和3題-2

【鳥居】

「聞いて下さい、父上様!」
「お、おお」
久しぶりに里帰りした娘は、嵐のような勢いで話の口火を切った。
桐嶋禅は、その剣幕に少々たじろぎながら相槌を打った。

あの娼館の関係者で、以前と変わらない暮らしをしているのはこの桐嶋だけだ。
定町廻り同心を続け、同じ家で生活している。
妻もすでに他界しており、娘も嫁ぎ、気楽で孤独な男やもめだ。

娘の日和が嫁いだ時には、賑やかだった家も静かになった。
幸いにも日和の嫁ぎ先は近いので、頻繁に顔を見せてくれる。
だがやはり寂しくなってしまったのは、致し方ない。
それでも何とか楽しく過ごしている。
それは使用人という名目で家に置いている1人の男の存在によるところが大きい。

「父上様のお茶は、相変わらず濃すぎです。」
茶の間で向かい合った日和は、桐嶋が淹れた茶に文句を言う。
家のことを一切やらない桐嶋は、茶葉の量の加減がわからないのだ。
だが桐嶋はそういうことを覚える気もないし、使用人は1人だけと決めている。
つまり文句を言っても無駄ということだ。
日和は「こほん」と咳払いをすると、再び口を開いた。

「桜が結婚したいと言い出したのです。」
止せばいいのにもう一度湯呑を口に運んだ日和は、苦さに顔をしかめた。
桜というのは、日和の愛娘のことだ。
元々は日和の母、つまり桐嶋の亡き妻の名だが、日和はそれを自分の娘に付けた。
日和が結婚した翌年に誕生した桜は、早いものでもう子供から大人の女へと変わり始める年頃だ。

「何ぃ?桜はまだ12になったばかりだろ?」
「何言ってるんです。もう15ですよ。」
間の抜けた桐嶋の反応は、頭に血が上った日和の怒りを一層焚きつけたらしい。
だが桐嶋は「もうそんなだったか?」と首を傾げる。
決してふざけたつもりではない。
桐嶋にしてみれば、日和だってまだ子供なのだ。
ましてやその娘など、いつまで経っても小さな赤ん坊としか思えない。
その桜に結婚話だなんて、まったく現実という気がしなかった。

「結婚はいいのです。だけどその相手が問題なのですよ!」
日和は話についていけていない桐嶋相手に、さらに捲し立てる。
桐嶋は情けない思いで、怒り狂う娘を見ていた。
歳を取っても凄腕の同心として、同僚と街の者たちには尊敬と畏敬の目で見られている。
だが娘に関しては、まったく駄目だ。
ましてや孫のことになると、もうどうしようもない。
しかも頼みの使用人の男は出かけており、夕方にならないと戻らない。

横澤、早く帰ってきてくれ。
桐嶋は念じるように、ちらちらと戸口の方を見た。
怒り狂った日和は強敵だ。
このまま1人で立ち向かっていては、父親の威厳が崩れ去る恐れさえありそうだ。

*****

「どうしたんだ?桜」
横澤は鳥居の下に佇んでいる少女に声をかける。
少女はこちらを見上げると「こんにちは。横澤のお兄様」と礼儀正しく頭を下げた。

横澤隆史は、表向きは八丁堀同心桐嶋の家の使用人だ。
妻が先立ち、娘も嫁ぎ、女手のない桐嶋家の家事を取り仕切っている。
元々手先が器用なこともあり、無難にこなせていると思う。
世の奥方ばかりが集う店で、夕飯の食材を買い求めることにもすっかり慣れた。
主の桐嶋は「お前は本当は使用人じゃなく後妻だ」と言う。
その言葉に怒りつつ、実は嬉しかったりもする。

今日は馴染みの呉服屋で、新しい着物を見繕った。
身の丈は横澤と同じくらいなので、横澤と寸法が合えば桐嶋は問題なく着られる。
迷った末に二着ほど新調した。
ちなみに横澤は自分用の着物は買わない。
桐嶋が着古したものに少々手直しをして、自分用に仕立て直すのだ。

そして桐嶋家に戻る途中、横澤は神社の前を通りかかった。
かつてここの神社で少年を拾ったこともあり、神主の男とは旧知の仲だ。
いつもは一礼だけして通り過ぎるのだが、今日は足を止めた。
幼い頃からよく知っている少女が、鳥居の下で佇んでいたからだ。

「どうしたんだ?桜」
「こんにちは。横澤のお兄様」
少女は桐嶋の孫の桜だった。
娘の日和同様、横澤にとっては家族のように大切な存在だ。
だがもう髪に白いものも多いのに、未だに「お兄様」と呼ばれるのは少々恥ずかしい。
ましてや桐嶋が「お祖父様」と呼ばれているのだから、なおのことだ。

「元気がないな。何かあったのか?」
「母上様と喧嘩中なのです。」
「喧嘩だぁ?何があった?」
「一緒になりたい方がいると申し上げたら、反対されたのです!」

一緒になりたい方がいる。つまり結婚。
驚いた横澤だったが、すぐに気を取り直すと「相手はどんな男なんだ?」と問いかける。
男の素性を聞かされて、横澤は日和が反対する理由がわかった。

