和5題-3
【遊女】(ゆうじょ、あそびめ)遊郭や宿場で客をもてなすことを職業とする女性。
*****
「やっぱり娑婆の空気は、美味いもんだな。」
翔太の何気ない口調には、実感がこもっている。
隣を歩く無骨な用心棒は、何も言わなかった。
翔太が娼館を出たのは、実に数年振りのことだ。
多額の借財を抱える身の上では、逃亡を恐れて外に出してもらえない。
それができるようになったのは、皇のおかげだった。
翔太が外出している間は、皇は外に出られない。
そして万が一にも翔太が逃亡した時には、皇がその借金を肩代わりすることになる。
もちろん翔太には逃亡の意思などなく、単なる気晴らしに出たに過ぎない。
傍らには用心棒の横澤が、同行していた。
別に翔太に限ったわけではなく、こういう外出にはつくことになっている。
目的は遊女の護衛、そして逃亡の阻止だ。
「雪名はいいやつだな。普通は自分が人質になって他の者を外出させるなどできねぇもんだ。」
横澤は自分より頭1つほども背が低い翔太を見下ろしながら、呟いた。
この男が自分よりも年下と知った時には、翔太もかなり驚いたものだ。
「わかってるさ。だからもう苦労はさせたくねぇんだが。」
翔太は言ってしまってから、この言い方はまずかったかと思う。
店を離れているせいか、知らず知らずのうちに遊女らしからぬ男言葉になっていたのだ。
だが横澤はそれを咎めるほど、野暮な男ではない。
「例の誘いのことか。ことわったんだろ?」
翔太は力なく頷いた。
勘のいい横澤は、他店からの引き抜き話で翔太と皇が気まずくなっていることを察している。
結局翔太が折れて、誘いをことわったのだが。
「早く金を返して、あいつを自由にしたい。それがどうしても伝わらねぇんだ。」
「雪名にしてみりゃ、それでお前が変な店でこき使われるのが許せないんだろうよ。」
「そりゃわからなくもないんだが」
「俺からすれば、惚れて惚れられた相手といつも一緒にいるだけで羨ましいことだ。」
横澤の言葉には寂しさが滲んでいた。
そう言えば、店に現れて横澤を口説いていたあの八丁堀の同心は、最近顔を見せない。
横澤はいつも邪険に扱っていたが、案外本気だったのだろうか。
そう思うと、武骨な横顔もどこか可愛く見えるから不思議なものだ。
「木佐。どうやらあまり愉快ではない客のようだ。」
不意に横澤が鋭い声で、そう告げた。
驚き、振り返った翔太は、背後からこちらに向かって歩いてくる不審な者たちを見た。
浪人風の男2人組が、早足で距離を詰めてくる。
そして武芸には素人である翔太にも、はっきりと敵意が感じられた。
彼らの襲撃の理由はわからない。
だが狙っている相手は、間違いなく翔太だ。
*****
「律を身請けしたいと聞いたんだが」
政宗は、前置きもなしにそう切り出した。
商家の主は「左様でございます」と抜け目のない笑顔で頭を下げた。
娼館の主、井坂から律の身請け話を聞いた政宗は、不吉な予感しかしなかった。
以前、この家に茶色の髪と緑の瞳の子供が生まれたらしいという噂を聞いた。
それを受けて訪れた時には、けんもほろろに追い返されたのだ。
今になって律の身柄が欲しいなどと言われても、到底信じられない。
井坂には細かい事情は話していないが、不穏な空気は感じているようだ。
この件は政宗に任せると言ってくれた。
だからこうしてまた小野寺屋を訪ねたのであった。
今回は店先ではなく、奥の座敷に通された。
奥に通されて、政宗は改めてこの家の裕福さを知った。
一見ごく普通の商家であるが、柱は太いし、建具や床材などもしっかりしている。
さり気なく置かれた調度品-花器や掛け軸なども趣味のいいものだ。
どうやら住まいにはかなり金をかけている。
小野寺屋の商売は、なかなか繁盛しているということだろう。
「律を身請けするということは、息子と認めたってことか?」
政宗は素っ気ない口調で、そう続けた。
