和5題-3
【風化】(ふうか)自然物が太陽光や風雨にさらされ原形を失う。記憶や印象が月日とともに薄れていく。
*****
「横澤が?」
桐嶋は、思わず声を荒げて聞き返す。
知らせに来た男は、神妙な顔で頷いた。
桐嶋と横澤が会わなくなってから、もうかなり経つ。
当初は夜も眠れないほどの喪失感だったが、最近はようやく慣れてきた。
このままこの想いを風化させて、ひっそりと心の奥に沈める。
そしてこのままお互いの人生に関わることなく、生きていくつもりだった。
ある日の夕刻、奉行所から帰宅すると、家の前で珍客が待っていた。
この男には見覚えがある。
横澤が働く娼館の嵯峨という男娼だ。
普通の男とは違う艶やかさは異彩を放ち、道行く者は興味深げな視線を投げて行く。
色を売る男が持つ独特な妖気に、桐嶋は目を覆いたくなった。
「妙な噂になる。さっさと家に入ってくれ。」
「それには及ばない。すぐに済む。」
嵯峨は素っ気なく、そう答える。
桐嶋は一瞬迷ったものの、すぐに頷いた。
日和に知られるよりは、ここで人目に触れることの方がましだ。
「横澤が斬られた。」
「横澤が?」
桐嶋は、思わず声を荒げて聞き返す。
嵯峨は神妙な表情で頷くと、じっと桐嶋の反応を見ている。
まるで桐嶋が横澤に相応しい男かどうか、見極めるように。
「かろうじて一命は取り留めた。だけどずっと眠ったままだ。」
「・・・どうして、俺に?」
「一応知らせておこうと思った。深い意味なんかない。」
「わざわざ悪かったな。」
「見舞え、なんて言うつもりはない。だがせめて下手人は捕えてくれ。」
嵯峨は言いたいことを全部告げたのだろう。
桐嶋に背を向け、さっさと歩き出してしまう。
だがその背中は雄弁に何かを語っているような気がした。
横澤がかつてこの嵯峨に恋をしていたことは知っている。
気付かれてはいないはずだと横澤は言っていたが、それはきっと違う。
嵯峨は横澤が自分に恋していることを知っていた。
答えられない想いと友情の狭間で、悩んだのだ。
いっそ横澤を嫌いになれれば楽なのだろうが、それも無理だっただろう。
娼婦たちのために人知れず身体を張る横澤は、気のいい男なのだから。
桐嶋は立ち去る嵯峨をじっと見送っていた。
その背中から伝わる嵯峨の気持ちは、きっと思い過ごしではない。
恋はできないが友人として、嵯峨は横澤を案じている。
桐嶋だって本当は今すぐにでも、横澤のところに駆けつけてやりたい。
だけどもう夕刻、幼い娘を置いて出かけることなどできやしない。
「畜生っ!」
桐嶋はやるせない気持ちを吐き出した。
すっかり日が暮れた路上に、桐嶋の悲痛な声が響いた。
*****
「俺のせいだ。」
翔太は桶の水で浸した手拭いを絞ると、畳んで男の額に乗せる。
それを繰り返しているのに、男は一向に目を覚ます気配がなかった。
横澤と共に外出した翔太だったが、途中で2人組の男に襲われた。
男たちの目的は明らかに翔太だった。
だが横澤が翔太をかばって男と相対し、翔太に店に知らせるように指示した。
翔太だけを安全な場所に逃がそうとしたのだ。
躊躇ったものの、それが最良の策だったことは間違いない。
小柄で非力で剣など使えない翔太には、加勢はできない。
むしろ足手まといになるだけだ。
大急ぎで店に駆け戻り、横澤の危機を知らせた。
すぐに裏方が騒がしくなり、他の用心棒たちが店を飛び出していった。
翔太にとっては、待っている間が恐ろしく長く感じた。
襲ってきた2人の男は明らかに殺気を孕んでいるように見えたからだ。
さすがの横澤も危ないかもしれない。
その不吉な予感は的中した。
血塗れの横澤が運び込まれてきたときには、へなへなとその場に座り込んだ。
切り傷は大きく2つ。
ざっくりと斬られた右腕と、左胸の刺し傷だ。
直ちに医師が呼ばれた。
娼館かかりつけの物慣れた老医師は傷を見るなり「こりゃまずいな」と首を振った。
医師が手を尽くし、横澤はどうにか一命を取り留めた。
だがずっと眠ったままでいる。
出血が多すぎたことと、怪我による発熱で体力が落ちているせいだ。