桜が惚れた男は棒手振の魚屋だった。
店を持たず天秤棒を担いでの行商で魚を売っている男で、貧乏な長屋暮らしだ。
日和の嫁ぎ先であり桜の実家の五百川家とは、違いすぎるのだ。

「日和は心配なんだ。お嬢様育ちの桜が棒手振の女房なんて務まらないってな」
「そんなことありません!」
「五百川の家じゃ使用人が何人もいるだろ。そいつらがしていることを全部お前がするんだぞ。」
「できます!」
「今みたいに習い事もできないし、新しい着物だって早々誂えられないぞ。」
「大丈夫です!」
桜は横澤が何を言っても、まったく動じない。
日和といい、桜といい、桐嶋家の血を引く女は強いのだ。

「ならちゃんと日和を納得させろ。間違っても逃げて、駆け落ちなんてするなよ。」
横澤はさり気ない口調を装いながら、釘を刺した。
桜の恋は横澤だって心配だが、主である男に恋をする自分には言えることはない。
それならば、せめて間違った方向に進まないように祈るだけだ。

「一緒に来い。どうせ日和は実家に駆けこんでいるだろう。」
横澤は鳥居を潜ると、社に向かって手を合わせた。
かつて日和の幸せを願ったように、今は桜の幸せを願う。
それこそが今の横澤の幸せだった。

*****

「父上様も一緒に反対してくださいね。」
すっかり奥方の貫録を身に着けた日和が、念を押す。
だが桐嶋は「それもなぁ」と、頭を掻いた。

「父上様は桜が苦労してもいいのですか?孫が可愛くないとでも?」
「桜はかわいいさ。だけど曾孫の顔も見たいし」
「まったく不謹慎な」
「何を言う。お前だって孫ができれば、この気持ちがわかるだろう。」

一緒に反対してくれると思った桐嶋の煮え切らない態度に、日和は焦れたようだ。
日和が桜の結婚に反対する理由は聞いたし、その気持ちは理解できる。
苦労知らずで育った娘に、貧乏長屋の棒手振の魚屋の女房など務まるのか。
同心として町の者たちの暮らしを知る桐嶋には、日和以上にその苦労を察することができる。
日和の母親としての心配も分かるが、それだけで反対するのはどうも腑に落ちない。

「なぁ、ひよ」
桐嶋は幼い頃の呼び名で、娘を呼んだ。
懐かしいその響きに、険しかった日和の表情が少し和らぐ。
その表情に桐嶋も少しだけ笑みを浮かべた。

「お前が五百川の小倅に惚れたのは、あいつの家のせいか?」
「小倅なんて言い方、やめて下さい。」
「いいから答えろよ。嫁に行こうと思ったとき、家は関係あったか?」
「・・・ないです」

日和はいかにも渋々といった体で、答えた。
元々日和の夫、五百川勇斗は桐嶋の同僚の同心、五百川の甥だ。
その縁で知り合い、恋に落ち、日和は嫁いだ。
五百川家と桐嶋家が同じ程度の家柄で、財力もほぼ同じであるのは偶然に過ぎない。

「惚れるのに理由なんてない。ましてや家なんか関係ない。」
「じゃあ父上は、許せっていうんですか?」
「ただ許せとは言わない。きちんと桜と話し合って見極めろ。」
「何を見極めるんです?」
「桜の覚悟だ。ちゃんと魚屋の女房になれるのか。無理と思ったら反対すればいい。」

桐嶋の言葉を、日和はじっと考えている。
日和は頑固ではあるが聡明だ。
きちんと理詰めで話せは、理解する。
それでも日和が納得できない表情なのは、桜の苦労を思ってのことだ。

「お前が子供の頃、神社の鳥居に登ろうとしたときのことを覚えているか?」
「何ですか?藪から棒に」
日和がまだ幼い子供だった頃、神社の鳥居に登ろうとしたことがある。
桐嶋は神様の罰が当たるからやめろと言った。
だが日和は澄ました顔で言ったものだ。
鳥居に登ったくらいで怒るなんて神様は狭量です、と。

「俺は口では止めたけど、常識や世間体に囚われないお前が頼もしかったよ。」
桐嶋はそう言って、茶を啜った。
だから桜にも自由に生きてほしい。
それこそが桐嶋の偽らざる本音だ。
きっとそれは日和だって、わかっていることだろう。

濃すぎた茶は冷めてしまっており、余計に苦さが際立った。
その時、玄関が開く音が聞こえた。
横澤の「帰りました」という声と、桜の「お祖父様、お邪魔します」という声が響く。

「おお、横澤。悪いが茶を淹れてくれ。それから何か茶菓子も頼む。」
桐嶋は声を張り上げた。
さてこれから母娘の対決が始まる。
この勝負を特等席で見物するのに、美味い茶と茶菓子は欠かせない。

【続く】
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