こうして財力を見せつけられても、動じない。
小野寺屋の主と座敷で向かい合い、相手が上座、自分が下座に座らせられても関係ない。
「まさか。遊女のような輩が、当家の息子であるはずがない。」
「それなら、なぜ身請けなどする?」
「実は困っているのです。」
小野寺屋の主の言い分はこうだ。
かねてから小野寺屋では、先妻と息子に関して不穏な噂が立っていた。
いきなり生まれた緑色の瞳の息子と、母子の病死。
もしかして人知れず始末されたのではないかと言われていた。
ようやくその噂を人々が忘れかけた頃に、先妻の名を持つ男娼の話が聞こえてくる。
緑の瞳と聞き、その男娼の年の頃を聞けば。
小野寺屋と結び付けて考える者がいてもおかしくない。
「つまり根も葉もない噂をもみ消すために、大枚を叩こうってことか。」
「その通りでございます。」
さすが商売人、小野寺屋の主の表情は一見朗らかで、親切そうな笑み。
だが政宗には、その裏にあるしたたかな顔が透けて見えた。
そもそもそのくらいでなければ、ここまで立派な家が建つほどの金儲けはできない。
それならば攻め方を変えてみるか。
政宗は男の表情を注意深く観察しながら、徐に口を開いた。
*****
「ところであんた、この家には婿養子で入ったのか?」
「いえ、先代は私の実の父親です。なぜそのようなことを?」
「へぇぇ、そうなのか」
「どういうことでございましょう?」
政宗はしたり顔で、この上なくもったいぶった言い方をしてやった。
案の定、小野寺家の主に少しだけ焦れた様子が見えるのが小気味いい。
「律が小野寺屋の先代によく似てるって言った人間がいるんだ。」
政宗はそう言いながら、目の前の男の顔が微かに揺れるのを見た。
冷静を装っていても、やはり動揺しているのだろう。
政宗もまた完璧に冷静を装っているが、実は少々動揺していた。
律が小野寺屋の先代に似ていると評したのは、律が怪我をした時に世話になった医師だ。
それを聞いたとき、小野寺屋の主は婿養子だと考えた。
緑色の瞳を持っている律は、普通に考えて異国の血が混じっていると思うのが普通だ。
だから産んだ母が先妻なら、父親は目の前のこの男ではないと思った。
そして律は、先代の律から見れば祖父に当たる人物によく似ているらしい。
つまり律の母が先代の娘で、この男は婿養子だと思い込んでいたのだ。
だがこの男は先代の実子だという。
それによくよく見れば、この男も整った綺麗な顔立ちをしている。
律の父親だと言われれば、似ていないこともない。
この男が律の父だとしたら、あの緑の瞳と茶色の髪はどういうことなのだろう。
「その少年が、私共の先代に似ていると申された方はどなたでしょう?」
「それは言わねぇ。そいつが殺されでもしたら、俺の目覚めが悪いからな。」
「御冗談を」
渇いた笑い声が座敷に響いた。
だが男の目は少しも笑っていない。
政宗はもう少し探りを入れることにする。
「ところで最近、娼館の近くの神社で人の骨が見つかった。」
「骨、でございますか?」
「あんたの前のお内儀さん、なんてことはねぇよな?」
「それはまた、きつい御冗談ですな」
政宗は何の前置きもなく、席を立った。
元々小野寺屋から、何か情報を得られるなどとは考えていない。
相手の表情から、その魂胆を計りたかっただけだ。
そしてそれは果たされた。
小野寺家の主は、良からぬことを企んでいるとしか思えない。
座敷を出る間際に、政宗は振り返って、問いかけた。
「あんた、律を引き取ったらどうするつもりだ?」
「京に遠縁の親類がおりますので、そちらに預けます。」
「少なくても表向きは、そうなんだろうな。」
政宗はそのまま元来た廊下を歩き出す。
店の者が「お見送りいたします」と駆け寄ってきたが、手を振ってことわった。
もし律が黒髪と黒い瞳で生まれていたら、この家の跡取りとして平穏な人生を送っていたかもしれない。
それを思うと、少しだけ切ない気分だった。
