和5題-3
【微睡み】(まどろみ) 少しの間うとうとする。眠る。寝入る。
*****
「とっとと下手人をしょっ引きやがれ!」
威勢の良い声が、奉行所に響き渡った。
桐嶋を始め、同心たちが「まぁまぁ」と男を諌める。
だが男の剣幕はまるで収まる様子がなかった。
奉行所に殴り込んできたのは、娼館の主、井坂だった。
先日の火災で、娼館は焼け落ちてしまった。
そのことで井坂は奉行所に怒鳴り込んだのだ。
桐嶋の娘、日和をかばった律が斬り付けられたり、木佐が襲われて横澤は怪我をしたりした。
だがその下手人を捕まえらず、ついに娼館が全焼するに至った。
火元は裏庭の辺りで、火の気などない場所。
つまり付け火の可能性が高いのだ。
「テメーら奉行所が何もしねーから、こんなことになったんだ!」
井坂は鼻息荒く、そう叫んだ。
朗々とよく通る声は、外にもよく聞こえることだろう。
普通の町人ならば、つまみ出してしまうところだ。
だが曲がりなりにも井坂は武家の血を引いている。
迂闊に無礼なことはできなかった。
「それにうちの者が1人、行方がわからないんです。早く何とかしてください。」
影のように付き従う朝比奈が、井坂とは対照的な冷静さで要求する。
幸いなことに火事で死人は出なかった。
だが男娼が1人、行方が分からなくなっているという。
付け火の下手人が連れ去ったに違いないと、井坂たちは訴えている。
「とにかくさっさとしろ!」
「そうだな。さすがに付け火はただではすませられんな。」
井坂の訴えに、桐嶋は頷いていた。
先日、横澤を斬った男たちは判明していたが、召し捕るのを止められていた。
彼らは武家などの裏の仕事を請け負っていたので、圧力がかかったのだ。
だがさすがに今回はそうはいかないだろう。
付け火は重罪だ。
今回、焼け落ちたのは娼館だけで済んだが、下手をすれば関係ない家まで巻き沿いを食らう。
「俺からもお奉行には頼んでおく。このままにはしない。」
桐嶋はきっぱりと断言した。
井坂も朝比奈も完全に疑う表情で、桐嶋と居合わせた同心たちを見回している。
桐嶋は深々とため息をついた。
信用されないのは仕方ないが、とにかくこれ以上騒がれたくない。
井坂のよく通る声は、奉行所の外にまで響き渡っており、訴えの内容はまる聞こえだ。
奉行所がさぼっているようなことを吹聴されるのは、いいことではない。
「絶対に下手人を捕える。俺の意地にかけてもだ。」
桐嶋はさらに強い口調で、宣言した。
横澤のことだけではない。
いなくなった律という男娼には、以前日和をかばってもらった恩もある。
それに桐嶋はあの娼館の面々が好きだった。
話をするのは主に男娼たちだったが、気のいい者たちばかりだ。
何としても下手人を捕えて、彼らを安心させたい。
「わかった。あんたを信用する。」
井坂はようやく納得したようで、くるりと背を向け、去っていく。
桐嶋は井坂と朝比奈の後姿を見送りながら、ホッと胸をなで下ろした。
だが信用してもらったからには、なんとしてもこの一件を解決させなくてはならない。
桐嶋は知らなかった。
井坂と朝比奈が桐嶋に背を向けた途端、口元を緩ませたことを。
もしもそのことに気付いていたら、この件の調べはかなり違うものになったかもしれない。
*****
「そろそろ教えていただけませんか?」
律は穏やかに微笑むと、問いかけるように小首を傾げた。
揺れる茶色の髪と緑の瞳、その端整な美貌に、男は一瞬呆然となる。
だがすぐに小さく首を振ると、おもむろに口を開いた。
娼館の火事の後、律は神社にいた。
横澤に拾われて、娼館に連れて来られるまで、ずっと過ごしていた場所。
社に身を潜め、供え物を盗み食っていたあの頃が懐かしいと思う。
