和5題-3
【野分】(のわき)野の草を吹き分ける強い風。台風。
*****
「野分ってか。結構な旅立ち日和だ。」
井坂はゴロリと寝転んだまま、ニヤリと笑う。
外では吹き荒れる風と、何かが飛ばされてぶつかる音などが聞こえている。
「何を格好をつけてるんですか。ただの悪天候ですよ。」
朝比奈はそんな主の様子を見ながら、冷静な表情を崩さなかった。
寺に身を寄せていた娼婦や男娼たちは、全員旅立った。
身体を売る生活に別れを告げて、新たな1歩を踏み出したのだ。
それは井坂の地味な努力による部分が大きい。
娼婦たちのほとんどはもう故郷との縁が切れている。
今さら故郷に戻っても、身体を売っていたことは知れ渡っているからだ。
故郷に戻れば、好奇な目を向けられ、無遠慮な噂にさらされてしまう。
それならばと井坂は、希望する者たちに奉公先を捜してやった。
「これならみんな最後に、井坂っていい奴だったと思うだろ?」
「実際に走り回ったのは、私なのですが」
朝比奈は微かに頬と唇を緩ませている。
周りから見ると、これは微笑なのか?と首を捻ってしまう。
だが実はこれが朝比奈の爆笑だったりする。
結局、娼館の火事の下手人は、商売敵の娼館ということになった。
死人が出なかったから、重い刑罰にはならないだろう。
だがそれ以上に世間が騒いだ。
いくら商売敵でも、火をつけるのは言語道断であると。
あれではもう商売は続けられないだろう。
事実もう店は閉じてしまって、今は廃墟となっている。
「まぁ幸せを祈るしかねぇよな。」
井坂は自分に言い聞かせるように、呟いた。
その言葉が向けられた相手は、旅立っていた者たちだけではない。
井坂の唯一の気がかり、引き抜かれて向こうに移った娼婦たちへも向けられてる。
彼女たちは店がなくなると同時に、姿を消してしまったのだ。
できれば何とか身柄を引き取りたかったが、できなかった。
「本当にお優しいことです。」
応じた朝比奈の言葉には、皮肉も含まれている。
最後こそ綺麗な形で終わったが、娼館で大儲けしたのは間違いない。
結局一番得をしたのは、まぎれもなくこの井坂なのだ。
「じゃあ俺たちも行くか」
「この強風の中をですか?風が止むのを待った方が」
ようやく身体を起こした井坂に、朝比奈が意見した。
なにもわざわざこんな天候の日に出なくてもよさそうなものなのに。
「娼婦たちも苦難の道に旅立ったんだ。俺たちもそうしよう。」
「どこまで格好をつけてるんですか。」
朝比奈は文句を言いながらも、歩き出した井坂に従った。
例え野分でも、この主と一緒ならきっと退屈しない。
朝比奈は井坂の背中を見つめながら、そっと頬と唇を緩ませた。
*****
「お兄ちゃん、早く!」
日和の声に急かされて、横澤は歩調を速めた。
娼館の中で最も早く身の振り方が決まったのは、横澤だった。
定町廻り同心、桐嶋禅の屋敷で働くことになったのだ。
仕事は家の中の仕事全般。
手先が器用な横澤は、炊事も洗濯も食事の支度もこなせる。
れは桐嶋にとっても嬉しい誤算だった。
桐嶋は横澤を引き取りたい一心で、家事の能力が高いことは知らなかったのだ。
「娼館で働いていた者を置くのは、よくないだろう?」
横澤は当初、何度もそう言って桐嶋の誘いを固辞した。
すると桐嶋は作戦を変更した。
今度は娘の日和を連れてきて「お兄ちゃん、うちに来て」と誘う。
身を寄せていた寺には個室などなく、その様子は男娼たちに見られている。
嵯峨などは「横澤が、お兄ちゃん?」と爆笑する有様だ。
「わかった。行けばいいんだろう?」
晒し者状態にされた横澤が、ついに根負けして桐嶋の屋敷に移り住んだのだ。
今まで桐嶋家は大きな屋敷なのに、住み込みの使用人はいなかった。
年に一度、庭師と左官を入れて、家と庭の手入れを任せるだけだ。