翔太はずっと意識のない横澤に付き添っている。
自分のせいでこんな怪我をした横澤のために、せめて少しでも力になりたい。
「木佐さん、少し休んだらどうですか?」
不意に障子の外から静かな声が聞こえた。
音もなく障子が開き、皇が冷たい水を入れた桶を持って、入ってくる。
「もう水がぬるいでしょう。替えを持ってきました。」
「悪いな。」
「いいえ。横澤さんは木佐さんを守ってくれたんです。俺も少しは役に立ちたい。」
皇は声を潜めてそう告げると、翔太の隣に腰を下ろした。
店はしばらく休みことになったので、夜だというのに静かだ。
最近店を移る件ですれ違っていた2人の間に、微妙な沈黙が漂った。」
「木佐さん、ずっと横澤さんにつきっきりでしょう?休まないと身体に障ります。」
「でも」
「しばらく俺がついてますよ。休んだ方がいい。この上あなたまで倒れたら困ります。」
そんなことを言う皇は、本当に困ったような表情をしている。
翔太のずっと張りつめていた気持ちが、じんわりと緩んでいく。
やはり皇がそばにいるだけで、こんなにも落ち着くのだ。
どうしてこの男と離れて、別の店でやっていけると思ったのだろう。
「これを片づけたら、戻る。」
翔太は水がぬるくなった桶を持って、立ち上がった。
皇が休みつもりがない翔太を咎めるように「木佐さん」と声を上げる。
「心配だからここで休む。膝枕してくれ。」
翔太は音を立てないように注意深く障子を開けて、部屋の外に出た。
出た途端に、翔太の頬が熱を帯びたように赤くなっていく。
恥ずかしい。
異常な状況に任せて、膝枕だなんて普段の自分ではありえないようなおねだりをしてしまった。
それでもこれを機に、やり直したい。
共に堕ちる覚悟をしたあの時に戻れたら、きっとまた笑える日が来る。
その頃には横澤も目を覚まして、祝福してくれるだろう。
翔太は桶を持って、静かに廊下を進んでいった。
*****
「律さん、眠れないの?」
千秋は縁側でぼんやりと座っている律に声をかける。
律は千秋を見上げると、すぐに笑顔で「はい」と答えた。
日が沈み、夜の帳が幕を下ろした後の空には、月が浮かんでいる。
本来ならば店は色を求める客たちで賑わっているはずの時間だ。
だが思いもかけないことになり、店は休みになった。
娼婦や男娼たちにも、今日は早く休むようにと言い渡されている。
だが普段は明け方まで起きていることが常の生活で、いきなり眠れるわけもない。
「何を考えているの?」
「横澤様が早く目を覚ますようにと祈っていました。」
律は穏やかな表情で、そう答えた。
千秋は何も言わずに、その横に腰を下ろした。
律は特に咎めることもなく、月明かりに照らされた裏庭を見ている。
律はいつも穏やかな微笑で、この娼館のみんなのことを思っている。
千秋が迷っていた時には、さり気なく導く言葉をくれた。
今、怪我をした横澤の身を案じているのも、嘘ではないことはわかっている。
だが今夜の律は何かが違う。
どこか不穏な空気を纏いながら、何かを待っているように見えた。
「嵯峨様は一緒ではないの?」
「しばらくは用心棒の部屋で過ごされるそうです。」
用心棒の中でも剣術の腕が一番の横澤が怪我をしてしまった。
それではいかにも娼館の警備は手薄になる。
そこで多少なりとも剣術の心得のある者たちが駆り出されたのだ。
その中でも武家の血を引く嵯峨は、用心棒を本業にしてもおかしくないほどの腕前だ。
「寂しいの?」
「ええ、少し。でもいい機会です。」
「機会?何の?」
だが律は答えずに、じっと前を見ている。
もう一度聞き返そうとしたが、どこか張りつめた表情の律は聞き返せる雰囲気ではなかった。
重苦しい沈黙を破りたくて、千秋は無理やり言葉をつむぐ。
「律さんは、いつも何を見ているの?」
「石灯籠です。」
今度は即答だった。
律は裏庭の隅にポツンと置かれた石の灯籠を指さす。
決して大きいものではなく、青々とした庭木に埋もれてひっそりと立っている。
「庭の木は手入れされて綺麗だけど、石灯籠は雨や風に晒されて風化してる。」