*****
「どうしたらいいと思う?」
千秋は必死の形相で、涼やかな少年の横顔を見た。
本当に困り果てていて、誰でもいいから縋りたい気持ちだった。
羽鳥は千秋に対して怒っている。
身請け話をしなかったこと、そしてそれを柳瀬に話したことをだ。
だが千秋にはわからなかった。
どうしてそれで羽鳥が怒ることになるのだろう。
正直言って今より高い金を貰えることに心は揺れた。
千秋は借金を早く返すことより、実家のために役立てたいと思っている。
貧乏な家族に少しでもいい物を食べてもらい、妹に着物の1枚も送りたい。
だが他の店に行けば、羽鳥に会えなくなってしまう。
それはどうしても嫌だったのだ。
羽鳥に話さなかったのは、余計な心配をかけたくなかったからだ。
そして柳瀬に話してしまったのは、偶然見られてしまったからだ。
しつこく「店を移れ」と誘われて困っているところに居合わせ、助けてくれた。
柳瀬にも店を変わるのはやめた方がいいと言われ、少しだけ残っていた未練も消えた。
羽鳥に知られずに終わって、ほっとしていたのだ。
だが羽鳥はそれを知ってしまった。
店中の娼婦や男娼が誘われていることから、察してしまったのだ。
黙っていたことを怒られ、柳瀬のことでさらに怒られた。
それ以降、羽鳥はいつも機嫌が悪いのだ。
今も羽鳥と一緒にいるのが怖くて、部屋を出てきてしまった。
まだ店も開かないし、よく遊びに行く木佐の部屋も今は誰もいない。
気晴らしに散歩に出ると言い残し、横澤と出かけてしまったのだ。
途方に暮れていた時、縁側でぼんやりしている律を見つけた。
「隣に座っていい?」
そう声をかけると、律は千秋を見上げて「どうぞ」と笑った。
千秋は律の横に並んで座り、悶々とする心の内を語ったのだ。
律はときどき相槌を打ちながら、千秋の話を聞いていた。
「どうしたらいいと思う?」
「今話したことを、そのまま羽鳥様にお話ししたらいいと思いますよ。」
律はおっとりとした口調で、きっぱりと断言した。
こんなに明確な答えが返るとは思わなかった千秋は、思わず律の横顔を凝視した。
「羽鳥様が好きだからこそ黙っていた。それを伝えればいいんです。」
「許してくれるかな?」
「当たり前です。羽鳥様は千春様が好きなんですから。千春様もそうでしょう?」
「うん。羽鳥様が大好きだ。だから頑張って話してみる!」
「それがいいです。」
千秋は縁側で足をブラブラ揺らしながら「律さんってすごい!」と明るい声を上げた。
律の茶色の髪が風に揺れ、緑の瞳が輝く。
その美しい微笑は、魔法のように千秋の憂鬱を取り払ってしまった。
「何もすごくないですよ。」
律は困ったように笑いながら、チラリと後方の廊下の隅に目をやった。
障子の影に身を隠すように息を潜めて立っている羽鳥と、一瞬だけ目が合う。
心なしか羽鳥の頬が少しだけ紅潮していたが、律がそれを誰かに話すことはなかった。
*****
「お前たち、いったいどこの者だ?」
横澤は息を切らしながら、2人の狼藉者を睨み付ける。
だが答えはなく、再び刀を振り上げて、斬りかかってきた。
「ったく、面倒だな。」
横澤は悪態をつきながらも、襲ってくる刃を躱し続けた。
単純に剣術の腕なら横澤の方が上だ。
だが相手は2人であり、彼らの連携は実に見事だった。
1人が斬りかかり、横澤がそちらに気を取られたところをもう1人が狙ってくる。
おそらくこのやり方で、今まで何人もの人間を屠ってきたに違いない。
何よりも厄介なのは、相手は横澤と木佐を殺すつもりであることだった。
手加減など微塵も感じない、容赦のない剣先だ。
とにかく相手を殺さずに済ませたい横澤と闇雲に斬りかかってくる相手の思い切りの差。
さらに木佐を無傷で守らなければならないから、もう全然余裕がない。
「木佐、お前は急いで店に戻れ。」
横澤はついに決断した。
本当は男娼1人で街を歩かせたくなどない。