だからどうしても掃除など行き届いていない部分もある。
つまり横澤にはいくらでも仕事があった。
当初、横澤は極力外に出ずに、淡々と家の仕事をしていた。
娼館で働いていた自分のせいで、噂や中傷が広まるのが心配だったのだ。
だが拍子抜けするほど、近隣の住民には親切に受け入れられていた。
商売敵の娼館の嫌がらせで、横澤が男娼を庇って怪我をしたことが知られていたせいだ。
あの火事騒ぎと相まって、横澤は本人が困惑するほど英雄扱いされた。
それもこれも桐嶋が噂を利用して情報操作したせいだ。
「お兄ちゃん、早くってば!」
日和が弾んだ声で、横澤を呼んだ。
今日は日和の買い物のお供だ。
最近若い娘の間で評判になっている小間物を扱う店がある。
その店に言ってみたいので、一緒に来て欲しいと日和に頼まれたのだ。
正直言って気が重い。
女の子らしいかわいい小間物の店など、自分のような男には不似合いすぎる。
野分の中を進む方が、まだましだ。
だが日和は今や雇い主の娘であり、ことわることなどできない。
重い足取りで従い、店に入った横澤は思いがけない人物と遭遇した。
「あれ、横澤さん?」
「・・・お前、木佐か!」
「やだなぁ。今は小間物屋の翔太さんだよ!」
それは間違いなく、かつて娼館で男娼をしていた木佐だ。
だがその印象はかなり違う。
一目で娼婦と見える衣装を纏い、色香を振りまいていた木佐。
だが今はごく普通の町人の身なりで、愛らしい少年のように見える。
「翔太さん、これ似合う?」
客の1人の若い娘が、可愛らしい巾着袋を手に取って聞いてくる。
木佐は「うんうん、かわいい」と笑って答えている。
しかも同じ図柄の小銭入れを手に取って「揃いで持つといいでしょ?」などと勧めている。
さすが元売れっ子男娼、商売っ気は見事なものだ。
「あの子に買ってやりたいんだが、どれがいい?」
横澤は半ば呆然としながら、木佐にそう聞いていた。
どうせ初めて日和と買い物に出た記念に、何か買うつもりでいたのだ。
すると木佐は舌なめずりしそうな表情になった。
「これなんか、今お召しのお着物に合いますよ。」
木佐はいくつか商品を見繕って、横澤と日和の前に並べてくれる。
日和はそれを見ながら「どうしよう」と浮かれた声で聞いてきた。
この分ではいくつも買わされるのは目に見えている。
まぁいい。幸せなのだから。
横澤は苦笑しながら、財布を取り出した。
散財は日和だけでなく、木佐への祝儀も込めてやろう。
*****
「桐嶋様、終わりましたよ。」
今で寛いでいた桐嶋は、小さく「ご苦労さん」と答えた。
手拭いで汗を拭う男の笑顔は、気さくなのにどこか神々しい。
「お茶を淹れましょうか?」
庭の草むしりを終えたばかりの男が、さらに気を使って声をかけてくれる。
だが桐嶋は「気を使うな」と鷹揚に答えた。
男に頼んだのは、建付けが悪くなった木戸の修理と庭の草むしりだった。
横澤にさせてもいいのだが、まだ怪我が完全に治っていない。
だからわざわざ別の人間を呼んだのだ。
「さすが絵師志望、手先は器用だな。雪名。」
「店での名前はご勘弁を。今は皇です。」
男は苦笑しながら、汗を拭いた手拭いを畳んでいる。
そんな仕草さえも、まるで役者のように綺麗だった。
娼館が閉じた後、雪名は実家である料亭が持つ別宅に暮らしている。
料亭兼自宅からさほど遠くない小さな家だ。
元々は先代、つまり雪名の祖父が隠居した時に移り住んだ場所だという。
祖父母も亡くなり、空き家となっていたところを借り受けているのだ。
雪名の実家としては、実に微妙な決断だった。
勘当したとはいえ、息子がかわいいことは間違いない。
だが商売をしている以上、男娼になった息子をもう1度家には迎えにくい。