「風化?」
「ええ、まるで私のようで、ついつい見てしまうんです。」
木々に比べて手入れも行き届かず、次第に朽ち果てていく石灯篭。
律がそれに自分を重ねているなんて、千秋には信じられなかった。
生来の美貌に、嵯峨の躾のせいで色香が加わった。
店に上がったら、木佐以上の売れっ子になると言われているのに。
「律さんはどこにも行かないよね?」
千秋は思わずそう叫んでいた。
今日の律は何だかいつもと違っている。
このままどこか遠くへ行ってしまうような気がしてならない。
「ここ以外に居場所などありませんよ。」
律は穏やかな表情で、また微笑んでいる。
だけどやはりこの奇妙な焦燥感が、千秋の心から消えることはなかった。
*****
「下手人の目星はついたが、召し捕ることができねぇ!」
桐嶋は忌々しげに、唇を噛んでいる。
横澤はそんな男の顔を見ながら、複雑な気持ちだった。
横澤が目を覚ましたのは、斬り付けられてから数日後のことだ。
胸を刺されたとき、もう死ぬものだと覚悟していた。
だからこうして生きていることは、どこか拍子抜けした気分だった。
嬉しいと泣く木佐や千春、喜んでくれる雪名と羽鳥などを見ても、どうにもついていけない。
嵯峨に「お前はしぶとい」と憎まれ口を叩かれても、怒り返す気も起きない。
だが久しぶりに娼館に現れた桐嶋を見た時は別だった。
「下手人は江戸に流れて来た食い詰め浪人だ。少ない金で殺しでも何でもする。」
桐嶋は前置きもなく、枕元でいきなり説明を始める。
横澤が慌てて身体を起こそうとすると「寝ていろ」と押さえられてしまった。
そしてまた桐嶋は、今までの探索の内容を説明し始めた。
桐嶋によると、実行犯はその食い詰め浪人だが、もちろん依頼した者がいる。
それはやはり最近、娼婦や男娼たちを引き抜こうとする店の主だった。
木佐は引き抜きをことわったが、一番の売れっ子男娼を放っておかなかった。
店に引き入れられないなら殺してしまえと命令を下したのだ。
「そこまでわかってて、どうして召し捕れない?」
「その食い詰め浪人は、あちこちの武家や商家の依頼も受けている。」
横澤は思わずため息をついていた。
実行犯の浪人者を逮捕したら、いろいろと余罪が出てくる可能性がある。
それを恐れる余り、町方は下手人を召し捕ることができないということだ。
「何とかならねーのか?」
「せめてここの者がこれ以上危ない目に合わないように、向こうの店には釘を刺した。」
桐嶋は悔しそうに拳を握りしめた。
横澤はそれ以上、何も言わなかった。
この世の中にはどうにもならないことがある。
横澤はこの娼館で、そんなことをもう嫌というほど見てきたのだ。
「よろしく頼む。俺はもうここにはいられねぇし。」
横澤は何気ない素振りで、重要な事実を告げた。
だが桐嶋は「何?」と鋭い口調で聞き返してくる。
一番言い難いことは、聞き逃してはくれないようだ。
「俺の右手はもう剣を振れない。」
「何だと!?」
「つまりもう用心棒はできないってことだ。怪我が治ったらここから出て行く。」
横澤は事もなげにそう言ったが、事態は深刻だった。
斬り付けられた右腕は、思いのほか深い傷だったのだ。
おそらく日常生活に不自由はないが、剣を振るのは今まで通りにはいかないだろう。
診察に来てくれた老医師はきっぱりとそう言ったのだ。
「当てはあるのか?」
「男1人、生きていくだけなら、何とでもなるさ。」
「横澤、お前」
「少し眠る。悪いが帰ってくれ。」
横澤は桐嶋に背を向けると、目を閉じた。
久しぶりに会えた桐嶋に、心はときめいている。
だがきっと今度こそ、最後になるだろう。
桐嶋は何も言わずに、去って行く。
背中越しに聞こえる桐嶋の足音、そして障子が開いて、閉まる音。
横澤はその音にじっと耳を澄ませながら、布団の中で身じろぎもせずに固まっていた。
*****
「大変だ、火事だ!」
夜、用心棒の部屋に詰めていた政宗は、その声に弾かれたように顔を上げる。
だがすぐに立ち上がると、声のする方向に走り出した。
