微かな吐息】

「千秋っ!」
羽鳥が高野と共に吉野の部屋に踏み込んだとき、そこは異常な空気になっていた。
床にパタリと尻餅をついた状態で座り込んで、呆然と柳瀬を見上げる吉野。
左手から血を流しながら、吉野の前に仁王立ちしている柳瀬。
そして床に倒れながら柳瀬の膝元にしがみついて、その歩みを止めようとしている律。
誰も言葉はない。
律の微かな吐息だけが、苦しげに響いている。

「柳瀬、お前まさか。。。」
羽鳥は慌てて駆け寄り、吉野と柳瀬の間に割って入る。
そして吉野を背後にかばって立ちはだかると、柳瀬を睨みつけた。
その瞬間、柳瀬の顔がクシャリと崩れた。
冷たいほど整った綺麗な顔が、今にも泣き出しそうに歪む。

「律っ!」
一方の高野は律に駆け寄ると、柳瀬から律を引き離した。
そして床に倒れて込む律の横に膝をつき、そっと抱き起こす。
律は「政宗、さん」と小さく呟くと、強張っていた身体の力を抜いた。
高野にすがり付こうとする震える手にも、もう力が入れられない。

羽鳥と高野が吉野の部屋に来たのは、律のせいだった。
吸血鬼の高野には、離れていても「伴侶」の律の気配がわかる。
今も猛毒である他の吸血鬼の血を口にしてしまった律の苦痛を察知した。
吉野の部屋で、何かが起きている。
だから羽鳥と高野は、急いで駆け付けてきたのだ。

*****

「千秋は、俺の『伴侶』には、なってくれなかったよ。」
ようやく口を開いたのは、柳瀬だった。
まるで拗ねた子供のように弱々しい声が、泣くのをこらえて震えている。
吉野の無事を確認した羽鳥は、ほっと安堵のため息をつく。
柳瀬を睨みつけていたその目から、怒りの色が消えた。

「羽鳥、俺を殺してくれない?」
柳瀬はチラリと後ろを振り返って、そう言った。
その視線の先では、すでに意識が朦朧とし始めた律が高野の腕の中で苦しげな呼吸を繰り返している。

「コイツ、俺の血を飲んじゃったんだ。」
「お前、まさか。。。」
「わざとじゃない。だけど俺のせいだ。」
もう柳瀬は飄々としたいつもの柳瀬に戻っていた。
だが柳瀬の言うことがわかった羽鳥は、困惑した。

吸血鬼の「伴侶」にとって、主以外の吸血鬼の血は猛毒になる。
口にしてしまえば、身体中が痛み、眩暈や吐き気などの苦痛が襲う。
それは立っていることも喋ることすらできないほどだという。
羽鳥はそんな話を聞いたことがあったが、その様子を目の当たりにしたのは初めてだった。
高野が律を強く抱きしめて、耳元で何事かを囁いている。
だがもう苦しむ律には聞こえているかどうかすら怪しい。

こうなってしまった「伴侶」を助ける方法は2つしかない。
苦しみの元凶である魔力の持ち主である吸血鬼、この場合は柳瀬になるが、その者を殺すこと。
もしくは強い霊力を持つ人間が、律の身体を蝕む毒を浄化することだ。
それができなければ、律はもう助からない。
吸血鬼の「伴侶」は死ぬことはないが、永久に苦しみながら昏睡し続けることになる。
それはある意味、死ぬよりもつらい地獄だ。

残念ながら羽鳥には、まだこの毒を浄化できるほどの能力はない。
主であっても魔の者である高野にいたっては、何もできることはなかった。

*****

「それしか、ないのか。。。」
羽鳥は搾り出すようにそう言った。
おそらくは律は、吉野が無理矢理「伴侶」にされかかったのを助けたのだろう。
その律を助けるには、柳瀬を殺すしかない。
柳瀬もすでに覚悟を決めているようで、身じろぎもせずにじっと羽鳥を見ている。

