和3題-1

【和傘】

柳瀬優は、今日も機嫌がよかった。
いつも通りの歩調で、いつもと同じ場所へ向かっていた。

柳瀬はこの界隈ではかつて遊び人として知られていた。
元々旗本の嫡子だったのに、何を仕出かしたのか勘当されて、家を追い出された。
不思議と金回りだけはよく、毎日好きなことをして遊んで暮らしていると。
だがそんな人も羨む暮らしをしているのに、少しも楽しそうに見えない。
どちらかと言えば人生に冷めており、どこか投げやりな雰囲気だった。

そんな柳瀬がある娼館に通い始めた時期があった。
何でもそこの娼婦に入れ上げてしまったという。
その娼婦が店に出る日は、ほぼ毎日通っていた。
そんなに逢いたいのか、他の男に触らせたくないのか。
かつての冷めた柳瀬を知る者は、ただただ彼の変貌に驚いていた。

だがその娼館が火事になり、そのまま店を畳んでしまった。
娼婦たちは借金を棒引きされ、彼のお気に入りは江戸を離れたという。
柳瀬は未だかつてないほど落ち込み、無気力になった。
町に遊びに出ることもなくなり、毎日家に閉じこもって暮らした。
使用人の話では、昼も夜も浴びるように酒を飲んでいるらしい。
このままでは身体を壊してしまうと心配している頃、唐突に変化が訪れた。

柳瀬は家で酒を飲むことはなくなった。
決まった時間に起きて、昼近くになると近所の一膳飯屋に出かけて、朝昼兼用の食事をする。
昼からは好きなことをして過ごすと、夜には同じ飯屋で夕食だ。
そして看板まで店でのんびりと過ごし、夜半に帰宅する。
今では酒はその飯屋で喉を湿らせる程度しか飲まないという健康的な生活だ。

柳瀬の友人たちは当初、その一膳飯屋に可愛い娘でもいて、見初めたのかと噂した。
だがその店は若い兄弟が切り盛りする店だと聞いて、首を傾げる。
なぜ柳瀬はその店に通い詰めるのか。
そもそも荒んだ生活に堕ちた彼を立ち直らせたのは、いったい何だったのか。

だが柳瀬は何も語らなかった。
暑い日も寒い日も、雨の日には和傘を差して、一膳飯屋に通い続ける。
その表情は明るく、かつての彼からは想像もつかないほど生き生きしていた。

*****

「優さん、いらっしゃい!」
千秋は笑顔で、一番乗りの客を出迎えた。

千秋が江戸へ戻って来て、もう数年になる。
かつては千春と名乗って、男娼をしていた。
娼館が火事で店を畳んだ後、同じく男娼をしていた芳雪と共に江戸を離れた。
2人は自分たちの故郷に戻り、もしも事情が許せばそこで暮らすつもりでいた。

最初に訪れた芳雪の故郷では、すでに両親は他界していた。
住んでいた家ももうなく、顔見知りもいない。
聞けば何年も前に流行り病で、村人のほとんどは死んでしまったらしい。
芳雪が売られたことを知る者がいないのはいいが、もはや見知らぬ土地も同じだ。
ここに根を下ろして生きる気にはなれなかった。

次に千秋の故郷に向かったが、そのときのことはあまり思い出したくない。
両親は健在だったが、息子の顔を見ても喜ぶことはなく、困惑していた。
妹はもうすぐ嫁ぐことになっており、相手はすこし離れた村の地主だという。
息子を売ったことが嫁ぎ先に知れるとまずい、早く消えてくれと言われた。
結局2人は江戸に戻り、そこで新たな暮らしを築くことにした。

芳雪は江戸に戻るなり、この店を手に入れた。
元々老夫婦が営んでいた蕎麦屋だったが、その夫婦の死後、荒れたまま放置されていたのだ。
傷んでいる部分を修繕し、丁寧に掃除をして、一善飯屋を始めた。
決して広い店ではないし、売り上げもたかが知れている。
だが2人で生きるには充分だった。

店では千秋は芳雪のことを「兄さん」と呼ぶ。
世間的には兄弟だということにしているのだ。
ひょっとして2人が男娼の羽鳥と千春だと気付く者がいたらどうしようと思った。
だがそれも杞憂に終わった。
そもそも娼館に通うような客は、そもそもこんな小さな一善飯屋になど来ない。