この娼館は、元々武家屋敷、井坂家の邸宅だ。
東西に長く、その東の端が用心棒が控える部屋。
その反対、西側の数部屋が男娼たちの部屋になる。
そして煙の匂いがするのは、西の方向だった。
咄嗟に思ったのは、律のことだった。
横澤が怪我をして、店が休業になってから、用心棒の控室で過ごすことが増えた。
そのことが今は忌々しい。
一緒にいたらさっさと律を連れて逃げるのに、今はその所在さえ定かでない。
おそらく西側の嵯峨の部屋にいるはずだ。
嵯峨は西側の自分の部屋へと急ぐ。
夜なのに、辺りは昼間のように明るい。
それだけ火の回りが早いのだ。
「こっちはもう誰もいない。東側の娼婦たちを逃がせ。」
男娼たちの部屋の辺りから姿を現したのは、井坂だった。
腹心の朝比奈も影のようにその横に控えている。
律も他の男娼たちも、すでに逃げている。
その言葉に安心した政宗は、すぐに東側にとって返した。
他の用心棒たちと手分けをして、娼婦たちの部屋を調べて回る。
そしてもう誰も残っていないことを確認すると、娼館を出た。
振り返ると娼館は、すでに火に包まれていた。
逃げて来た娼婦や男娼たちだけでなく、周辺の住民たちも出てきて、火に包まれた館を見上げている。
政宗はすかさず固まっている男娼たちの方へと駆け寄った。
「律は、無事か?」
「それが、姿が見えないんです。」
政宗の問いに、羽鳥が答える。
木佐や雪名も困ったように首を振り、千春は露骨に取り乱していた。
「まさか、まだ中に?」
「それはありません。誰もいないのを確認して逃げたのですから。」
「じゃあ、律はどこに行ったんだ!」
政宗は思わず声を荒げていた。
すでに火に包まれた娼館の中にはいない。
だがこうして逃げ延びて来た者たちの中にもいない。
律は忽然と姿を消してしまったのだ。
「律!」
政宗は辺りを見回しながら、声を張り上げる。
だが人ごみの中に、あの茶色の髪と緑の瞳を見つけることはできなかった。
【続く】
*****
「横澤が?」
桐嶋は、思わず声を荒げて聞き返す。
知らせに来た男は、神妙な顔で頷いた。
桐嶋と横澤が会わなくなってから、もうかなり経つ。
当初は夜も眠れないほどの喪失感だったが、最近はようやく慣れてきた。
このままこの想いを風化させて、ひっそりと心の奥に沈める。
そしてこのままお互いの人生に関わることなく、生きていくつもりだった。
ある日の夕刻、奉行所から帰宅すると、家の前で珍客が待っていた。
この男には見覚えがある。
横澤が働く娼館の嵯峨という男娼だ。
普通の男とは違う艶やかさは異彩を放ち、道行く者は興味深げな視線を投げて行く。
色を売る男が持つ独特な妖気に、桐嶋は目を覆いたくなった。
「妙な噂になる。さっさと家に入ってくれ。」
「それには及ばない。すぐに済む。」
嵯峨は素っ気なく、そう答える。
桐嶋は一瞬迷ったものの、すぐに頷いた。
日和に知られるよりは、ここで人目に触れることの方がましだ。
「横澤が斬られた。」
「横澤が?」
桐嶋は、思わず声を荒げて聞き返す。
嵯峨は神妙な表情で頷くと、じっと桐嶋の反応を見ている。
まるで桐嶋が横澤に相応しい男かどうか、見極めるように。
「かろうじて一命は取り留めた。だけどずっと眠ったままだ。」
「・・・どうして、俺に?」
「一応知らせておこうと思った。深い意味なんかない。」
「わざわざ悪かったな。」
「見舞え、なんて言うつもりはない。だがせめて下手人は捕えてくれ。」
嵯峨は言いたいことを全部告げたのだろう。
桐嶋に背を向け、さっさと歩き出してしまう。
だがその背中は雄弁に何かを語っているような気がした。
横澤がかつてこの嵯峨に恋をしていたことは知っている。
気付かれてはいないはずだと横澤は言っていたが、それはきっと違う。
嵯峨は横澤が自分に恋していることを知っていた。
答えられない想いと友情の狭間で、悩んだのだ。
いっそ横澤を嫌いになれれば楽なのだろうが、それも無理だっただろう。
娼婦たちのために人知れず身体を張る横澤は、気のいい男なのだから。
