和5題-3
【涙雨】(なみだあめ)悲しみの涙が化して降ると思われる雨。
*****
「お前さんは、神社の狐だろう。」
酔った客がすれ違いざまに、律の腕を掴んだ。
軽い会釈で通り過ぎようとした律だったが、にっこりと客に微笑みかけた。
怪我をしたせいで店に上がる日が遅れた律は、裏方の手伝いをしていた。
客の部屋に料理や酒を運んだりする仕事だ。
それは別に人件費をけちっているわけではない。
いわゆる宣伝活動だ。
律の美貌に興味を持った客が、律の素性を聞いてくる。
そこですかさず「もうすぐ店に上がるますので、よろしくお願いします」と答えるのだ。
律が出向く部屋は男娼を抱く男の部屋に限られる。
先程は千春の部屋に、酒を運んだ。
そして今は木佐の部屋だ。
これで今日の仕事はおしまいになるはずだった。
だが戻りしなに、酔客に腕を掴まれたのだ。
「神社の狐が、随分綺麗になったもんだな。」
顔を覗き込まれ、酒臭い息を吹きかけられた。
どうやら神社で供え物を食べて食いつないでいた頃の律を知っている男のようだ。
好色な目で、無遠慮にじろじろと眺めまわされるが、律は表情を変えなかった。
「おかげさまで、こちらにお世話になっております。」
「へぇぇ、客を取ってるのかい?」
「もうすぐお店に上がります。その折りにはどうぞ御贔屓にお願いいたします。」
律は丁寧に頭を下げながら、客の腕をそっと外した。
尚も何か言いたそうな客を残して、スタスタと廊下を進む。
客にからまれているのを、店の誰かに知らせたくない。
必ず嵯峨の耳に入って、心配するからだ。
もうすぐああいう客を相手に、身体を開くことになる。
そのことに少しも嫌悪を感じないわけではない。
だが律には、他に居場所がないのだ。
嵯峨の言う通りに、生きていくしかなかった。
*****
「店を移ろうかと考えている。」
木佐がおもむろに口を開いた。
皇は「どういうことでしょう?」と注意深く聞き返した。
いつも客の相手をした後、木佐は疲れ果てている。
時には指1本動かすのも、しんどそうな時もある。
男が男に抱かれるということは、身体にかなりの負担を強いるのだ。
皇は娼館で働くようになって、ずっと木佐を見つけることによって、思い知った。
だが今日の木佐は、思いのほかしっかりだった。
数刻ほど客の相手をしてきたのに、疲れた素振りもない。
ただ難しい表情で黙り込み、何かを考え込んでいる。
皇は辛抱強く、木佐が口を開くのを待っていたのだ。
「店を移るって、当てはあるんですか?」
「ああ。今日来た客に勧められたんだ。今より高い給金を払うっていうし、休みも少ない。」
「それで?移るって返事したんですか!?」
「いや、まだ」
「俺は反対です!」
皇は色を成して反対した。
この娼館は、男娼の身体の負担を考慮して、こまめに休みを取らせる。
それに1回の客の滞在時間も、制限している。
それでもいつも客の相手をした後の翔太は、痛ましいほど疲れ切っているのだ。
「それで木佐さんが身体を壊すようなことになったら、どうするんです!」
「だけど早く借金を返せるし、お前も絵師の修行に専念できるだろう?」
皇の声につられて、木佐の声も荒くなった。
かわいい顔のくせに気が強い木佐は、意外と簡単に怒る。
これもこの娼館で暮らすようになって、初めて知ったことだ。
小さな口喧嘩は何回かあったが、いつも皇が折れた。
宥めることで、何とかやり過ごしてきたのだ。
だが今回は皇も1歩も引くつもりはない。
他店から男娼を引き抜くなど、碌な店ではないに決まっている。
それこそ擦り切れるまで働かされて、身体を壊すことになることは目に見えている。
「絶対に許しませんからね。」
皇は木佐に強い口調で、念を押した。
木佐は不満そうな表情のまま、口を噤んでしまう。
そのまま2人の間には、重い沈黙が流れた。
そしてこのことが2人の関係に影を落とすことになった。
*****
まったく嫌な雨だ。