それなのにもっと思い出そうとしても、どこか記憶がボンヤリしている。
あの頃の律はまるで微睡みの中にいたように、生きている実感がなかった。
「お前は男娼になったら、さぞかし売れっ子になるのだろうな。」
男は呆れたように吐き捨てた。
子供のようでありながら、すでに怪しい色香を持っている。
惑わせられる男は、きっと後を絶たなかったはずだ。
「私を殺すつもりでしょう?ならその前に教えてください。」
「何を」
「ここで私の母を殺して、埋めましたね?」
「それを知って、どうする?」
「どうもしません。死ぬ前に自分が何者なのか知りたいだけです。」
落ち着いた律の態度に、男は少々怯んでいた。
男の目的は律を斬り殺すことで、力の差を考えたらそれは簡単なはずだ。
だが圧倒的に優位に立っているのは、律の方だ。
「昔、ある茶問屋で、その家の女房と生まれたばかりの赤子を殺す仕事を請け負った。」
それが律と律の母親だった。
殺して、絶対に亡骸を見つからないように隠すこと。
それを破格の高い金額を積まれて、男はその仕事を引き受けた。
「女房は殺したけど、さすがに赤子を殺すのは気が引けたんだ。」
「あなたはいい人ですね。」
「やめろ。後悔してるんだ。」
男は渋い表情で、首を振る。
律が亡き母の名を名乗って、評判の男娼になった。
そのことで死んだはずの赤子が生きていることがわかったのだ。
小野寺屋の主は激怒し、今度こそ律を殺せと命令を下したのだ。
男としても、命令通りに動かなかったことを知られ、このままでは評判に関わる。
「やはりあの時、あなたが斬ろうとしたのは日和さんじゃなくて私ですね。」
「日和?ああ、あの娘か。」
男はずっと律を斬るつもりで、娼館の裏で張り込んでいた。
だが律はほとんど娼館から出てくることがない。
そんな時、日和が横澤を訪ねて娼館を訪れ、律が出てしまった。
絶好の機会だったが、桐嶋と横澤に阻まれたのだ。
「お前、娼館に拾われるまではどうしてたんだ?」
今度は男が律に問う。
だが律は「わかりません」と首を振った。
神社で盗み食いをする前の赤子の頃をどうやって生き抜いたのか。
その頃のことは、まったく覚えていない。
「娼館も全部焼け落ちた。お前に関わる者はみな災難に見舞われるということだな。」
男が苦笑しながら、剣を抜く。
だが律は男の言葉に驚愕し、覚悟を決めていたはずなのに思わず1歩後ずさっていた。
「全部、焼け落ちた?」
律が娼館を抜け出したときには、裏庭のほんの一部が燃えていただけだった。
小火で消し止められるものと思っていたのに。
動揺する律の前に、男の刃が迫っていた。
*****
「律さん、大丈夫かなぁ」
千春はもう何度も同じ言葉を繰り返していた。
その度に木佐が「きっと大丈夫」と答える。
だがその木佐の表情も、不安げに揺れていた。
娼館から焼け出された者たちは、とある寺に身を寄せていた。
井坂が話をつけて、しばらくの間はここで寝泊まりさせてもらえることになったのだ。
だがもちろん今までのような個々の部屋はない。
広い本堂は娼婦たちの寝所となり、全員がそこに押し込まれている。
男娼や男の使用人たちは客間を1つ、与えられていた。
「大丈夫だろ。嵯峨は心当たりがあるらしいし、桐嶋さんも向かっている。」
横澤は千春と木佐にそう声をかけた。
怪我が未だに完治していない横澤は布団に寝かされており、全員がそれを囲んでいる。
横澤としては落ち着かないこと、この上なかった。
「そうだよね。大丈夫だよね。」
千春が安堵した表情になるのを見て、横澤は苦笑する。
木佐が散々「大丈夫」と言っても、千春は少しも安心できない様子だったのだ。
なのに横澤の言葉だと、あからさまにホッとしている。
だが当の千春と木佐がそのことに気付いていないので、横澤もあえて口にしなかった。