そこで空いている別宅に住むようにしたのだ。
「まったく笑えますよね。娼館に料理を届ける仕事はしても、息子が働くのは駄目なんて。」
雪名が木佐の傍にいるために、娼館で働くときにそう言った。
別宅に住むことだって、葛藤はあっただろう。
だけど結局、親の申し出を受け入れた。
親とのつながりを完全に切るよりその方がいいと桐嶋も思う。
雪名は絵師の修行をしながら、こういう雑用仕事を引き受けて小金を貰っている。
やたら綺麗な顔なのに、気さくに雑用をしてくれるので、好評なようだ。
もちろん恋人の木佐も一緒に住んでいる。
若い娘が好みそうな小間物を扱う店で働いていると聞いている。
「木佐、じゃなかった翔太は元気かい?」
「ええ。もうすっかり看板娘ですよ。」
桐嶋は思わず「看板娘、だぁ?」と聞き返した。
それに雪名も浮かない表情だ。
「もうすっかり人気者で。俺、心配です。」
「人気ったって、相手は客の若い娘だろう?」
「翔太さんの魅力に、若いとか男女は関係ないんですよ。」
どうやら雪名は真剣に、木佐翔太の交友関係を心配しているようだ。
桐嶋はやれやれとため息をついた。
木佐が雪名しか眼中にないのは明らかなのだが、雪名にはその自信はないらしい。
「早く絵師になって、仕事を辞めさせてやればいい。」
「そうですね!頑張ります!」
半ば冗談の桐嶋の助言を、雪名は真剣に受け止めている。
そういえば、日和が横澤を連れて出かけたのも、確か小間物屋だったか?
桐嶋はふとそう思ったが、すぐにどうでもいいと思った。
木佐と雪名も幸せそうだし、横澤と日和も仲がいい。
何よりも同心の桐嶋がこうして暇なのは、世の中が平和な証拠だ。
*****
「ここで別れよう。」
「嵯峨さんもお元気で。」
嵯峨の言葉に、羽鳥が頷く。
そしてどちらからともなく手を伸ばし、固い握手を交わしていた。
嵯峨と律、羽鳥と千秋は、西に向かっていた。
それぞれに思うところがあって、江戸を離れたのだ。
江戸で生まれ育った嵯峨と律にとっては、初めての旅になる。
どちらかといえば物静かな律が、いつになく口数が多く楽しそうだ。
嵯峨はそんな律を、楽しそうに眺めている。
対する羽鳥と千秋は、あまり楽しい気分にはならなかった。
旅路ではどうしても、売られて江戸へ来た時のことを思い出す。
金のために故郷から引き離されたあの時の悲しみ。
それを追体験しているような気分だった。
それでも旅に出たのは、千秋の希望だった。
娼館を畳んだとき、井坂は些少だが金を渡してくれた。
村に帰り、その金を両親と妹に渡したい。
歓迎されるとは思っていないが、とにかく会いたいと思ったのだ。
その真摯な気持ちに羽鳥も折れた。
羽鳥が最後に故郷を訪れたのは、千秋が娼館に来るより遥か前のことだ。
故郷がどうなっているのか、肉親が生きているのかさえわからない。
羽鳥もそれを確認して、最後に故郷の風景を目に焼き付けておこうと思った。
だから羽鳥と千秋は故郷を目指すことにした。
それからまた2人で、江戸に戻って仕事を捜す。
そしてやはり旅に出るという嵯峨と律と共に、江戸を出たのだ。
ともすれば重い足取りになるところだが、嵯峨たちが一緒にいることで助かっている。
千秋が律と話をすることが楽しいようで、ずっと笑顔でいるからだ。
「律さんは、海を見たことがある?」
「いえ。ありません。でも嵯峨様が連れて行ってくれるそうです。」
「そうかぁ。それはいいね。」
2人の会話は本当に他愛無い。
だがその姿はかわいらしく、見ている羽鳥や嵯峨まで和んでしまっている。
そんな楽しい旅もついに分岐点、嵯峨たちと別れる場所に来ていた。
「律さん、元気でね。きっといつか逢おうね。」
「はい。きっといつか。」
千秋も律も涙ぐんでいる。