桐嶋は心の中で悪態をつきながら、家路を急いでいた。
奉行所を出てしばらくしたところで、雨が降り始めた。
もう少し強い雨なら、傘を取りに戻っていただろう。
だが霧のように細かい雨だったので、このまま早足で帰ればいいと思った。
その結果、家に帰り着いたころには、全身がしっとりと濡れていた。
「帰ったぞ」
玄関で、奥に向かって声を張り上げる。
父と娘、2人暮らしには広すぎる屋敷だ。
だが昼間は近くで暮らす桐嶋の両親が頻繁に顔を出して、家のことをしてくれる。
おかげで他人を入れたりせずに、暮らしていくことができるのだ。
「日和!雨で濡れたんだ。手拭いを持ってきてくれ!」
いつもだったら声をかけると出迎えに出てくる娘が出てこない。
桐嶋は不審に思いながらも、もう1度声を張り上げた。
「おかえりなさい。」
ずいぶん待たされた後、ようやく手拭いを手にして現れた日和は元気がなかった。
何よりも目が少し腫れており、涙の後を残している。
「どうした。何があった?」
「由紀ちゃんが、もう私とは遊ばないって。」
由紀とは近所に住む小間物問屋の娘だ。
齢が同じこともあって話題も合うようで、一緒によく出掛けている。
「御用の合間に娼館に出入りする同心の娘は友達にしてはいけないって言われたって。」
「何だと?」
「ねぇ横澤のお兄ちゃんは、人に責められる場所で働いてるの?」
日和に必死の形相で問われた桐嶋は、言葉を失った。
横澤本人は真面目に、身体を張って娼婦や男娼たちのことを守っている。
だが娼館という職場は、あまり大きな声で言えるものではない。
そこに働くだけで、如何わしいと思う者だっている。
そして桐嶋は、横澤に拒否されてからは足が遠のいていたが、それまでは毎日出向いていた。
桐嶋だけでなく日和まで差別的な目で見られることは、予想して然るべきだ。
お前はこれを予想してたんだな。
桐嶋はきっぱりと別れを告げた横澤の言葉を思い出す。
桐嶋と日和を理不尽な醜聞に巻き込まないために、横澤は桐嶋から離れたのだ。
「横澤は何も悪くない。働いてる場所で人を差別するのはいけないことだ。」
「じゃあ由紀ちゃんと、由紀ちゃんのお父様とお母様が悪いの?」
ようやく答えを絞り出したのに、またしても日和に問われ、答えに詰まってしまう。
この世には色を売る職業があり、買う者が少なからず存在しているのに。
どうしてそれを自分たちよりも卑しいと決めつけ、嫌悪するのだろう。
涙雨か。
桐嶋は日和から受け取った手拭いで身体を拭きながら、ため息をついた。
雨足は少し強くなったようだ。
*****
「お前は、他の店に移らないかと誘われなかったのか?」
そう問うた途端、千秋の目が落ち着きなく泳ぎ始めた。
羽鳥は「やはり」と肩を落とし、千秋を睨んだ。
最近店の娼婦や男娼たちが、声をかけられている。
相手は商売敵の娼館の手の者だ。
彼らは客を装って娼婦たちに近寄り、店を移らないかと持ち掛ける。
残った借金を身請けという形で引き受け、新しい店ではもっといい金になると誘うのだ。
羽鳥はまずそれを雪名から聞かされた。
木佐が店を移ろうかと迷っているのを知って、困っていると言う。
次に聞いたのは、美濃からだ。
娼婦たちが立て続けに「身請け」されており、不審に思い、調べた結果だった。
羽鳥や嵯峨、雪名など、女相手に商売する者たちは聞かされていない。
つまり娼婦たちを持ち去ろうとする娼館には、そういう男娼は置かないのだろう。
では千秋はどうなのか。
声をかけられていないはずはないのに、どうして何も言わないのだろう。
不審に思った羽鳥は、千秋を問い詰めたのだった。
「迷ったんです。やはりお金がいっぱい貰えるのは嬉しいですから。」
「なぜ俺に言わなかった?」
「最近故郷の両親が、仕送りをしてくれないかと言ってくるし。」
「だから。なぜ俺に言わなかったかと聞いている。」
羽鳥は極力怒りを抑えて、問いかけた。