羽鳥と柳瀬は、吉野を巡って決して良好な関係とは言えなかった。
好きか嫌いかと問われれば、嫌いだと即答するだろう。
それでもこんな形でその命を絶つとなると、さすがに躊躇われる。
それに吉野にとっては、柳瀬は良き友人なのだ。
誰よりも気を許し、羽鳥が傍にいないときには吉野を支えてくれた。
羽鳥は助けを求めるように、高野を見た。

高野は羽鳥と視線を合わせたものの、何も答えなかった。
だが戸惑っている雰囲気が伝わってくる。
律がこんなことになった原因である柳瀬に怒りは感じている。
だがあくまで不可抗力、事故のようなものなのだ。
それに人間よりもずっと数が少ない吸血鬼、それなりの仲間意識もある。
さすがに高野もここで柳瀬を殺すことには、抵抗があるのだろう。

「柳瀬、本当にそれでいいのか。」
「千秋を『伴侶』にできないなら、もう生きてても意味がない。」
迷う羽鳥に、柳瀬はきっぱりと言い切った。
吸血鬼を殺すには、やはり普通の人間のようにはいかない。
霊力をもつ人間が、念を込めて心臓を刺しぬくしかない。
つまり今この場にいる者で、柳瀬を殺せるのは羽鳥だけだった。

*****

「トリ、まさか、優を?殺すっていうのか?」
羽鳥と柳瀬の話を聞いていた吉野が、唸るような低い声で言った。
あまりにも急な展開に頭がついていかない。
それでも今からとんでもない事が起ころうとしていることはわかった。

「高野。俺が死んだら、千秋から俺の記憶を消してくれ。」
柳瀬は気軽な口調で、最期の頼みを口にする。
だが吉野は「やめてよ!」と声を上げると、羽鳥の腕にすがりついた。

「どうしてっ!ダメだ!優を殺すなんて!」
「だがそうしなければ、律はいつまでもこのままだ。」
「そんな。何とかできないの?」
「それに柳瀬は無理矢理お前を『伴侶』にしようとしたんだろ?」
「した、けど。。。」
「それは明確な取り決め違反だ。処分に値する。」

次第に事の重要性を理解した吉野の声が、怒りで次第に大きくなる。
羽鳥は内心の動揺を抑えながら、淡々と答えていた。
吉野と柳瀬と羽鳥という3人の関係のことだけを考えてはいけない。
吸血鬼と人間の間を平和に保つのが、羽鳥の仕事なのだ。

「お願い、やめて!優を殺さないで!」
吉野の叫びを振り切るように、羽鳥は高野を見た。
高野は黙って頷く。
この場で何かできるのは、羽鳥だけ。
だから羽鳥の判断に従うという意思表示だ。

*****

「待って、ください。」
その時、高野の腕に抱かれながら律が羽鳥を見た。
本当に微かな吐息のような声で、律が羽鳥を呼ぶ。
高野が「律、喋らなくていい」と声をかけるが、律は首を振った。

「お願い、します。柳瀬、さん、を、殺さ、ないで。」
息も絶え絶えに、律は羽鳥に訴える。
大きな緑色の瞳は、苦痛に苛まれていても美しい。
その瞳を涙で潤ませながら、律は必死に羽鳥に懇願した。

「これは、俺の、ミス、です。だから、やめて。。。」
「さっさと殺せ!羽鳥!」
「トリ、優を助けて!」
3人の叫びに、羽鳥は完全に混乱していた。

柳瀬を殺すことで、律を助けることができる。
そしてそれを柳瀬本人も望んでいる。
吉野や律の記憶は、後で高野に消すだろう。
それなのに、どうしてなのだろう。
羽鳥はどうしても最後の決断を下すことができない。

羽鳥はジャケットの内ポケットから、小さなナイフを取り出した。
所属する組織のメンバーは、必ず持たされる。
いざという時には、これに霊力を込めて魔物の心臓を深く刺すように。
そういう指示を受けている。
そのナイフを右手に持ったものの、羽鳥はそれを振り上げられずにいた。

どうしたらいい。
ナイフを持つ羽鳥の手が、小刻みに震える。
無言の室内に、律の微かな吐息だけが響いていた。

【続く】
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