あの頃の客で、この店に来るのはこの柳瀬だけだ。
だが今では良き友人である柳瀬は、絶対に2人の秘密を暴露することはない。
あの娼館での日々が嘘のように、穏やかで幸せな毎日を過ごしている。

「今日は何がいいんだ?」
「秋刀魚が入りました。美味しいですよ。」
「じゃあ、それを頼む。」

千秋は「はぁい」と返事をすると、芳雪に「秋刀魚をお願いします」と声を張り上げた。
調理場というにはささやかな炊事場から「おう」と答えが返ってくる。
他の席の客からも「こっちも秋刀魚を頼む」と声が上がった。

「兄さん、秋刀魚をもう1つ」
千秋は声をかけながら、チラリと店の隅に目をやった。
そこには古い和傘が1本、立てかけてある。
それは千秋の大事なお守りだった。

*****

まったく。
芳雪は客席で談笑する千秋と柳瀬を見て、そっとため息をついた。

江戸へ戻って、この一善飯屋をやり始めて、早数年。
商売は順調で、贔屓にしてくれる客も増えた。
だが最初の頃は、大変だったのだ。
こういう商売は人情で支えられる部分が大きい。
過去を隠して生きようとする芳雪と千秋は、なかなか信用されなかった。

それを支えてくれたのは、あの柳瀬だったのだ。
店を買う金を借りるときに保証人になってくれたし、人柄についても太鼓判を押してくれた。
その時には感謝をしたけど、疑いもしたのだ。
柳瀬は千秋のことを好いているが、芳雪のことは嫌っていると思う。
どうしてこんなによくしてくれたのか。

今になってその疑問が解けた。
こうして毎日店に食事に来て、千秋と楽しく談笑している。
それだけでなく千秋の頭をなでたり、手を握ったり、まったく腹が立つことだ。
だが店を開くときに世話になったのだし、文句も言えない。
それこそが柳瀬の狙いだったのだ。

「はいよ。秋刀魚」
芳雪は不愛想な声と共に、焼きあがった秋刀魚を皿にのせる。
千秋が「はい、秋刀魚ね」と答えると、茶碗に飯を盛り、汁物と小鉢を用意する。
これが本日のおすすめだ。
千秋がそれらを盆に乗せて、柳瀬のところへ持っていくのを見ながら一瞬だけ睨んでやる。
だが柳瀬はそれに気付いても、涼しい顔だ。

「まぁ些細なことだ。」
芳雪は自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
千秋は今では柳瀬を大事な友人と思っており、毎日来てくれることを喜んでいる。
あの笑顔のためなら、芳雪の嫉妬など取るに足りないことだ。

芳雪は店の隅に立てかけられた和傘を見た。
千秋の故郷を訪ねたとき、両親から冷たい言葉を投げつけられた。
本当は暖かく迎え入れたかっただろうが、妹の幸せを思うとそれもできない。
千秋以上につらかったのではないかと思う。

再び江戸を目指そうとした日は雨だった。
そのときたった1人、見送ってくれた千秋の妹が手渡してくれたものだ。
妹は千秋に「ごめんね」と何度も詫び、芳雪に「兄をお願いします」と頭を下げた。
千秋にとって、大事な思い出の品だ。

「そういえば桐嶋の旦那の娘が嫁いだってよ。」
「え、日和様が?どちらに?」
「五百川家だと。桐嶋の旦那も横澤も泣いてたらしいぜ。」
「へぇぇ、なんか想像がつかないですね。」
「それに祝詞を上げたのがあいつなんだから、笑えるよな。」

柳瀬と千秋が笑いながら、楽しそうに話している。
それを聞きながら、芳雪は頬を緩めた。
過去を大っぴらにはできないが、幸せな話を聞くのは嬉しい。
あの娼館での日々はつらかったが、暖かい絆もあったのだ。
今ではもうそのつながりは、この店の名前だけになっている。

「千秋、もう1つ秋刀魚が焼きあがったぞ。」
「はぁい。」
芳雪に促されて、千秋はようやく柳瀬の席から離れた。
柳瀬が忌々しそうにこちらを見たが、知ったことではない。
一善飯屋「羽鳥」は、今日も商売繁盛だ。

【終】お題「和3題-2」に続きます。
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