千秋は視線を足元に落としたまま、羽鳥と目を合わせようとしない。
「ご心配をおかけしたくなかったのです。」
「それで、ことわったのか?」
「はい。柳瀬様が、そんな風に他の店の者を引っ張る店は信用しない方がいいと。」
「あの方には、話したのだな。」
「柳瀬様を怒らないで下さい。心配してくださったのです。」
「お客様を怒るような真似はしない。」
他店に移る話は、羽鳥だって同じ理由で反対だ。
だが問題は千秋が羽鳥ではなく柳瀬に話したことだった。
しかも羽鳥には、話があったことさえ言わない。
一緒に堕ちる覚悟を決めたのに、当の千秋がこれではあんまりではないか。
「お前は俺を一番、信頼してくれていると思っていた。」
羽鳥は悲しげな言葉を残すと、千秋に背を向けた。
これ以上千秋の顔を見ていると、怒鳴りつけてしまいそうだったからだ。
*****
「まったくよくねぇ雲行きだな。」
娼館の主である男は、縁側で空を見上げながら、苦笑する。
傍らの男は「まったくです」と控えめに相槌を打った。
井坂龍一郎。
それがこの娼館の主の名前だった。
旗本である井坂家の血は引いているが、その出自は娼館だ。
先代が街の娼婦との間に作った子供だった。
井坂家に引き取られたのは、先代の正妻が生んだ嫡子が病死したからだ。
後継ぎがいなくなり、娼館から呼び寄せられて井坂家の跡取りとなった。
その後すぐに、先代も亡くなり、井坂が後を継ぐことになった。
だが下賤の娼婦が産んだ子供が当主になることに、露骨な嫌悪を示す者も多かった。
もっと先代が長生きして、しっかりと後継者として教育していたら違っていたかもしれない。
だったら、と井坂は屋敷をそのまま娼館にしてしまったのだ。
屋敷に手を入れて、娼婦たちを買入れ、全てを整えるのに、先代の遺産を使った。
武士の家のしきたりなどわからないが、娼館のことなら知っている。
吉原のようにお高く留まって、高い金をふんだくるようなことはしない。
躾の行き届いた娼婦たちを置き、良心的な値段で遊べる店を作るのだ。
井坂の試みは成功した。
こうして自分を捨てて、また都合のいい時に拾った先代-父への復讐を果たしたのだ。
家臣たちは井坂が暇を出す前に、ほぼ全員が去った。
唯一残ったのが、いつも傍らにいるこの朝比奈だった。
「最近、うちの娼婦を誑かす奴がいるようだな。」
「ええ。うちは繁盛しておりますので、妬みでしょうね。」
朝比奈は自分からは何も言わないが、井坂が何か言えば静かに答える。
そしてその言葉はいつも的を得ていた。
「そっちは任せる。目に余るようなら、ちょいと脅してやれ。」
「かしこまりました。」
「他に何かあるかい?」
「娼婦を引き抜く件とは別に、律を身請けしたいという方がいらっしゃいます。」
「律?ああ、神社の狐か。身請けったってあいつは借金などないだろう。相手は誰だ?」
「小野寺屋さんです。」
「まったくどいつもこいつもきな臭いな。」
井坂はウンザリした表情のまま、また空を見上げる。
借金のために苦しむ娼婦たちの怨念のような涙雨だ。
【続く】
*****
「お前さんは、神社の狐だろう。」
酔った客がすれ違いざまに、律の腕を掴んだ。
軽い会釈で通り過ぎようとした律だったが、にっこりと客に微笑みかけた。
怪我をしたせいで店に上がる日が遅れた律は、裏方の手伝いをしていた。
客の部屋に料理や酒を運んだりする仕事だ。
それは別に人件費をけちっているわけではない。
いわゆる宣伝活動だ。
律の美貌に興味を持った客が、律の素性を聞いてくる。
そこですかさず「もうすぐ店に上がるますので、よろしくお願いします」と答えるのだ。
律が出向く部屋は男娼を抱く男の部屋に限られる。
先程は千春の部屋に、酒を運んだ。
そして今は木佐の部屋だ。
これで今日の仕事はおしまいになるはずだった。
だが戻りしなに、酔客に腕を掴まれたのだ。
「神社の狐が、随分綺麗になったもんだな。」