「でもどうして律さん、いなくなったんだろう?まさか付け火してる人を見たのかな?」
「だから口をふさぐために、連れ去られた?」
千春と木佐がまた不穏な想像を巡らせている。
だが横澤は「違うな」と答えた。
「黙らせるつもりなら、律をその場で斬ればいい。」
「じゃあ付け火したのは誰?律さんは何の関わりがあるの?」
「おそらく火をつけたのは律だ。」
横澤は声を潜めて、そう告げた。
千秋が「ええ?」と声を上げ、木佐が「うそ」と呟く。
だが羽鳥も雪名も美濃も少しも驚いた様子はない。
おそらく今律を捜しに出ている嵯峨も、そのことには気づいているだろう。
「最初の出火は裏庭だった。いつも縁側にいる律は絶対に気付く。だけど律は」
「声を上げもせず、黙って姿を消した。」
横澤の言葉を引き取ったのは、羽鳥だった。
怪我人をあまり喋らせないようにという、羽鳥らしい細やかな配慮だ。
「律っちゃんは、なんでそんなことを?付け火は重罪だよ?」
「重罪だからしたんですよ。きっと。」
木佐が発した疑問を、今度は雪名が答えた。
娼婦たちが引き抜かれ、木佐と横澤が襲撃に合ったのに、奉行所は動かない。
だがさすがに付け火となれば、見て見ぬふりはできないだろう。
商売敵の仕業に見せかけてしまえば、一気に形勢が逆転する。
「でもどうして律さんは、そんな自分を犠牲にするような真似を」
「律様にはきな臭い身請け話もありました。もうすぐ自分は終わりと思っていたのかも。」
千春のもっともな疑問に、今度は美濃が口を挟む。
いつもはあまり喋らない美濃の言葉に、全員が驚いた。
だがその言葉は、律の気持ちを見事に代弁するものだった。
「勝手に死なれちゃ困る。嵯峨には何としても律を取り返してもらう。」
横澤が唸るように告げると、全員が頷いた。
全員で律の無事を祈りながら、待ち続けることになった。
*****
「刀を置いてもらおうか」
不意に響いた凛とした声に、構えた剣先が揺れる。
律も男も声の方角を見た。
立っていたのは桐嶋と嵯峨。
そして桐嶋の配下の者たちが10数名、辺りを取り囲んでいる。
「お前、俺の娘を襲った男だな。」
「お前の娘?知らんな。俺が狙ったのはこいつだけだ。」
男は忌々しそうに律を睨み付けたが、諦めて刀を下ろした。
さすがにこれだけの人数を相手に逃げおおせるとは思わなかったのだろう。
「まったく。やはりお前に関わると災難に見舞われる。」
観念した男は刀を鞘に戻して、律を見た。
だが律は動揺して、それどころではない。
すかさず駆け寄って来た嵯峨に縋りついた。
「娼館が全部焼け落ちたって、本当ですか?」
「ああ、そうだ。」
「そんな、だって、火をつけたのは。。。」
嵯峨は大きな手のひらで、律の口を覆って黙らせた。
嵯峨だって、律のしたことを見抜いている。
だが桐嶋ら同心たちの前で、それを告白させることはできない。
それをすれば律も罪人として、裁かれてしまうからだ。
「じゃあ嵯峨、この男は連れて行く。」
「そいつは商売敵じゃなくて、小野寺屋の手先だぞ。」
「わかっている。お前たちの商売敵の方も捕まえるから、心配するな。」
「わかった。落ち着いたら横澤に顔を見せてやってくれ。」
桐嶋は嵯峨と短く言葉を交わすと、そのまま同心たちを引き連れて、戻っていく。
おそらく桐嶋も真相を察していることだろう。
だがあえて気付かない振りをしてくれているのだ。
桐嶋たちが立ち去ると、神社には静けさが戻った。
嵯峨はようやく律の口から手のひらを外すと、小さな身体を抱きしめた。
「勝手に俺から離れるな。」
「私は罪人です。もう一緒にはいられません。」
律は嵯峨の腕に抱かれたまま、首を振る。
だが嵯峨は、さらに律を抱く腕に力を込めた。
