和3題-1

【鈴】

「こんにちは」
神社を訪れた昔馴染みが、いつも通りの笑顔で神主と従者の男に頭を下げた。
男娼から人気絵師に変貌を遂げた男は、年齢を重ねても美しい。
優雅な所作に合わせて、鈴がちりんと鳴った。

「よぉ、雪名。」
普段は威厳のある尊大な態度の神主が、砕けた口調で手を振る。
従者の男はそれを横目で睨みながらも、丁寧に頭を下げてくれた。
男の名前は皇で、雪名は男娼をしていた頃の源氏名だ。
だがそれをそのまま絵師としても使っている。
今ではもうどこへ行っても「雪名」と呼ばれ、本当の名はほとんど使わない。

「お前、最近はほとんとによく来るなぁ。商売繁盛で結構なこった。」
神主の男が茶化すように「まいどあり!」と付け加える。
神に仕える者らしからぬ振る舞いに、従者の男が目を剥いた。
皇はそんな相変わらずの2人を見ながら「まぁまぁ」と宥めた。

皇はかつてあの娼館で働いていた者の中では、一番頻繁にここを訪れている。
絵が売れるたびに感謝を込めて、参拝する。
それが絵師になった皇の習慣なのだ。
今ではすっかり人気絵師になり、描けばすぐに売れてしまう。
その度に賽銭を払っていく皇は、神社の「上客」だ。

「近所の方が、野菜と卵をたくさん下さいました。よかったら少しお持ち下さい。」
「わ!助かります。朝比奈さん。」
如才ない従者の男の気遣いに、皇は笑顔を向けた。
賽銭の礼のつもりなのだろう。
差し入れを貰うほど近所とうまく付き合っているのは、この従者の男の手腕によるところが大きい。

「そういえば、嵯峨さんと律さんから便りはありますか?」
「いや。あの2人だけはその後の消息がさっぱりわからねぇんだ。」
「そうですか。。。」

皇は肩を落とすと、ため息をついた。
娼館にいたころ、そこにいる全員の絵を描いたが、律という男娼の絵だけは描かなかった。
数奇な運命を辿った律には独特の雰囲気があり、それを表現する自信がなかったのだ。

「今ならあの人を描けると思うんだけどな。」
皇がポツリと漏らした言葉は、神主と従者の耳に届くことなく消えた。

*****

「ただいま帰りました。」
「お帰り。」
帰宅すると、一緒に暮らす青年が廊下で雑巾掛けをしていた。
それを見た皇は思わず「翔太さん!」と声を荒げた。

皇は実家の料亭が所有する別宅に、ある青年と2人で住んでいる。
青年の名は翔太。かつて木佐という名で男娼をしていた。
ここに住み始めた当時は、世間は冷たかった。
かつて男娼をしていた2人の男が、ひっそりと住んでいる家。
だが絵が売れ始めると共に、そんな噂は嘘のように消えた。
今では周辺に住む者はにこやかに挨拶してくれる。
わざわざ絵師「雪名」に会いたくて、訪ねてくる者さえいる。

「何してるんですか!」
皇は慌てて、翔太の手から雑巾を取り上げた。
翔太は数年前まで小間物屋で働いていたが、今はもう辞めている。
理由は体調がよくないせいだ。
よく発熱したり、激しい動悸やめまいの発作が起きたりする。
特に季節の変わり目の時期に、その傾向が強い。
最近では床から起き上がれない日もあるほどだ。

翔太はいくら皇が頼んでも、医師に診てもらうことを拒んだ。
かつての娼館の主だった神主の男は、多分長年の無理のせいだろうと言う。
そもそも男を受け入れるようにできていない身体で、男に抱かれ続けた。
特に翔太は、娼館で一番長く働いた男娼だ。
身体がおかしくなっても無理はない。

「俺も遊んでばかりいられないし、掃除くらい」
「気持ちだけで充分です。はやく身体を治すのが先ですよ。」
皇は翔太をそっと抱きしめると、耳元でそう囁いた。
鈴がまたちりりと音を立てる。
皇の胸元で揺れる鈴は、懐の財布につけられており、肌身離さず持ち歩いている。
以前、小間物屋で働き始めた翔太が、初めての給金で皇に贈ったものだ。
もちろん店の商品で「これなら財布をすられてもすぐに気付くだろ?」と笑っていた。

「見て下さい。神主さんが野菜と卵を分けてくれました。」
皇は籠に入れられたそれらを見せながら、微笑した。
籠の中には、煎じて飲むための薬草も入っていたからだ。
彼らも翔太の身体を気遣ってくれているのが嬉しい。

「いつも思うんだけど、あの人たちが神主って。神様は怒んねーのかな。」
翔太は籠の中の野菜をチラリと見た後、そう呟いた。
それを聞いた皇は思わず吹き出してしまう。
身体の調子が悪くても、翔太の物言いは変わらない。
皇にとってはそのことが救いだった。

*****

「俺は罪深いことをしたと思うか?」
神主の男は従者に問いかける。
だが従者の男は黙ったまま、じっと主を見つめていた。

罪深い。
静かな神社の境内に、その言葉が重く響く。
それはついさっきまで参拝に来ていた皇の伴侶、翔太のことだ。
身体を壊してしまったのは、長い男娼生活のせいだ。
神主の男は、静かに自分を責めている。

「罪深いことをしたんだよな。」
神主の男はまた口を開く。
だがやはり従者の男は答えなかった。
主の中ではもう結論は出ており、答えなど求めていないからだ。

皇は神主の男に感謝している。
当時の翔太は借金を早く返したくて、毎日でも客をあてがってほしいと言った。
だがそれだけは絶対にさせなかった。
娼婦も男娼も2、3日に1度は休ませて、身体の疲れを取るようにさせていたのだ。
他の店にいたら、翔太はもっとひどいことになっていただろう。
だけど神主の男にとっては、気休めに過ぎない。

「懐かしい名前を聞きましたね。」
「嵯峨と律か。」
答えのない話で自分を責める主のために、忠実な従者は話題を変えた。
嵯峨と律も男娼で、2人で生きる場所を求めて江戸を離れたのだ。

神主の男と従者がこの神社に居ついた理由は、旅立った娼婦や男娼たちが戻った時に見つけやすいからだ。
かつての娼館のすぐ近くにあり、因縁もある場所だ。
事実旅立っていった者たちのほとんどが、ここを「参拝」してくれた。
遠く離れても、文などで近況を知らせてくれたりする。

だが嵯峨と律だけはまったく消息がわからない。
娼館がなくなった直後、羽鳥と千春が途中まで一緒に旅をしたことは聞いている。
それ以降何をしているのか、まったく不明だ。

「きっと楽しくやってるんだろう。」
神主の男は、そう思うことにした。
不幸な想像をするよりは、楽しいことを考えた方が幸せに決まっている。

【続く】
2/3ページ