顔を覗き込まれ、酒臭い息を吹きかけられた。
どうやら神社で供え物を食べて食いつないでいた頃の律を知っている男のようだ。
好色な目で、無遠慮にじろじろと眺めまわされるが、律は表情を変えなかった。
「おかげさまで、こちらにお世話になっております。」
「へぇぇ、客を取ってるのかい?」
「もうすぐお店に上がります。その折りにはどうぞ御贔屓にお願いいたします。」
律は丁寧に頭を下げながら、客の腕をそっと外した。
尚も何か言いたそうな客を残して、スタスタと廊下を進む。
客にからまれているのを、店の誰かに知らせたくない。
必ず嵯峨の耳に入って、心配するからだ。
もうすぐああいう客を相手に、身体を開くことになる。
そのことに少しも嫌悪を感じないわけではない。
だが律には、他に居場所がないのだ。
嵯峨の言う通りに、生きていくしかなかった。
*****
「店を移ろうかと考えている。」
木佐がおもむろに口を開いた。
皇は「どういうことでしょう?」と注意深く聞き返した。
いつも客の相手をした後、木佐は疲れ果てている。
時には指1本動かすのも、しんどそうな時もある。
男が男に抱かれるということは、身体にかなりの負担を強いるのだ。
皇は娼館で働くようになって、ずっと木佐を見つけることによって、思い知った。
だが今日の木佐は、思いのほかしっかりだった。
数刻ほど客の相手をしてきたのに、疲れた素振りもない。
ただ難しい表情で黙り込み、何かを考え込んでいる。
皇は辛抱強く、木佐が口を開くのを待っていたのだ。
「店を移るって、当てはあるんですか?」
「ああ。今日来た客に勧められたんだ。今より高い給金を払うっていうし、休みも少ない。」
「それで?移るって返事したんですか!?」
「いや、まだ」
「俺は反対です!」
皇は色を成して反対した。
この娼館は、男娼の身体の負担を考慮して、こまめに休みを取らせる。
それに1回の客の滞在時間も、制限している。
それでもいつも客の相手をした後の翔太は、痛ましいほど疲れ切っているのだ。
「それで木佐さんが身体を壊すようなことになったら、どうするんです!」
「だけど早く借金を返せるし、お前も絵師の修行に専念できるだろう?」
皇の声につられて、木佐の声も荒くなった。
かわいい顔のくせに気が強い木佐は、意外と簡単に怒る。
これもこの娼館で暮らすようになって、初めて知ったことだ。
小さな口喧嘩は何回かあったが、いつも皇が折れた。
宥めることで、何とかやり過ごしてきたのだ。
だが今回は皇も1歩も引くつもりはない。
他店から男娼を引き抜くなど、碌な店ではないに決まっている。
それこそ擦り切れるまで働かされて、身体を壊すことになることは目に見えている。
「絶対に許しませんからね。」
皇は木佐に強い口調で、念を押した。
木佐は不満そうな表情のまま、口を噤んでしまう。
そのまま2人の間には、重い沈黙が流れた。
そしてこのことが2人の関係に影を落とすことになった。
*****
まったく嫌な雨だ。
桐嶋は心の中で悪態をつきながら、家路を急いでいた。
奉行所を出てしばらくしたところで、雨が降り始めた。
もう少し強い雨なら、傘を取りに戻っていただろう。
だが霧のように細かい雨だったので、このまま早足で帰ればいいと思った。
その結果、家に帰り着いたころには、全身がしっとりと濡れていた。
「帰ったぞ」
玄関で、奥に向かって声を張り上げる。
父と娘、2人暮らしには広すぎる屋敷だ。
だが昼間は近くで暮らす桐嶋の両親が頻繁に顔を出して、家のことをしてくれる。
おかげで他人を入れたりせずに、暮らしていくことができるのだ。
「日和!雨で濡れたんだ。手拭いを持ってきてくれ!」
いつもだったら声をかけると出迎えに出てくる娘が出てこない。
桐嶋は不審に思いながらも、もう1度声を張り上げた。
「おかえりなさい。」
ずいぶん待たされた後、ようやく手拭いを手にして現れた日和は元気がなかった。