口では「きっといつか」などと言っても、もう2度と会うことはない。
何しろ4人とも、まだ住む場所を決めていないのだ。
逢うことはおろか、手紙を書くことさえかなわない状況だ。
「元気でね。律さん、嵯峨様。幸せにね。」
千秋は大きく手を振りながら、嵯峨と律の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
律は何度も振り返ると、手を振り返してくれた。
「千秋、俺たちも行こう。」
「羽鳥様、ありがとう。」
羽鳥がわんわんと泣き続ける千秋に、手拭いを差し出す。
千秋はそれを受け取ると、ゴシゴシと子供っぽい仕草で顔を拭いた。
「ここからはもう羽鳥と呼ぶな。」
「え?」
「羽鳥は店での名前だから。本当の名前は。」
羽鳥は潜めて、耳元で4つの音を囁いた。
ようやく涙が収まった千秋がキョトンとした表情で「よしゆき?」と聞き返す。
「ここからはつらい旅だ。だけど一緒だから大丈夫。」
羽鳥は自分に言い聞かせるように、ゆっくりと歩き出す。
千秋は「はい」と短く答えて、ごく自然に手をつないだ。
*****
「どこへ行くのですか?」
律は静かにそう問いかけた。
政宗は「さぁな」と小さく肩を竦めた。
「とりあえず海を見に行くか?」
政宗がわざとおどけてそう切り出すと、律は小さく「はい」と笑った。
行く先など決めていない。
とりあえず旅をしながら、2人を受け入れてくれる土地を捜すつもりだった。
政宗が一番気にしているのは、律の容姿だった。
茶色の髪と緑の瞳は目立ちすぎる。
異国の血を引いているからと、見た目だけで忌み嫌う者もいる。
律を娼館で世話しているうちに、だんだんと情が湧いた。
身体を売るようなことは止めさせようと、何度も思った。
それでもそれをしなかったのは、この容姿のせいだ。
娼館を出たところで、働ける場所があるとは思えない。
忌み嫌われるよりは、売れっ子の男娼としてチヤホヤされていた方が幸せだと思った。
だがもう娼館はない。
だから政宗は律を受け入れ、伸び伸びと生きられる土地を捜すつもりだった。
どんな場所でも、律が笑っていられるなら、そこが2人の故郷になる。
「海は大きくて、綺麗だそうですね。」
並んで歩く律が、ふと政宗の顔を見上げた。
その表情は少しずつ大人っぽく変化し始めている。
今の律は少年から青年へ変わる、ごく短い時期にいるのだろう。
その横顔はあの小野寺屋の主に似ていた。
律の母親を殺し、そして律までも殺そうとしたあの男に。
おそらく律の母親は異国の者と情を通じたのではない。
本当に偶然に普通と違う髪と瞳を持って生まれただけで、律は正しく小野寺屋の息子なのだ。
そうでなければ、父親との相似は説明がつかない。
多分祖先のどこかに異国の血が入っていて、たまたま律に強く遺伝が出てしまっただけだ。
律の父は妻の殺害と息子の殺害未遂で、桐嶋が捕えた。
どういうお裁きになるのかは知らない。
それは律も政宗も知らなくてもいいことだ。
「思いがけず、野分の道か。」
「のわき?」
「ああ、風が強いって意味だ。」
政宗は小首を傾げる律の髪をなでながら、説明してやった。
この髪と瞳の色のせいで、野分の道を生きていく律。
考えるだけで、自然に表情も声も沈んでしまう。
「風なんか吹いていませんよ?」
律は辺りをキョロキョロと見回すと、不思議そうにまた首を傾げた。
政宗の気持ちをわかっているのか、いないのか。
だがその視線はしっかりと前を見据えている。
そんな律を見ながら、政宗は頬を緩めた。
今は風など吹いていない。
そして2人の道は、どこまでも長く続いている。
【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