「娼館を燃やしたのは、お前じゃない。」
「え、だって。。。」
「お前が裏庭に火をつけたのを利用したんだろう。」
よくわからないけど、今はこの腕の中にいていいということだろうか。
律は嵯峨に身体を預けて、目を閉じた。
それは不思議なほどの安堵感をもたらしてくれる。
律はそのままウトウトと微睡みそうになり、慌てて身体を離そうとした。
だが嵯峨はしっかりと律を捕まえていて、離れるのを許さない。
「そのまま寝てろ。起きた時には全部うまくいってる。」
嵯峨のいつになく優しい言葉に、律は再び目を閉じた。
またしても微睡みに攫われてしまいそうだが、今度は素直に身を任せる。
身体が抱き上げられる気配を感じたが、今だけはそのまま嵯峨の胸にもたれて甘えることにした。
*****
「これにて一件落着ってか」
「一件ではありませんよ。」
娼館の主、井坂は畳の上にゴロリと横になっていた。
まったく他に誰もいないのをいいことに、主らしからぬ振る舞いだ。
対する朝比奈は、きちんと姿勢を正して座っている。
「一件ではなく、正確には三件です。」
「ああ、そうだったな。」
井坂は如何にも面倒くさそうに、相槌を打った。
世話になっている寺で、井坂と朝比奈だけは離れを使わせてもらっている。
大部屋でひしめき合う娼婦たちが羨むほど、快適で優雅な環境。
そこで2人はのんびりと密談中だった。
結局敵は三方にいたのだ。
娼館を潰そうとしていた商売敵。
律を狙って、亡き者にしようとしていた小野寺屋の一派。
そして桐嶋を恨んで、その娘を狙った罪人だ。
結局桐嶋を狙った者たちは、横澤が日和を助けた時に退治していた。
その後、律を狙った刺客を日和を狙ったものと勘違いしたから、ややこしくなったのだ。
だが結局商売敵の連中は、付け火の疑いをかけられて、すこぶる評判が悪い。
それに小野寺屋にも探索の手が伸びている。
どちらも罪に問われ、おそらくもう商売はできないだろう。
「それにしても本当に何て思い切ったことを。肝が冷えました。」
「何度も同じことを。お前は本当にしつこいな。」
怖い顔の朝比奈に、井坂はうんざりした表情になる。
だが朝比奈としては、何度言っても気が済まない。
なぜなら当の井坂がまったく懲りている様子がないからだ。
「そろそろ娼館も飽きてきたところだ。いい潮時だろう」
朝比奈は心の底から深いため息をつく。
この男のすることにいちいち動揺していたら、とても側近は務まらない。
わかっていても今回の暴挙はきつ過ぎる。
娼館に火を放ったのは、主の井坂その人だった。
事前に律に裏庭の石灯籠を燃やして、商売敵の仕業に見せかけようと持ちかけられた。
この突拍子もない計画に、井坂は乗った。
予定通りの時間に、律は石灯籠に油をかけて燃やす。
井坂はそれを見計らって、娼婦たちを逃がしてから娼館に火を放ったのだ。
「狐がいなくなったときには焦ったけどな。」
「いい加減名前を覚えてあげて下さい。律です。」
憎まれ口を叩く井坂だったが、意外と娼婦や男娼たちのことを案じている。
今回娼館を自ら燃やすことにした理由も、彼らに理不尽な魔の手が迫ったからだ。
この先商売敵といがみ合いながら店を続けても、また怪我人を出すことになるかもしれない。
それならばいっそ相手を盛大に巻き込んで、潰してやったのだ。
「次はもっと穏やかな商売をしたいものだな。」
「まだ火事の後始末も終わっていないんですよ。」
だが井坂はそのままウトウトと微睡み始めている。
朝比奈はまたしても盛大なため息をつくと立ち上がり、眠った井坂の身体に羽織を掛けた。
微睡んでいる姿はかわいいのだけれど。
朝比奈の声に出さない独り言には、少しだけ楽しげな色合いが混じっている。
【続く】