だがもうそんなことは言っていられなかった。
勝算がまるでないのだから、とにかく木佐だけでも逃がさなくてはならない。
「でも。横澤さん」
「戻ったら美濃に、逸見を寄越すようにと言え。」
逸見は、娼館のもう1人の用心棒だ。
木佐が無事に逃げて、人数が同じになれば勝機もあるだろう。
「わかった。それまで無事でいろよ!」
木佐は遊女らしからぬ物言いで叫ぶと、勢いよく走りだした。
まったく男らしいことだ。
あれが娼館一の売れっ子男娼だというのだから、世の中とはわからないものだ。
そんなことを考えてる場合ではないのに、横澤は苦笑する。
男の1人が木佐を追いかけるべく、走り出そうとする。
だか横澤は男の鼻先に刃を突き付けて、行く手を阻んだ。
そうしながらもう1人の男が追おうとするのを、足を引っかけて転ばせてやる。
一瞬後ろを振り返ると、ちょうど木佐は角を曲がって見えなくなった。
そこで一瞬、安堵したのがまずかった。
隙をつくように振り下ろされた刃が、横澤の右腕を切り裂いた。
横澤は思わず「うっ!」と呻きながらも、かろうじて剣は落とさなかった。
腕に直接空気が触れているようだから、着物はかなり派手に破れていると思う。
袖が重く感じるのは、きっと大量の血を吸い込んだせいだろう。
だが横澤はあえて、傷を見ないことにした。
多分血を見て怯んだ瞬間、とどめを刺されてしまう。
だがしっかり構えたつもりの剣先は小刻みに揺れていた。
持ち慣れたはずの刀は、いつもの数倍も重く感じる。
勝利を確信したらしい男2人が、唇を歪めて笑っている。
こういう最期も、俺らしいか。
横澤の顔にも、自然に笑みが浮かんでいた。
死ぬかもしれないと思った瞬間、心に浮かんだのは小憎らしい八丁堀同心の顔だった。
【続く】
*****
「やっぱり娑婆の空気は、美味いもんだな。」
翔太の何気ない口調には、実感がこもっている。
隣を歩く無骨な用心棒は、何も言わなかった。
翔太が娼館を出たのは、実に数年振りのことだ。
多額の借財を抱える身の上では、逃亡を恐れて外に出してもらえない。
それができるようになったのは、皇のおかげだった。
翔太が外出している間は、皇は外に出られない。
そして万が一にも翔太が逃亡した時には、皇がその借金を肩代わりすることになる。
もちろん翔太には逃亡の意思などなく、単なる気晴らしに出たに過ぎない。
傍らには用心棒の横澤が、同行していた。
別に翔太に限ったわけではなく、こういう外出にはつくことになっている。
目的は遊女の護衛、そして逃亡の阻止だ。
「雪名はいいやつだな。普通は自分が人質になって他の者を外出させるなどできねぇもんだ。」
横澤は自分より頭1つほども背が低い翔太を見下ろしながら、呟いた。
この男が自分よりも年下と知った時には、翔太もかなり驚いたものだ。
「わかってるさ。だからもう苦労はさせたくねぇんだが。」
翔太は言ってしまってから、この言い方はまずかったかと思う。
店を離れているせいか、知らず知らずのうちに遊女らしからぬ男言葉になっていたのだ。
だが横澤はそれを咎めるほど、野暮な男ではない。
「例の誘いのことか。ことわったんだろ?」
翔太は力なく頷いた。
勘のいい横澤は、他店からの引き抜き話で翔太と皇が気まずくなっていることを察している。
結局翔太が折れて、誘いをことわったのだが。
「早く金を返して、あいつを自由にしたい。それがどうしても伝わらねぇんだ。」
「雪名にしてみりゃ、それでお前が変な店でこき使われるのが許せないんだろうよ。」
「そりゃわからなくもないんだが」
「俺からすれば、惚れて惚れられた相手といつも一緒にいるだけで羨ましいことだ。」
横澤の言葉には寂しさが滲んでいた。
そう言えば、店に現れて横澤を口説いていたあの八丁堀の同心は、最近顔を見せない。
横澤はいつも邪険に扱っていたが、案外本気だったのだろうか。
