和3題-2

【簪(かんざし) 】

「神社っていうのは神の社だぜ?人間を祀ったらまずいんじゃねーの?」
もうすでに壮年という年齢なのに、未だに少年のように若々しい青年が文句を言う。
隣に佇む青年は「黙っていればわかりませんよ」と答えた。

いつになく神社の境内には、人が集まっている。
新春の初詣や、夏の祭りの時期でさえ、こんなに賑わうことはない。
とにかく多くの人が入れ代わり立ち代わり現れる。
そして社の前に立つ神主と従者に頭を下げ、その横にいる男にも挨拶する。
それを昼過ぎからずっと繰り返していた。

この神社は、近隣に住む者たちからは「簪(かんざし)神社」と呼ばれている。
本当はもっと固く、厳めしい名前があるのだが、その名はまったく使われていない。
いや、そもそも本当の名など誰も知らないのではないだろうか。
その由来は、社の中に置かれた簪のせいだ。
しかも1つではなく、かなりの数になる。
どれも艶やかな原色で、豪華な造り。
こうして並べておくと美しいが、実際に髪に飾るには抵抗があるほどの煌びやかさだ。

これはかつて神主の男が娼館をしていた頃、娼婦たちが使っていたものだ。
娼館を閉じるときに、彼女たちから預かった。
彼女たちの辛かった日々を、すべて貰い受けるという心意気だった。

だがそれも今日で終わり。
神主と従者は、この神社を去ることになっている。
2人の横に立つ男が、新しい神主だ。
何十年振りの再会を果たしたかつての男娼を、説き伏せたのだ。

そこで2人が旅立つ前日、近隣の住民たちがこうして挨拶に来たのだ。
神主と従者の2人が現れるまで、この神社は不吉な場所と言われていた。
狐が棲んでいたとか、人が埋まっていたとか。
だが神主と従者がここに来たことで、変わった。
簪に彩られた神社は、人々が集まる明るい場所になった。
人々が集まり、2人に挨拶するのは、その感謝の表れだ。

「やっぱりここに残った方がいいんじゃないですか?」
政宗は何度も2人にそう言った。
この地に根を下ろし、ここまで受け入れられた2人なのだ。
この後、新たな神主としてここを守ると約束したが、自信がない。
2人のように皆に信頼されながら、ここで生きていくことができるのだろうか。

「何言ってやがる。お前が旅の話ばかりするからだろうが!」
「本当ですよ。嵯峨さんのお話を聞いて、我々も旅というものをしたくなったのです。」
神主と従者はそのたびに、政宗のせいだと言う。
政宗がここに帰って来てから、乞われるままに旅先で遭遇した様々な出来事の話をした。
娼館が閉じてから日本中を旅したので、その手の話題には事欠かない。
それを聞いて、神主と従者は「俺たちも旅をしたい」と言い出したのだ。

本当は政宗のことを思ってくれていたのもあると思う。
この場所を守り、神主として生きる。
それは愛するものと別れ、どこか投げやりな政宗に生き甲斐を与えるため。
だが旅をしたくなったというのも、間違いなく事実のようだ。
政宗が神主を受け継ぐことを決めた時から、神主の男は本当に浮かれているのだから。

*****

「まずは京の都を見てみたいものだ。」
神主の男は上機嫌に、盃を傾ける。
集まった男たちは、楽しく酔っていた。

旅立ちの前夜、神社では2人を送り出す宴が催されている。
集まったのは、かつての仲間たち。
桐嶋と横澤、芳雪と千秋、皇、柳瀬、美濃、そして二代目の神主となる政宗だ。
神社の裏手の小屋は、神主と従者が暮らすにしても狭い部屋。
そこにこれだけの人数が詰め込まれているが、誰も文句など言わなかった。

「井坂さんと朝比奈さんがいなくなっちゃうなんて」
千秋はもうずっと泣いている。
もちろん悲しんではいるのだが、完全に酔っ払った上での泣き上戸だ。
柳瀬がその千秋の肩を抱き寄せて、慰めている。

「いいのか?千秋をあのままにして」
横澤がじっと千秋と柳瀬を見ている芳雪に声をかけた。
今回の酒宴の料理は、すべてこの芳雪の手料理だ。
数年前まで一善飯屋を切り盛りしていた料理の腕は確かだ。
今はもう店は閉じて、のんびりと暮らしている。
歳のせいかもう店に立つのはしんどいし、細々と生きていくくらいの金は貯まったからだ。