*****
「野分ってか。結構な旅立ち日和だ。」
井坂はゴロリと寝転んだまま、ニヤリと笑う。
外では吹き荒れる風と、何かが飛ばされてぶつかる音などが聞こえている。
「何を格好をつけてるんですか。ただの悪天候ですよ。」
朝比奈はそんな主の様子を見ながら、冷静な表情を崩さなかった。
寺に身を寄せていた娼婦や男娼たちは、全員旅立った。
身体を売る生活に別れを告げて、新たな1歩を踏み出したのだ。
それは井坂の地味な努力による部分が大きい。
娼婦たちのほとんどはもう故郷との縁が切れている。
今さら故郷に戻っても、身体を売っていたことは知れ渡っているからだ。
故郷に戻れば、好奇な目を向けられ、無遠慮な噂にさらされてしまう。
それならばと井坂は、希望する者たちに奉公先を捜してやった。
「これならみんな最後に、井坂っていい奴だったと思うだろ?」
「実際に走り回ったのは、私なのですが」
朝比奈は微かに頬と唇を緩ませている。
周りから見ると、これは微笑なのか?と首を捻ってしまう。
だが実はこれが朝比奈の爆笑だったりする。
結局、娼館の火事の下手人は、商売敵の娼館ということになった。
死人が出なかったから、重い刑罰にはならないだろう。
だがそれ以上に世間が騒いだ。
いくら商売敵でも、火をつけるのは言語道断であると。
あれではもう商売は続けられないだろう。
事実もう店は閉じてしまって、今は廃墟となっている。
「まぁ幸せを祈るしかねぇよな。」
井坂は自分に言い聞かせるように、呟いた。
その言葉が向けられた相手は、旅立っていた者たちだけではない。
井坂の唯一の気がかり、引き抜かれて向こうに移った娼婦たちへも向けられてる。
彼女たちは店がなくなると同時に、姿を消してしまったのだ。
できれば何とか身柄を引き取りたかったが、できなかった。
「本当にお優しいことです。」
応じた朝比奈の言葉には、皮肉も含まれている。
最後こそ綺麗な形で終わったが、娼館で大儲けしたのは間違いない。
結局一番得をしたのは、まぎれもなくこの井坂なのだ。
「じゃあ俺たちも行くか」
「この強風の中をですか?風が止むのを待った方が」
ようやく身体を起こした井坂に、朝比奈が意見した。
なにもわざわざこんな天候の日に出なくてもよさそうなものなのに。
「娼婦たちも苦難の道に旅立ったんだ。俺たちもそうしよう。」
「どこまで格好をつけてるんですか。」
朝比奈は文句を言いながらも、歩き出した井坂に従った。
例え野分でも、この主と一緒ならきっと退屈しない。
朝比奈は井坂の背中を見つめながら、そっと頬と唇を緩ませた。
*****
「お兄ちゃん、早く!」
日和の声に急かされて、横澤は歩調を速めた。
娼館の中で最も早く身の振り方が決まったのは、横澤だった。
定町廻り同心、桐嶋禅の屋敷で働くことになったのだ。
仕事は家の中の仕事全般。
手先が器用な横澤は、炊事も洗濯も食事の支度もこなせる。
れは桐嶋にとっても嬉しい誤算だった。
桐嶋は横澤を引き取りたい一心で、家事の能力が高いことは知らなかったのだ。
「娼館で働いていた者を置くのは、よくないだろう?」
横澤は当初、何度もそう言って桐嶋の誘いを固辞した。
すると桐嶋は作戦を変更した。
今度は娘の日和を連れてきて「お兄ちゃん、うちに来て」と誘う。
身を寄せていた寺には個室などなく、その様子は男娼たちに見られている。
嵯峨などは「横澤が、お兄ちゃん?」と爆笑する有様だ。
「わかった。行けばいいんだろう?」
晒し者状態にされた横澤が、ついに根負けして桐嶋の屋敷に移り住んだのだ。
今まで桐嶋家は大きな屋敷なのに、住み込みの使用人はいなかった。
年に一度、庭師と左官を入れて、家と庭の手入れを任せるだけだ。
だからどうしても掃除など行き届いていない部分もある。