桐嶋は立ち去る嵯峨をじっと見送っていた。
その背中から伝わる嵯峨の気持ちは、きっと思い過ごしではない。
恋はできないが友人として、嵯峨は横澤を案じている。
桐嶋だって本当は今すぐにでも、横澤のところに駆けつけてやりたい。
だけどもう夕刻、幼い娘を置いて出かけることなどできやしない。
「畜生っ!」
桐嶋はやるせない気持ちを吐き出した。
すっかり日が暮れた路上に、桐嶋の悲痛な声が響いた。
*****
「俺のせいだ。」
翔太は桶の水で浸した手拭いを絞ると、畳んで男の額に乗せる。
それを繰り返しているのに、男は一向に目を覚ます気配がなかった。
横澤と共に外出した翔太だったが、途中で2人組の男に襲われた。
男たちの目的は明らかに翔太だった。
だが横澤が翔太をかばって男と相対し、翔太に店に知らせるように指示した。
翔太だけを安全な場所に逃がそうとしたのだ。
躊躇ったものの、それが最良の策だったことは間違いない。
小柄で非力で剣など使えない翔太には、加勢はできない。
むしろ足手まといになるだけだ。
大急ぎで店に駆け戻り、横澤の危機を知らせた。
すぐに裏方が騒がしくなり、他の用心棒たちが店を飛び出していった。
翔太にとっては、待っている間が恐ろしく長く感じた。
襲ってきた2人の男は明らかに殺気を孕んでいるように見えたからだ。
さすがの横澤も危ないかもしれない。
その不吉な予感は的中した。
血塗れの横澤が運び込まれてきたときには、へなへなとその場に座り込んだ。
切り傷は大きく2つ。
ざっくりと斬られた右腕と、左胸の刺し傷だ。
直ちに医師が呼ばれた。
娼館かかりつけの物慣れた老医師は傷を見るなり「こりゃまずいな」と首を振った。
医師が手を尽くし、横澤はどうにか一命を取り留めた。
だがずっと眠ったままでいる。
出血が多すぎたことと、怪我による発熱で体力が落ちているせいだ。
翔太はずっと意識のない横澤に付き添っている。
自分のせいでこんな怪我をした横澤のために、せめて少しでも力になりたい。
「木佐さん、少し休んだらどうですか?」
不意に障子の外から静かな声が聞こえた。
音もなく障子が開き、皇が冷たい水を入れた桶を持って、入ってくる。
「もう水がぬるいでしょう。替えを持ってきました。」
「悪いな。」
「いいえ。横澤さんは木佐さんを守ってくれたんです。俺も少しは役に立ちたい。」
皇は声を潜めてそう告げると、翔太の隣に腰を下ろした。
店はしばらく休みことになったので、夜だというのに静かだ。
最近店を移る件ですれ違っていた2人の間に、微妙な沈黙が漂った。」
「木佐さん、ずっと横澤さんにつきっきりでしょう?休まないと身体に障ります。」
「でも」
「しばらく俺がついてますよ。休んだ方がいい。この上あなたまで倒れたら困ります。」
そんなことを言う皇は、本当に困ったような表情をしている。
翔太のずっと張りつめていた気持ちが、じんわりと緩んでいく。
やはり皇がそばにいるだけで、こんなにも落ち着くのだ。
どうしてこの男と離れて、別の店でやっていけると思ったのだろう。
「これを片づけたら、戻る。」
翔太は水がぬるくなった桶を持って、立ち上がった。
皇が休みつもりがない翔太を咎めるように「木佐さん」と声を上げる。
「心配だからここで休む。膝枕してくれ。」
翔太は音を立てないように注意深く障子を開けて、部屋の外に出た。
出た途端に、翔太の頬が熱を帯びたように赤くなっていく。
恥ずかしい。
異常な状況に任せて、膝枕だなんて普段の自分ではありえないようなおねだりをしてしまった。
それでもこれを機に、やり直したい。
共に堕ちる覚悟をしたあの時に戻れたら、きっとまた笑える日が来る。
その頃には横澤も目を覚まして、祝福してくれるだろう。
翔太は桶を持って、静かに廊下を進んでいった。
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「律さん、眠れないの?」
千秋は縁側でぼんやりと座っている律に声をかける。
律は千秋を見上げると、すぐに笑顔で「はい」と答えた。