*****
「とっとと下手人をしょっ引きやがれ!」
威勢の良い声が、奉行所に響き渡った。
桐嶋を始め、同心たちが「まぁまぁ」と男を諌める。
だが男の剣幕はまるで収まる様子がなかった。
奉行所に殴り込んできたのは、娼館の主、井坂だった。
先日の火災で、娼館は焼け落ちてしまった。
そのことで井坂は奉行所に怒鳴り込んだのだ。
桐嶋の娘、日和をかばった律が斬り付けられたり、木佐が襲われて横澤は怪我をしたりした。
だがその下手人を捕まえらず、ついに娼館が全焼するに至った。
火元は裏庭の辺りで、火の気などない場所。
つまり付け火の可能性が高いのだ。
「テメーら奉行所が何もしねーから、こんなことになったんだ!」
井坂は鼻息荒く、そう叫んだ。
朗々とよく通る声は、外にもよく聞こえることだろう。
普通の町人ならば、つまみ出してしまうところだ。
だが曲がりなりにも井坂は武家の血を引いている。
迂闊に無礼なことはできなかった。
「それにうちの者が1人、行方がわからないんです。早く何とかしてください。」
影のように付き従う朝比奈が、井坂とは対照的な冷静さで要求する。
幸いなことに火事で死人は出なかった。
だが男娼が1人、行方が分からなくなっているという。
付け火の下手人が連れ去ったに違いないと、井坂たちは訴えている。
「とにかくさっさとしろ!」
「そうだな。さすがに付け火はただではすませられんな。」
井坂の訴えに、桐嶋は頷いていた。
先日、横澤を斬った男たちは判明していたが、召し捕るのを止められていた。
彼らは武家などの裏の仕事を請け負っていたので、圧力がかかったのだ。
だがさすがに今回はそうはいかないだろう。
付け火は重罪だ。
今回、焼け落ちたのは娼館だけで済んだが、下手をすれば関係ない家まで巻き沿いを食らう。
「俺からもお奉行には頼んでおく。このままにはしない。」
桐嶋はきっぱりと断言した。
井坂も朝比奈も完全に疑う表情で、桐嶋と居合わせた同心たちを見回している。
桐嶋は深々とため息をついた。
信用されないのは仕方ないが、とにかくこれ以上騒がれたくない。
井坂のよく通る声は、奉行所の外にまで響き渡っており、訴えの内容はまる聞こえだ。
奉行所がさぼっているようなことを吹聴されるのは、いいことではない。
「絶対に下手人を捕える。俺の意地にかけてもだ。」
桐嶋はさらに強い口調で、宣言した。
横澤のことだけではない。
いなくなった律という男娼には、以前日和をかばってもらった恩もある。
それに桐嶋はあの娼館の面々が好きだった。
話をするのは主に男娼たちだったが、気のいい者たちばかりだ。
何としても下手人を捕えて、彼らを安心させたい。
「わかった。あんたを信用する。」
井坂はようやく納得したようで、くるりと背を向け、去っていく。
桐嶋は井坂と朝比奈の後姿を見送りながら、ホッと胸をなで下ろした。
だが信用してもらったからには、なんとしてもこの一件を解決させなくてはならない。
桐嶋は知らなかった。
井坂と朝比奈が桐嶋に背を向けた途端、口元を緩ませたことを。
もしもそのことに気付いていたら、この件の調べはかなり違うものになったかもしれない。
*****
「そろそろ教えていただけませんか?」
律は穏やかに微笑むと、問いかけるように小首を傾げた。
揺れる茶色の髪と緑の瞳、その端整な美貌に、男は一瞬呆然となる。
だがすぐに小さく首を振ると、おもむろに口を開いた。
娼館の火事の後、律は神社にいた。
横澤に拾われて、娼館に連れて来られるまで、ずっと過ごしていた場所。
社に身を潜め、供え物を盗み食っていたあの頃が懐かしいと思う。
それなのにもっと思い出そうとしても、どこか記憶がボンヤリしている。
あの頃の律はまるで微睡みの中にいたように、生きている実感がなかった。