「いいんですよ。千秋は柳瀬様と話すのが楽しいようですから。」
「はぁぁ、達観してるな。」
横澤はちらりと長年寄り添った男を見た。
酒に強い桐嶋はぐいぐいと水のように盃をあおりながら、美濃に何やら話しかけている。

芳雪とは対照的に、横澤の伴侶は嫉妬深い。
未だに横澤に触れたがるし、横澤が誰かと親しげにしていると盛大に妬く。
もう曾孫が生まれたというのに、とにかく手がかかるのだ。

ちなみに美濃は、ずっと酒問屋に奉公している。
下働きから始めて、大番頭にまで登り詰めた出世頭だ。
金回りもよく、今回の宴の酒は全て美濃が調達したものだった。

「今なら律さんの美しさを描けると思うんですけどね。」
皇は政宗の盃に酒を注ぎながら、無念そうに唇を噛んでいる。
娼館にいた頃、ほぼ全員の姿を描いていた皇だが、律の絵だけは描かなかった。
律という人間はどこか人間離れしていて、当時の皇では表現できないと思ったのだ。

「思い出して、描いてみたらどうだ?」
今度は政宗が皇の盃に酒を注ぐ。
皇は「できるかな」と呟くと、盃を傾ける。
伴侶を失った2人の男はどうしても会話が沈みがちだ。
政宗はそんな重い雰囲気を破るように、神主の男に向かって口を開いた。

「井坂さん、明日朝早いんでしょう?そんなに飲んで大丈夫ですか?」
「野暮なことを言うな。まだこの神社の主は俺だぞ。」
神主の男は聞く耳を持たないようで、気分よく酒を飲み続けている。
隣に座る従者の男が、申し訳なさそうに政宗に頭を下げた。

確かにこの2人との別れは、寂しい。
たとえ二日酔いになっても、今日くらい羽目を外してもいいだろう。
政宗は再び皇に向き直ると、また酒を注いだ。

*****
「楽しそうで、結構なことだ。」
翔太は中空から、宴の様子を見下ろしている。
律もその横に佇みながら「そうですね」と微笑した。

翔太と律はすでにこの世を去り、人としての肉体は失った。
だがこうして魂はここに留まり、彼らを見守っている。
いわゆる幽霊という状態だ。
どうしてそんなことになっているのか、彼ら自身にもよくわからない。

彼らの亡骸は火葬にされた後、骨はこの神社に埋葬されている。
だからこうして心だけ、この地に彷徨っているのかもしれない。
別に不満もなかった。
悔いのない人生を生き抜くことができた。
愛する人に看取られて、その人生を終えた。
そしてこうして死んでからも、愛する人をずっと見守っていられるのだ。

「それにしても、全員よく飲むよな。」
「ええ。本当に。絶対に明日は二日酔いですね。」
翔太と律は顔を見合わせて、笑った。
残念ながら、宴に興ずる一同には2人の姿は見えないし、声も聞こえない。
それをいいことに2人は無遠慮に観察し、容赦なく感想を口にしていた。

「井坂さんが神主ってのも驚きだけど、嵯峨さんが2代目ってのも何か」
「笑っちゃいますよね。」
「桐嶋の旦那も横澤さんも歳を取ったなぁ。」
「横澤さんは元々老け顔でした。」
「千秋ちゃんは相変わらず、羽鳥と柳瀬を振り回してるのか。」
「実は千秋さんが一番、性格が悪いかもしれませんね。」
「結局、一番成功したのは皇かな。」
「贔屓はいけません。美濃さんもいい勝負みたいですから」
「それにしても律っちゃんは相変わらず綺麗だな」
「木佐さん、いえ翔太さんもかわいいですよ」
「何か律っちゃん、死んでからの方がよく喋るね。」

2人は酒宴を見下ろしながら、おしゃべりに興じている。
翔太は律がこちらの世界に来たことで、退屈しなくなった。
こうして2人で喋りながら、愛する人が来るのを待てばいい。
それに死んでから再会した律は、性格が少し変わったようだ。
以前は狐などと呼ばれ、どこか浮世離れした不思議な雰囲気だったのに。
今はよく喋り、よく笑う。
それに受け答えも、昔は以前にはない人間臭さが感じられる。

「それにしても神社っていうのは神の社だぜ?人間を祀ったらまずいんじゃねーの?」
「黙っていればわかりませんよ。」
翔太の愚痴とも文句ともつかない言葉を、律は一笑に付した。
確かにみんなが幸せでいるならば、神様もきっと許してくれるだろう。

酒宴は盛り上がり、神社は楽しそうな笑いで満ちている。
祀られている翔太と律の陽気な喋りが、その騒めきに重なった。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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