そう思うと、武骨な横顔もどこか可愛く見えるから不思議なものだ。
「木佐。どうやらあまり愉快ではない客のようだ。」
不意に横澤が鋭い声で、そう告げた。
驚き、振り返った翔太は、背後からこちらに向かって歩いてくる不審な者たちを見た。
浪人風の男2人組が、早足で距離を詰めてくる。
そして武芸には素人である翔太にも、はっきりと敵意が感じられた。
彼らの襲撃の理由はわからない。
だが狙っている相手は、間違いなく翔太だ。
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「律を身請けしたいと聞いたんだが」
政宗は、前置きもなしにそう切り出した。
商家の主は「左様でございます」と抜け目のない笑顔で頭を下げた。
娼館の主、井坂から律の身請け話を聞いた政宗は、不吉な予感しかしなかった。
以前、この家に茶色の髪と緑の瞳の子供が生まれたらしいという噂を聞いた。
それを受けて訪れた時には、けんもほろろに追い返されたのだ。
今になって律の身柄が欲しいなどと言われても、到底信じられない。
井坂には細かい事情は話していないが、不穏な空気は感じているようだ。
この件は政宗に任せると言ってくれた。
だからこうしてまた小野寺屋を訪ねたのであった。
今回は店先ではなく、奥の座敷に通された。
奥に通されて、政宗は改めてこの家の裕福さを知った。
一見ごく普通の商家であるが、柱は太いし、建具や床材などもしっかりしている。
さり気なく置かれた調度品-花器や掛け軸なども趣味のいいものだ。
どうやら住まいにはかなり金をかけている。
小野寺屋の商売は、なかなか繁盛しているということだろう。
「律を身請けするということは、息子と認めたってことか?」
政宗は素っ気ない口調で、そう続けた。
こうして財力を見せつけられても、動じない。
小野寺屋の主と座敷で向かい合い、相手が上座、自分が下座に座らせられても関係ない。
「まさか。遊女のような輩が、当家の息子であるはずがない。」
「それなら、なぜ身請けなどする?」
「実は困っているのです。」
小野寺屋の主の言い分はこうだ。
かねてから小野寺屋では、先妻と息子に関して不穏な噂が立っていた。
いきなり生まれた緑色の瞳の息子と、母子の病死。
もしかして人知れず始末されたのではないかと言われていた。
ようやくその噂を人々が忘れかけた頃に、先妻の名を持つ男娼の話が聞こえてくる。
緑の瞳と聞き、その男娼の年の頃を聞けば。
小野寺屋と結び付けて考える者がいてもおかしくない。
「つまり根も葉もない噂をもみ消すために、大枚を叩こうってことか。」
「その通りでございます。」
さすが商売人、小野寺屋の主の表情は一見朗らかで、親切そうな笑み。
だが政宗には、その裏にあるしたたかな顔が透けて見えた。
そもそもそのくらいでなければ、ここまで立派な家が建つほどの金儲けはできない。
それならば攻め方を変えてみるか。
政宗は男の表情を注意深く観察しながら、徐に口を開いた。
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「ところであんた、この家には婿養子で入ったのか?」
「いえ、先代は私の実の父親です。なぜそのようなことを?」
「へぇぇ、そうなのか」
「どういうことでございましょう?」
政宗はしたり顔で、この上なくもったいぶった言い方をしてやった。
案の定、小野寺家の主に少しだけ焦れた様子が見えるのが小気味いい。
「律が小野寺屋の先代によく似てるって言った人間がいるんだ。」
政宗はそう言いながら、目の前の男の顔が微かに揺れるのを見た。
冷静を装っていても、やはり動揺しているのだろう。
政宗もまた完璧に冷静を装っているが、実は少々動揺していた。
律が小野寺屋の先代に似ていると評したのは、律が怪我をした時に世話になった医師だ。
それを聞いたとき、小野寺屋の主は婿養子だと考えた。