つまり横澤にはいくらでも仕事があった。
当初、横澤は極力外に出ずに、淡々と家の仕事をしていた。
娼館で働いていた自分のせいで、噂や中傷が広まるのが心配だったのだ。
だが拍子抜けするほど、近隣の住民には親切に受け入れられていた。
商売敵の娼館の嫌がらせで、横澤が男娼を庇って怪我をしたことが知られていたせいだ。
あの火事騒ぎと相まって、横澤は本人が困惑するほど英雄扱いされた。
それもこれも桐嶋が噂を利用して情報操作したせいだ。
「お兄ちゃん、早くってば!」
日和が弾んだ声で、横澤を呼んだ。
今日は日和の買い物のお供だ。
最近若い娘の間で評判になっている小間物を扱う店がある。
その店に言ってみたいので、一緒に来て欲しいと日和に頼まれたのだ。
正直言って気が重い。
女の子らしいかわいい小間物の店など、自分のような男には不似合いすぎる。
野分の中を進む方が、まだましだ。
だが日和は今や雇い主の娘であり、ことわることなどできない。
重い足取りで従い、店に入った横澤は思いがけない人物と遭遇した。
「あれ、横澤さん?」
「・・・お前、木佐か!」
「やだなぁ。今は小間物屋の翔太さんだよ!」
それは間違いなく、かつて娼館で男娼をしていた木佐だ。
だがその印象はかなり違う。
一目で娼婦と見える衣装を纏い、色香を振りまいていた木佐。
だが今はごく普通の町人の身なりで、愛らしい少年のように見える。
「翔太さん、これ似合う?」
客の1人の若い娘が、可愛らしい巾着袋を手に取って聞いてくる。
木佐は「うんうん、かわいい」と笑って答えている。
しかも同じ図柄の小銭入れを手に取って「揃いで持つといいでしょ?」などと勧めている。
さすが元売れっ子男娼、商売っ気は見事なものだ。
「あの子に買ってやりたいんだが、どれがいい?」
横澤は半ば呆然としながら、木佐にそう聞いていた。
どうせ初めて日和と買い物に出た記念に、何か買うつもりでいたのだ。
すると木佐は舌なめずりしそうな表情になった。
「これなんか、今お召しのお着物に合いますよ。」
木佐はいくつか商品を見繕って、横澤と日和の前に並べてくれる。
日和はそれを見ながら「どうしよう」と浮かれた声で聞いてきた。
この分ではいくつも買わされるのは目に見えている。
まぁいい。幸せなのだから。
横澤は苦笑しながら、財布を取り出した。
散財は日和だけでなく、木佐への祝儀も込めてやろう。
*****
「桐嶋様、終わりましたよ。」
今で寛いでいた桐嶋は、小さく「ご苦労さん」と答えた。
手拭いで汗を拭う男の笑顔は、気さくなのにどこか神々しい。
「お茶を淹れましょうか?」
庭の草むしりを終えたばかりの男が、さらに気を使って声をかけてくれる。
だが桐嶋は「気を使うな」と鷹揚に答えた。
男に頼んだのは、建付けが悪くなった木戸の修理と庭の草むしりだった。
横澤にさせてもいいのだが、まだ怪我が完全に治っていない。
だからわざわざ別の人間を呼んだのだ。
「さすが絵師志望、手先は器用だな。雪名。」
「店での名前はご勘弁を。今は皇です。」
男は苦笑しながら、汗を拭いた手拭いを畳んでいる。
そんな仕草さえも、まるで役者のように綺麗だった。
娼館が閉じた後、雪名は実家である料亭が持つ別宅に暮らしている。
料亭兼自宅からさほど遠くない小さな家だ。
元々は先代、つまり雪名の祖父が隠居した時に移り住んだ場所だという。
祖父母も亡くなり、空き家となっていたところを借り受けているのだ。
雪名の実家としては、実に微妙な決断だった。
勘当したとはいえ、息子がかわいいことは間違いない。
だが商売をしている以上、男娼になった息子をもう1度家には迎えにくい。
そこで空いている別宅に住むようにしたのだ。
「まったく笑えますよね。娼館に料理を届ける仕事はしても、息子が働くのは駄目なんて。」