「お前は男娼になったら、さぞかし売れっ子になるのだろうな。」
男は呆れたように吐き捨てた。
子供のようでありながら、すでに怪しい色香を持っている。
惑わせられる男は、きっと後を絶たなかったはずだ。
「私を殺すつもりでしょう?ならその前に教えてください。」
「何を」
「ここで私の母を殺して、埋めましたね?」
「それを知って、どうする?」
「どうもしません。死ぬ前に自分が何者なのか知りたいだけです。」
落ち着いた律の態度に、男は少々怯んでいた。
男の目的は律を斬り殺すことで、力の差を考えたらそれは簡単なはずだ。
だが圧倒的に優位に立っているのは、律の方だ。
「昔、ある茶問屋で、その家の女房と生まれたばかりの赤子を殺す仕事を請け負った。」
それが律と律の母親だった。
殺して、絶対に亡骸を見つからないように隠すこと。
それを破格の高い金額を積まれて、男はその仕事を引き受けた。
「女房は殺したけど、さすがに赤子を殺すのは気が引けたんだ。」
「あなたはいい人ですね。」
「やめろ。後悔してるんだ。」
男は渋い表情で、首を振る。
律が亡き母の名を名乗って、評判の男娼になった。
そのことで死んだはずの赤子が生きていることがわかったのだ。
小野寺屋の主は激怒し、今度こそ律を殺せと命令を下したのだ。
男としても、命令通りに動かなかったことを知られ、このままでは評判に関わる。
「やはりあの時、あなたが斬ろうとしたのは日和さんじゃなくて私ですね。」
「日和?ああ、あの娘か。」
男はずっと律を斬るつもりで、娼館の裏で張り込んでいた。
だが律はほとんど娼館から出てくることがない。
そんな時、日和が横澤を訪ねて娼館を訪れ、律が出てしまった。
絶好の機会だったが、桐嶋と横澤に阻まれたのだ。
「お前、娼館に拾われるまではどうしてたんだ?」
今度は男が律に問う。
だが律は「わかりません」と首を振った。
神社で盗み食いをする前の赤子の頃をどうやって生き抜いたのか。
その頃のことは、まったく覚えていない。
「娼館も全部焼け落ちた。お前に関わる者はみな災難に見舞われるということだな。」
男が苦笑しながら、剣を抜く。
だが律は男の言葉に驚愕し、覚悟を決めていたはずなのに思わず1歩後ずさっていた。
「全部、焼け落ちた?」
律が娼館を抜け出したときには、裏庭のほんの一部が燃えていただけだった。
小火で消し止められるものと思っていたのに。
動揺する律の前に、男の刃が迫っていた。
*****
「律さん、大丈夫かなぁ」
千春はもう何度も同じ言葉を繰り返していた。
その度に木佐が「きっと大丈夫」と答える。
だがその木佐の表情も、不安げに揺れていた。
娼館から焼け出された者たちは、とある寺に身を寄せていた。
井坂が話をつけて、しばらくの間はここで寝泊まりさせてもらえることになったのだ。
だがもちろん今までのような個々の部屋はない。
広い本堂は娼婦たちの寝所となり、全員がそこに押し込まれている。
男娼や男の使用人たちは客間を1つ、与えられていた。
「大丈夫だろ。嵯峨は心当たりがあるらしいし、桐嶋さんも向かっている。」
横澤は千春と木佐にそう声をかけた。
怪我が未だに完治していない横澤は布団に寝かされており、全員がそれを囲んでいる。
横澤としては落ち着かないこと、この上なかった。
「そうだよね。大丈夫だよね。」
千春が安堵した表情になるのを見て、横澤は苦笑する。
木佐が散々「大丈夫」と言っても、千春は少しも安心できない様子だったのだ。
なのに横澤の言葉だと、あからさまにホッとしている。
だが当の千春と木佐がそのことに気付いていないので、横澤もあえて口にしなかった。
「でもどうして律さん、いなくなったんだろう?まさか付け火してる人を見たのかな?」