日が沈み、夜の帳が幕を下ろした後の空には、月が浮かんでいる。
本来ならば店は色を求める客たちで賑わっているはずの時間だ。
だが思いもかけないことになり、店は休みになった。
娼婦や男娼たちにも、今日は早く休むようにと言い渡されている。
だが普段は明け方まで起きていることが常の生活で、いきなり眠れるわけもない。
「何を考えているの?」
「横澤様が早く目を覚ますようにと祈っていました。」
律は穏やかな表情で、そう答えた。
千秋は何も言わずに、その横に腰を下ろした。
律は特に咎めることもなく、月明かりに照らされた裏庭を見ている。
律はいつも穏やかな微笑で、この娼館のみんなのことを思っている。
千秋が迷っていた時には、さり気なく導く言葉をくれた。
今、怪我をした横澤の身を案じているのも、嘘ではないことはわかっている。
だが今夜の律は何かが違う。
どこか不穏な空気を纏いながら、何かを待っているように見えた。
「嵯峨様は一緒ではないの?」
「しばらくは用心棒の部屋で過ごされるそうです。」
用心棒の中でも剣術の腕が一番の横澤が怪我をしてしまった。
それではいかにも娼館の警備は手薄になる。
そこで多少なりとも剣術の心得のある者たちが駆り出されたのだ。
その中でも武家の血を引く嵯峨は、用心棒を本業にしてもおかしくないほどの腕前だ。
「寂しいの?」
「ええ、少し。でもいい機会です。」
「機会?何の?」
だが律は答えずに、じっと前を見ている。
もう一度聞き返そうとしたが、どこか張りつめた表情の律は聞き返せる雰囲気ではなかった。
重苦しい沈黙を破りたくて、千秋は無理やり言葉をつむぐ。
「律さんは、いつも何を見ているの?」
「石灯籠です。」
今度は即答だった。
律は裏庭の隅にポツンと置かれた石の灯籠を指さす。
決して大きいものではなく、青々とした庭木に埋もれてひっそりと立っている。
「庭の木は手入れされて綺麗だけど、石灯籠は雨や風に晒されて風化してる。」
「風化?」
「ええ、まるで私のようで、ついつい見てしまうんです。」
木々に比べて手入れも行き届かず、次第に朽ち果てていく石灯篭。
律がそれに自分を重ねているなんて、千秋には信じられなかった。
生来の美貌に、嵯峨の躾のせいで色香が加わった。
店に上がったら、木佐以上の売れっ子になると言われているのに。
「律さんはどこにも行かないよね?」
千秋は思わずそう叫んでいた。
今日の律は何だかいつもと違っている。
このままどこか遠くへ行ってしまうような気がしてならない。
「ここ以外に居場所などありませんよ。」
律は穏やかな表情で、また微笑んでいる。
だけどやはりこの奇妙な焦燥感が、千秋の心から消えることはなかった。
*****
「下手人の目星はついたが、召し捕ることができねぇ!」
桐嶋は忌々しげに、唇を噛んでいる。
横澤はそんな男の顔を見ながら、複雑な気持ちだった。
横澤が目を覚ましたのは、斬り付けられてから数日後のことだ。
胸を刺されたとき、もう死ぬものだと覚悟していた。
だからこうして生きていることは、どこか拍子抜けした気分だった。
嬉しいと泣く木佐や千春、喜んでくれる雪名と羽鳥などを見ても、どうにもついていけない。
嵯峨に「お前はしぶとい」と憎まれ口を叩かれても、怒り返す気も起きない。
だが久しぶりに娼館に現れた桐嶋を見た時は別だった。
「下手人は江戸に流れて来た食い詰め浪人だ。少ない金で殺しでも何でもする。」
桐嶋は前置きもなく、枕元でいきなり説明を始める。
横澤が慌てて身体を起こそうとすると「寝ていろ」と押さえられてしまった。
そしてまた桐嶋は、今までの探索の内容を説明し始めた。
桐嶋によると、実行犯はその食い詰め浪人だが、もちろん依頼した者がいる。
それはやはり最近、娼婦や男娼たちを引き抜こうとする店の主だった。
木佐は引き抜きをことわったが、一番の売れっ子男娼を放っておかなかった。
店に引き入れられないなら殺してしまえと命令を下したのだ。
「そこまでわかってて、どうして召し捕れない?」