雪名が木佐の傍にいるために、娼館で働くときにそう言った。
別宅に住むことだって、葛藤はあっただろう。
だけど結局、親の申し出を受け入れた。
親とのつながりを完全に切るよりその方がいいと桐嶋も思う。
雪名は絵師の修行をしながら、こういう雑用仕事を引き受けて小金を貰っている。
やたら綺麗な顔なのに、気さくに雑用をしてくれるので、好評なようだ。
もちろん恋人の木佐も一緒に住んでいる。
若い娘が好みそうな小間物を扱う店で働いていると聞いている。
「木佐、じゃなかった翔太は元気かい?」
「ええ。もうすっかり看板娘ですよ。」
桐嶋は思わず「看板娘、だぁ?」と聞き返した。
それに雪名も浮かない表情だ。
「もうすっかり人気者で。俺、心配です。」
「人気ったって、相手は客の若い娘だろう?」
「翔太さんの魅力に、若いとか男女は関係ないんですよ。」
どうやら雪名は真剣に、木佐翔太の交友関係を心配しているようだ。
桐嶋はやれやれとため息をついた。
木佐が雪名しか眼中にないのは明らかなのだが、雪名にはその自信はないらしい。
「早く絵師になって、仕事を辞めさせてやればいい。」
「そうですね!頑張ります!」
半ば冗談の桐嶋の助言を、雪名は真剣に受け止めている。
そういえば、日和が横澤を連れて出かけたのも、確か小間物屋だったか?
桐嶋はふとそう思ったが、すぐにどうでもいいと思った。
木佐と雪名も幸せそうだし、横澤と日和も仲がいい。
何よりも同心の桐嶋がこうして暇なのは、世の中が平和な証拠だ。
*****
「ここで別れよう。」
「嵯峨さんもお元気で。」
嵯峨の言葉に、羽鳥が頷く。
そしてどちらからともなく手を伸ばし、固い握手を交わしていた。
嵯峨と律、羽鳥と千秋は、西に向かっていた。
それぞれに思うところがあって、江戸を離れたのだ。
江戸で生まれ育った嵯峨と律にとっては、初めての旅になる。
どちらかといえば物静かな律が、いつになく口数が多く楽しそうだ。
嵯峨はそんな律を、楽しそうに眺めている。
対する羽鳥と千秋は、あまり楽しい気分にはならなかった。
旅路ではどうしても、売られて江戸へ来た時のことを思い出す。
金のために故郷から引き離されたあの時の悲しみ。
それを追体験しているような気分だった。
それでも旅に出たのは、千秋の希望だった。
娼館を畳んだとき、井坂は些少だが金を渡してくれた。
村に帰り、その金を両親と妹に渡したい。
歓迎されるとは思っていないが、とにかく会いたいと思ったのだ。
その真摯な気持ちに羽鳥も折れた。
羽鳥が最後に故郷を訪れたのは、千秋が娼館に来るより遥か前のことだ。
故郷がどうなっているのか、肉親が生きているのかさえわからない。
羽鳥もそれを確認して、最後に故郷の風景を目に焼き付けておこうと思った。
だから羽鳥と千秋は故郷を目指すことにした。
それからまた2人で、江戸に戻って仕事を捜す。
そしてやはり旅に出るという嵯峨と律と共に、江戸を出たのだ。
ともすれば重い足取りになるところだが、嵯峨たちが一緒にいることで助かっている。
千秋が律と話をすることが楽しいようで、ずっと笑顔でいるからだ。
「律さんは、海を見たことがある?」
「いえ。ありません。でも嵯峨様が連れて行ってくれるそうです。」
「そうかぁ。それはいいね。」
2人の会話は本当に他愛無い。
だがその姿はかわいらしく、見ている羽鳥や嵯峨まで和んでしまっている。
そんな楽しい旅もついに分岐点、嵯峨たちと別れる場所に来ていた。
「律さん、元気でね。きっといつか逢おうね。」
「はい。きっといつか。」
千秋も律も涙ぐんでいる。
口では「きっといつか」などと言っても、もう2度と会うことはない。
何しろ4人とも、まだ住む場所を決めていないのだ。
