和3題-1

【着物】

「まったく気楽な稼業だよな」
男は本殿にごろりと横になりながら、ポツリと呟く。
もう1人の男はそれを見下ろしながら、ため息をついた。

寝転んでいる男は、近隣の者から「神主さん」と呼ばれている。
どこからともなく現れ、誰もおらず寂れていた神社に居着いてしまった。
元々この神社は曰くつきである。
もう10年程昔のことだが、妖怪の狐が棲み付いていたという。
さらに同じ頃、どこかの商家のお内儀が殺されて埋められていたらしい。
だからここは、神社でありながら縁起の悪い場所とされていた。
訪れる者もなく、寂れて、さながら物の怪の巣食う廃屋のような佇まいだった。

そこにこの男が現れたのだ。
もう1人、従者らしき男と共に、ここで暮らし始めた。
近隣の者たちは、大いに怪しんだ。
宿無しのゴロツキか、何かを企む悪党か。
もしかしたらこの神社の邪気に惹き付けられた魔物かもしれない。
彼らは考えた末に、奉行所に「不審者がいる」と訴えたのだ。

だがこの辺りを巡回する定町廻り同心が、この男の身元を請け合った。
訳あって細かくは明かせないが、身分のある人物なのだという。
万が一の時には自分が責任を持つとまで言われては、何も言い返せない。

2人の男はそんな騒ぎなど素知らぬ顔で、朽ちかけた神社の修繕を始めた。
本殿の襖や畳を張り替え、鳥居や灯篭や手水舎を磨き、社庭の木々を整える。
彼らの身元を請け負った同心の家で雑用をしている男も手伝いに来ていた。
程なくして神社は、お参りができるほどの見栄えを取り戻した。

*****

「まったく気楽な稼業だよな」
男は本殿にゴロリと横になりながら、ポツリと呟いた。
従者の男はそれを見下ろしながら、ため息をつく。

「まったく。あなたは神主なのですよ。だらしなく寝転ぶのは止めてください。」
「誰も見てねーよ。」
「私が見ています。それに言葉使いも気を付けて。」
「お前、細かいなぁ」

従者の男曰く、見ていないところでもきちんとした立ち居振る舞いをしなければいけない。
粗雑な振る舞いは、人と相対した時、どうしても滲み出てしまうと言うのだ。
だが神主の男は、そうは思わなかった。
神主用の白い上衣と黒い袴姿の時には、それなりの所作はできるつもりだ。
だからこうして人目がないときには、息を抜いてもかまわないと思っている。

それにしてもやはり気楽な稼業だ。
以前は商いをしており、商売敵の陰謀に晒され、人の裏をかくことばかり考えていた。
だが今は違う。男を「神主さん」を呼ぶ者たちに表も裏もない。
それどころか、ただ境内を歩いているだけで「ご苦労様」などと労われたりする。
こっちはなんのご苦労をしている自覚もないというのに。

「人ってのは、着物に騙されるんだなぁ。」
神主の男は、冗談とも本気ともつかない口調でそう言った。
最初こそ胡散臭い目で見られたが、神社の修繕が終わる頃にはなくなった。
今では神主の着物を身にまとい、背筋を伸ばしているだけで敬われる。
もっともらしい服装になっただけで、人々の態度がガラリと変わったのだ。

神社だって、荒れ放題だったときには不吉な場所とされていたのに。
ちょっと手を入れただけで、普通の神社と同じになった。
今では参拝に訪れる者も多く、賽銭や供え物も途絶えない。
人はやはり見た目に騙されるものだと、男は苦笑せざるを得ない。

*****

「そうだ。着物と言えば、新しい儀式用の着物を誂えますからね。」
「何のためだ?」
「お忘れですか?来月、桐嶋様のお嬢様が嫁がれるのですよ。」
「ああ。そうだったな。」

神主の男は苦笑した。
八丁堀同心、桐嶋禅の娘の日和が、もうすぐ嫁ぐことになっている。
婚礼の時には、祝詞を上げてほしいと頼まれているのだった。

「あの旦那も酔狂だねぇ。俺が本当の神主でないことなんざ、わかってるのにさ。」
「それは、そうですが」
「まぁ適当にやっときゃいいか」
「龍一郎様!」

不意に従者の男が声を荒げて、神主の男の名を呼んだ。
この男がその名を口にした時には、これ以上ふざけてはいけない。
神主の男は、それが身に染みていた。

神主の男はかつて娼館の主をしていた。
だがその娼館を火事で失い、抱えていた娼婦たちもすべて借金を棒引きにして、自由にしたのだ。
さてこれからどうやって生きていくかと迷った末に、この神社に落ち着いた。
怪しむ近隣の者たちに身元を保証してくれたのが、同心の桐嶋なのだ。
口ではふざけていても、娘の婚礼を適当に済ませるようなことはしない。

それにしても穏やかな日々だ。
娼館で稼いだ金はたんまりと残っている。
神社に奉納される賽銭と合わせれば、暮らし向きには困らない。
娼館で働いていた娼婦たちの何人かは、時々参拝と称して、顔を見せてくれる。
何より、ずっと自分に仕えてくれる男が変わらず隣にいるのだ。

他の連中もうまく幸せになっているといいんだが。
神主の男は寝転んでいた身体を起こすと、大きく伸びをしながらそう思った。

【続く】
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