「その食い詰め浪人は、あちこちの武家や商家の依頼も受けている。」
横澤は思わずため息をついていた。
実行犯の浪人者を逮捕したら、いろいろと余罪が出てくる可能性がある。
それを恐れる余り、町方は下手人を召し捕ることができないということだ。
「何とかならねーのか?」
「せめてここの者がこれ以上危ない目に合わないように、向こうの店には釘を刺した。」
桐嶋は悔しそうに拳を握りしめた。
横澤はそれ以上、何も言わなかった。
この世の中にはどうにもならないことがある。
横澤はこの娼館で、そんなことをもう嫌というほど見てきたのだ。
「よろしく頼む。俺はもうここにはいられねぇし。」
横澤は何気ない素振りで、重要な事実を告げた。
だが桐嶋は「何?」と鋭い口調で聞き返してくる。
一番言い難いことは、聞き逃してはくれないようだ。
「俺の右手はもう剣を振れない。」
「何だと!?」
「つまりもう用心棒はできないってことだ。怪我が治ったらここから出て行く。」
横澤は事もなげにそう言ったが、事態は深刻だった。
斬り付けられた右腕は、思いのほか深い傷だったのだ。
おそらく日常生活に不自由はないが、剣を振るのは今まで通りにはいかないだろう。
診察に来てくれた老医師はきっぱりとそう言ったのだ。
「当てはあるのか?」
「男1人、生きていくだけなら、何とでもなるさ。」
「横澤、お前」
「少し眠る。悪いが帰ってくれ。」
横澤は桐嶋に背を向けると、目を閉じた。
久しぶりに会えた桐嶋に、心はときめいている。
だがきっと今度こそ、最後になるだろう。
桐嶋は何も言わずに、去って行く。
背中越しに聞こえる桐嶋の足音、そして障子が開いて、閉まる音。
横澤はその音にじっと耳を澄ませながら、布団の中で身じろぎもせずに固まっていた。
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「大変だ、火事だ!」
夜、用心棒の部屋に詰めていた政宗は、その声に弾かれたように顔を上げる。
だがすぐに立ち上がると、声のする方向に走り出した。
この娼館は、元々武家屋敷、井坂家の邸宅だ。
東西に長く、その東の端が用心棒が控える部屋。
その反対、西側の数部屋が男娼たちの部屋になる。
そして煙の匂いがするのは、西の方向だった。
咄嗟に思ったのは、律のことだった。
横澤が怪我をして、店が休業になってから、用心棒の控室で過ごすことが増えた。
そのことが今は忌々しい。
一緒にいたらさっさと律を連れて逃げるのに、今はその所在さえ定かでない。
おそらく西側の嵯峨の部屋にいるはずだ。
嵯峨は西側の自分の部屋へと急ぐ。
夜なのに、辺りは昼間のように明るい。
それだけ火の回りが早いのだ。
「こっちはもう誰もいない。東側の娼婦たちを逃がせ。」
男娼たちの部屋の辺りから姿を現したのは、井坂だった。
腹心の朝比奈も影のようにその横に控えている。
律も他の男娼たちも、すでに逃げている。
その言葉に安心した政宗は、すぐに東側にとって返した。
他の用心棒たちと手分けをして、娼婦たちの部屋を調べて回る。
そしてもう誰も残っていないことを確認すると、娼館を出た。
振り返ると娼館は、すでに火に包まれていた。
逃げて来た娼婦や男娼たちだけでなく、周辺の住民たちも出てきて、火に包まれた館を見上げている。
政宗はすかさず固まっている男娼たちの方へと駆け寄った。
「律は、無事か?」
「それが、姿が見えないんです。」
政宗の問いに、羽鳥が答える。
木佐や雪名も困ったように首を振り、千春は露骨に取り乱していた。
「まさか、まだ中に?」
「それはありません。誰もいないのを確認して逃げたのですから。」
「じゃあ、律はどこに行ったんだ!」
政宗は思わず声を荒げていた。
すでに火に包まれた娼館の中にはいない。
だがこうして逃げ延びて来た者たちの中にもいない。
律は忽然と姿を消してしまったのだ。
「律!」
政宗は辺りを見回しながら、声を張り上げる。
だが人ごみの中に、あの茶色の髪と緑の瞳を見つけることはできなかった。
【続く】