緑色の瞳を持っている律は、普通に考えて異国の血が混じっていると思うのが普通だ。
だから産んだ母が先妻なら、父親は目の前のこの男ではないと思った。
そして律は、先代の律から見れば祖父に当たる人物によく似ているらしい。
つまり律の母が先代の娘で、この男は婿養子だと思い込んでいたのだ。
だがこの男は先代の実子だという。
それによくよく見れば、この男も整った綺麗な顔立ちをしている。
律の父親だと言われれば、似ていないこともない。
この男が律の父だとしたら、あの緑の瞳と茶色の髪はどういうことなのだろう。
「その少年が、私共の先代に似ていると申された方はどなたでしょう?」
「それは言わねぇ。そいつが殺されでもしたら、俺の目覚めが悪いからな。」
「御冗談を」
渇いた笑い声が座敷に響いた。
だが男の目は少しも笑っていない。
政宗はもう少し探りを入れることにする。
「ところで最近、娼館の近くの神社で人の骨が見つかった。」
「骨、でございますか?」
「あんたの前のお内儀さん、なんてことはねぇよな?」
「それはまた、きつい御冗談ですな」
政宗は何の前置きもなく、席を立った。
元々小野寺屋から、何か情報を得られるなどとは考えていない。
相手の表情から、その魂胆を計りたかっただけだ。
そしてそれは果たされた。
小野寺家の主は、良からぬことを企んでいるとしか思えない。
座敷を出る間際に、政宗は振り返って、問いかけた。
「あんた、律を引き取ったらどうするつもりだ?」
「京に遠縁の親類がおりますので、そちらに預けます。」
「少なくても表向きは、そうなんだろうな。」
政宗はそのまま元来た廊下を歩き出す。
店の者が「お見送りいたします」と駆け寄ってきたが、手を振ってことわった。
もし律が黒髪と黒い瞳で生まれていたら、この家の跡取りとして平穏な人生を送っていたかもしれない。
それを思うと、少しだけ切ない気分だった。
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「どうしたらいいと思う?」
千秋は必死の形相で、涼やかな少年の横顔を見た。
本当に困り果てていて、誰でもいいから縋りたい気持ちだった。
羽鳥は千秋に対して怒っている。
身請け話をしなかったこと、そしてそれを柳瀬に話したことをだ。
だが千秋にはわからなかった。
どうしてそれで羽鳥が怒ることになるのだろう。
正直言って今より高い金を貰えることに心は揺れた。
千秋は借金を早く返すことより、実家のために役立てたいと思っている。
貧乏な家族に少しでもいい物を食べてもらい、妹に着物の1枚も送りたい。
だが他の店に行けば、羽鳥に会えなくなってしまう。
それはどうしても嫌だったのだ。
羽鳥に話さなかったのは、余計な心配をかけたくなかったからだ。
そして柳瀬に話してしまったのは、偶然見られてしまったからだ。
しつこく「店を移れ」と誘われて困っているところに居合わせ、助けてくれた。
柳瀬にも店を変わるのはやめた方がいいと言われ、少しだけ残っていた未練も消えた。
羽鳥に知られずに終わって、ほっとしていたのだ。
だが羽鳥はそれを知ってしまった。
店中の娼婦や男娼が誘われていることから、察してしまったのだ。
黙っていたことを怒られ、柳瀬のことでさらに怒られた。
それ以降、羽鳥はいつも機嫌が悪いのだ。
今も羽鳥と一緒にいるのが怖くて、部屋を出てきてしまった。
まだ店も開かないし、よく遊びに行く木佐の部屋も今は誰もいない。
気晴らしに散歩に出ると言い残し、横澤と出かけてしまったのだ。
途方に暮れていた時、縁側でぼんやりしている律を見つけた。
「隣に座っていい?」
そう声をかけると、律は千秋を見上げて「どうぞ」と笑った。
千秋は律の横に並んで座り、悶々とする心の内を語ったのだ。
律はときどき相槌を打ちながら、千秋の話を聞いていた。
「どうしたらいいと思う?」