「だから口をふさぐために、連れ去られた?」
千春と木佐がまた不穏な想像を巡らせている。
だが横澤は「違うな」と答えた。
「黙らせるつもりなら、律をその場で斬ればいい。」
「じゃあ付け火したのは誰?律さんは何の関わりがあるの?」
「おそらく火をつけたのは律だ。」
横澤は声を潜めて、そう告げた。
千秋が「ええ?」と声を上げ、木佐が「うそ」と呟く。
だが羽鳥も雪名も美濃も少しも驚いた様子はない。
おそらく今律を捜しに出ている嵯峨も、そのことには気づいているだろう。
「最初の出火は裏庭だった。いつも縁側にいる律は絶対に気付く。だけど律は」
「声を上げもせず、黙って姿を消した。」
横澤の言葉を引き取ったのは、羽鳥だった。
怪我人をあまり喋らせないようにという、羽鳥らしい細やかな配慮だ。
「律っちゃんは、なんでそんなことを?付け火は重罪だよ?」
「重罪だからしたんですよ。きっと。」
木佐が発した疑問を、今度は雪名が答えた。
娼婦たちが引き抜かれ、木佐と横澤が襲撃に合ったのに、奉行所は動かない。
だがさすがに付け火となれば、見て見ぬふりはできないだろう。
商売敵の仕業に見せかけてしまえば、一気に形勢が逆転する。
「でもどうして律さんは、そんな自分を犠牲にするような真似を」
「律様にはきな臭い身請け話もありました。もうすぐ自分は終わりと思っていたのかも。」
千春のもっともな疑問に、今度は美濃が口を挟む。
いつもはあまり喋らない美濃の言葉に、全員が驚いた。
だがその言葉は、律の気持ちを見事に代弁するものだった。
「勝手に死なれちゃ困る。嵯峨には何としても律を取り返してもらう。」
横澤が唸るように告げると、全員が頷いた。
全員で律の無事を祈りながら、待ち続けることになった。
*****
「刀を置いてもらおうか」
不意に響いた凛とした声に、構えた剣先が揺れる。
律も男も声の方角を見た。
立っていたのは桐嶋と嵯峨。
そして桐嶋の配下の者たちが10数名、辺りを取り囲んでいる。
「お前、俺の娘を襲った男だな。」
「お前の娘?知らんな。俺が狙ったのはこいつだけだ。」
男は忌々しそうに律を睨み付けたが、諦めて刀を下ろした。
さすがにこれだけの人数を相手に逃げおおせるとは思わなかったのだろう。
「まったく。やはりお前に関わると災難に見舞われる。」
観念した男は刀を鞘に戻して、律を見た。
だが律は動揺して、それどころではない。
すかさず駆け寄って来た嵯峨に縋りついた。
「娼館が全部焼け落ちたって、本当ですか?」
「ああ、そうだ。」
「そんな、だって、火をつけたのは。。。」
嵯峨は大きな手のひらで、律の口を覆って黙らせた。
嵯峨だって、律のしたことを見抜いている。
だが桐嶋ら同心たちの前で、それを告白させることはできない。
それをすれば律も罪人として、裁かれてしまうからだ。
「じゃあ嵯峨、この男は連れて行く。」
「そいつは商売敵じゃなくて、小野寺屋の手先だぞ。」
「わかっている。お前たちの商売敵の方も捕まえるから、心配するな。」
「わかった。落ち着いたら横澤に顔を見せてやってくれ。」
桐嶋は嵯峨と短く言葉を交わすと、そのまま同心たちを引き連れて、戻っていく。
おそらく桐嶋も真相を察していることだろう。
だがあえて気付かない振りをしてくれているのだ。
桐嶋たちが立ち去ると、神社には静けさが戻った。
嵯峨はようやく律の口から手のひらを外すと、小さな身体を抱きしめた。
「勝手に俺から離れるな。」
「私は罪人です。もう一緒にはいられません。」
律は嵯峨の腕に抱かれたまま、首を振る。
だが嵯峨は、さらに律を抱く腕に力を込めた。
「娼館を燃やしたのは、お前じゃない。」
「え、だって。。。」