逢うことはおろか、手紙を書くことさえかなわない状況だ。
「元気でね。律さん、嵯峨様。幸せにね。」
千秋は大きく手を振りながら、嵯峨と律の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
律は何度も振り返ると、手を振り返してくれた。
「千秋、俺たちも行こう。」
「羽鳥様、ありがとう。」
羽鳥がわんわんと泣き続ける千秋に、手拭いを差し出す。
千秋はそれを受け取ると、ゴシゴシと子供っぽい仕草で顔を拭いた。
「ここからはもう羽鳥と呼ぶな。」
「え?」
「羽鳥は店での名前だから。本当の名前は。」
羽鳥は潜めて、耳元で4つの音を囁いた。
ようやく涙が収まった千秋がキョトンとした表情で「よしゆき?」と聞き返す。
「ここからはつらい旅だ。だけど一緒だから大丈夫。」
羽鳥は自分に言い聞かせるように、ゆっくりと歩き出す。
千秋は「はい」と短く答えて、ごく自然に手をつないだ。
*****
「どこへ行くのですか?」
律は静かにそう問いかけた。
政宗は「さぁな」と小さく肩を竦めた。
「とりあえず海を見に行くか?」
政宗がわざとおどけてそう切り出すと、律は小さく「はい」と笑った。
行く先など決めていない。
とりあえず旅をしながら、2人を受け入れてくれる土地を捜すつもりだった。
政宗が一番気にしているのは、律の容姿だった。
茶色の髪と緑の瞳は目立ちすぎる。
異国の血を引いているからと、見た目だけで忌み嫌う者もいる。
律を娼館で世話しているうちに、だんだんと情が湧いた。
身体を売るようなことは止めさせようと、何度も思った。
それでもそれをしなかったのは、この容姿のせいだ。
娼館を出たところで、働ける場所があるとは思えない。
忌み嫌われるよりは、売れっ子の男娼としてチヤホヤされていた方が幸せだと思った。
だがもう娼館はない。
だから政宗は律を受け入れ、伸び伸びと生きられる土地を捜すつもりだった。
どんな場所でも、律が笑っていられるなら、そこが2人の故郷になる。
「海は大きくて、綺麗だそうですね。」
並んで歩く律が、ふと政宗の顔を見上げた。
その表情は少しずつ大人っぽく変化し始めている。
今の律は少年から青年へ変わる、ごく短い時期にいるのだろう。
その横顔はあの小野寺屋の主に似ていた。
律の母親を殺し、そして律までも殺そうとしたあの男に。
おそらく律の母親は異国の者と情を通じたのではない。
本当に偶然に普通と違う髪と瞳を持って生まれただけで、律は正しく小野寺屋の息子なのだ。
そうでなければ、父親との相似は説明がつかない。
多分祖先のどこかに異国の血が入っていて、たまたま律に強く遺伝が出てしまっただけだ。
律の父は妻の殺害と息子の殺害未遂で、桐嶋が捕えた。
どういうお裁きになるのかは知らない。
それは律も政宗も知らなくてもいいことだ。
「思いがけず、野分の道か。」
「のわき?」
「ああ、風が強いって意味だ。」
政宗は小首を傾げる律の髪をなでながら、説明してやった。
この髪と瞳の色のせいで、野分の道を生きていく律。
考えるだけで、自然に表情も声も沈んでしまう。
「風なんか吹いていませんよ?」
律は辺りをキョロキョロと見回すと、不思議そうにまた首を傾げた。
政宗の気持ちをわかっているのか、いないのか。
だがその視線はしっかりと前を見据えている。
そんな律を見ながら、政宗は頬を緩めた。
今は風など吹いていない。
そして2人の道は、どこまでも長く続いている。
【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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