「今話したことを、そのまま羽鳥様にお話ししたらいいと思いますよ。」
律はおっとりとした口調で、きっぱりと断言した。
こんなに明確な答えが返るとは思わなかった千秋は、思わず律の横顔を凝視した。
「羽鳥様が好きだからこそ黙っていた。それを伝えればいいんです。」
「許してくれるかな?」
「当たり前です。羽鳥様は千春様が好きなんですから。千春様もそうでしょう?」
「うん。羽鳥様が大好きだ。だから頑張って話してみる!」
「それがいいです。」
千秋は縁側で足をブラブラ揺らしながら「律さんってすごい!」と明るい声を上げた。
律の茶色の髪が風に揺れ、緑の瞳が輝く。
その美しい微笑は、魔法のように千秋の憂鬱を取り払ってしまった。
「何もすごくないですよ。」
律は困ったように笑いながら、チラリと後方の廊下の隅に目をやった。
障子の影に身を隠すように息を潜めて立っている羽鳥と、一瞬だけ目が合う。
心なしか羽鳥の頬が少しだけ紅潮していたが、律がそれを誰かに話すことはなかった。
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「お前たち、いったいどこの者だ?」
横澤は息を切らしながら、2人の狼藉者を睨み付ける。
だが答えはなく、再び刀を振り上げて、斬りかかってきた。
「ったく、面倒だな。」
横澤は悪態をつきながらも、襲ってくる刃を躱し続けた。
単純に剣術の腕なら横澤の方が上だ。
だが相手は2人であり、彼らの連携は実に見事だった。
1人が斬りかかり、横澤がそちらに気を取られたところをもう1人が狙ってくる。
おそらくこのやり方で、今まで何人もの人間を屠ってきたに違いない。
何よりも厄介なのは、相手は横澤と木佐を殺すつもりであることだった。
手加減など微塵も感じない、容赦のない剣先だ。
とにかく相手を殺さずに済ませたい横澤と闇雲に斬りかかってくる相手の思い切りの差。
さらに木佐を無傷で守らなければならないから、もう全然余裕がない。
「木佐、お前は急いで店に戻れ。」
横澤はついに決断した。
本当は男娼1人で街を歩かせたくなどない。
だがもうそんなことは言っていられなかった。
勝算がまるでないのだから、とにかく木佐だけでも逃がさなくてはならない。
「でも。横澤さん」
「戻ったら美濃に、逸見を寄越すようにと言え。」
逸見は、娼館のもう1人の用心棒だ。
木佐が無事に逃げて、人数が同じになれば勝機もあるだろう。
「わかった。それまで無事でいろよ!」
木佐は遊女らしからぬ物言いで叫ぶと、勢いよく走りだした。
まったく男らしいことだ。
あれが娼館一の売れっ子男娼だというのだから、世の中とはわからないものだ。
そんなことを考えてる場合ではないのに、横澤は苦笑する。
男の1人が木佐を追いかけるべく、走り出そうとする。
だか横澤は男の鼻先に刃を突き付けて、行く手を阻んだ。
そうしながらもう1人の男が追おうとするのを、足を引っかけて転ばせてやる。
一瞬後ろを振り返ると、ちょうど木佐は角を曲がって見えなくなった。
そこで一瞬、安堵したのがまずかった。
隙をつくように振り下ろされた刃が、横澤の右腕を切り裂いた。
横澤は思わず「うっ!」と呻きながらも、かろうじて剣は落とさなかった。
腕に直接空気が触れているようだから、着物はかなり派手に破れていると思う。
袖が重く感じるのは、きっと大量の血を吸い込んだせいだろう。
だが横澤はあえて、傷を見ないことにした。
多分血を見て怯んだ瞬間、とどめを刺されてしまう。
だがしっかり構えたつもりの剣先は小刻みに揺れていた。
持ち慣れたはずの刀は、いつもの数倍も重く感じる。
勝利を確信したらしい男2人が、唇を歪めて笑っている。
こういう最期も、俺らしいか。
横澤の顔にも、自然に笑みが浮かんでいた。
死ぬかもしれないと思った瞬間、心に浮かんだのは小憎らしい八丁堀同心の顔だった。
【続く】