「お前が裏庭に火をつけたのを利用したんだろう。」
よくわからないけど、今はこの腕の中にいていいということだろうか。
律は嵯峨に身体を預けて、目を閉じた。
それは不思議なほどの安堵感をもたらしてくれる。
律はそのままウトウトと微睡みそうになり、慌てて身体を離そうとした。
だが嵯峨はしっかりと律を捕まえていて、離れるのを許さない。
「そのまま寝てろ。起きた時には全部うまくいってる。」
嵯峨のいつになく優しい言葉に、律は再び目を閉じた。
またしても微睡みに攫われてしまいそうだが、今度は素直に身を任せる。
身体が抱き上げられる気配を感じたが、今だけはそのまま嵯峨の胸にもたれて甘えることにした。
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「これにて一件落着ってか」
「一件ではありませんよ。」
娼館の主、井坂は畳の上にゴロリと横になっていた。
まったく他に誰もいないのをいいことに、主らしからぬ振る舞いだ。
対する朝比奈は、きちんと姿勢を正して座っている。
「一件ではなく、正確には三件です。」
「ああ、そうだったな。」
井坂は如何にも面倒くさそうに、相槌を打った。
世話になっている寺で、井坂と朝比奈だけは離れを使わせてもらっている。
大部屋でひしめき合う娼婦たちが羨むほど、快適で優雅な環境。
そこで2人はのんびりと密談中だった。
結局敵は三方にいたのだ。
娼館を潰そうとしていた商売敵。
律を狙って、亡き者にしようとしていた小野寺屋の一派。
そして桐嶋を恨んで、その娘を狙った罪人だ。
結局桐嶋を狙った者たちは、横澤が日和を助けた時に退治していた。
その後、律を狙った刺客を日和を狙ったものと勘違いしたから、ややこしくなったのだ。
だが結局商売敵の連中は、付け火の疑いをかけられて、すこぶる評判が悪い。
それに小野寺屋にも探索の手が伸びている。
どちらも罪に問われ、おそらくもう商売はできないだろう。
「それにしても本当に何て思い切ったことを。肝が冷えました。」
「何度も同じことを。お前は本当にしつこいな。」
怖い顔の朝比奈に、井坂はうんざりした表情になる。
だが朝比奈としては、何度言っても気が済まない。
なぜなら当の井坂がまったく懲りている様子がないからだ。
「そろそろ娼館も飽きてきたところだ。いい潮時だろう」
朝比奈は心の底から深いため息をつく。
この男のすることにいちいち動揺していたら、とても側近は務まらない。
わかっていても今回の暴挙はきつ過ぎる。
娼館に火を放ったのは、主の井坂その人だった。
事前に律に裏庭の石灯籠を燃やして、商売敵の仕業に見せかけようと持ちかけられた。
この突拍子もない計画に、井坂は乗った。
予定通りの時間に、律は石灯籠に油をかけて燃やす。
井坂はそれを見計らって、娼婦たちを逃がしてから娼館に火を放ったのだ。
「狐がいなくなったときには焦ったけどな。」
「いい加減名前を覚えてあげて下さい。律です。」
憎まれ口を叩く井坂だったが、意外と娼婦や男娼たちのことを案じている。
今回娼館を自ら燃やすことにした理由も、彼らに理不尽な魔の手が迫ったからだ。
この先商売敵といがみ合いながら店を続けても、また怪我人を出すことになるかもしれない。
それならばいっそ相手を盛大に巻き込んで、潰してやったのだ。
「次はもっと穏やかな商売をしたいものだな。」
「まだ火事の後始末も終わっていないんですよ。」
だが井坂はそのままウトウトと微睡み始めている。
朝比奈はまたしても盛大なため息をつくと立ち上がり、眠った井坂の身体に羽織を掛けた。
微睡んでいる姿はかわいいのだけれど。
朝比奈の声に出さない独り言には、少しだけ楽しげな色合いが混じっている。
【続く】