何よりも目が少し腫れており、涙の後を残している。
「どうした。何があった?」
「由紀ちゃんが、もう私とは遊ばないって。」
由紀とは近所に住む小間物問屋の娘だ。
齢が同じこともあって話題も合うようで、一緒によく出掛けている。
「御用の合間に娼館に出入りする同心の娘は友達にしてはいけないって言われたって。」
「何だと?」
「ねぇ横澤のお兄ちゃんは、人に責められる場所で働いてるの?」
日和に必死の形相で問われた桐嶋は、言葉を失った。
横澤本人は真面目に、身体を張って娼婦や男娼たちのことを守っている。
だが娼館という職場は、あまり大きな声で言えるものではない。
そこに働くだけで、如何わしいと思う者だっている。
そして桐嶋は、横澤に拒否されてからは足が遠のいていたが、それまでは毎日出向いていた。
桐嶋だけでなく日和まで差別的な目で見られることは、予想して然るべきだ。
お前はこれを予想してたんだな。
桐嶋はきっぱりと別れを告げた横澤の言葉を思い出す。
桐嶋と日和を理不尽な醜聞に巻き込まないために、横澤は桐嶋から離れたのだ。
「横澤は何も悪くない。働いてる場所で人を差別するのはいけないことだ。」
「じゃあ由紀ちゃんと、由紀ちゃんのお父様とお母様が悪いの?」
ようやく答えを絞り出したのに、またしても日和に問われ、答えに詰まってしまう。
この世には色を売る職業があり、買う者が少なからず存在しているのに。
どうしてそれを自分たちよりも卑しいと決めつけ、嫌悪するのだろう。
涙雨か。
桐嶋は日和から受け取った手拭いで身体を拭きながら、ため息をついた。
雨足は少し強くなったようだ。
*****
「お前は、他の店に移らないかと誘われなかったのか?」
そう問うた途端、千秋の目が落ち着きなく泳ぎ始めた。
羽鳥は「やはり」と肩を落とし、千秋を睨んだ。
最近店の娼婦や男娼たちが、声をかけられている。
相手は商売敵の娼館の手の者だ。
彼らは客を装って娼婦たちに近寄り、店を移らないかと持ち掛ける。
残った借金を身請けという形で引き受け、新しい店ではもっといい金になると誘うのだ。
羽鳥はまずそれを雪名から聞かされた。
木佐が店を移ろうかと迷っているのを知って、困っていると言う。
次に聞いたのは、美濃からだ。
娼婦たちが立て続けに「身請け」されており、不審に思い、調べた結果だった。
羽鳥や嵯峨、雪名など、女相手に商売する者たちは聞かされていない。
つまり娼婦たちを持ち去ろうとする娼館には、そういう男娼は置かないのだろう。
では千秋はどうなのか。
声をかけられていないはずはないのに、どうして何も言わないのだろう。
不審に思った羽鳥は、千秋を問い詰めたのだった。
「迷ったんです。やはりお金がいっぱい貰えるのは嬉しいですから。」
「なぜ俺に言わなかった?」
「最近故郷の両親が、仕送りをしてくれないかと言ってくるし。」
「だから。なぜ俺に言わなかったかと聞いている。」
羽鳥は極力怒りを抑えて、問いかけた。
千秋は視線を足元に落としたまま、羽鳥と目を合わせようとしない。
「ご心配をおかけしたくなかったのです。」
「それで、ことわったのか?」
「はい。柳瀬様が、そんな風に他の店の者を引っ張る店は信用しない方がいいと。」
「あの方には、話したのだな。」
「柳瀬様を怒らないで下さい。心配してくださったのです。」
「お客様を怒るような真似はしない。」
他店に移る話は、羽鳥だって同じ理由で反対だ。
だが問題は千秋が羽鳥ではなく柳瀬に話したことだった。
しかも羽鳥には、話があったことさえ言わない。
一緒に堕ちる覚悟を決めたのに、当の千秋がこれではあんまりではないか。
「お前は俺を一番、信頼してくれていると思っていた。」
羽鳥は悲しげな言葉を残すと、千秋に背を向けた。
これ以上千秋の顔を見ていると、怒鳴りつけてしまいそうだったからだ。
*****
「まったくよくねぇ雲行きだな。」
娼館の主である男は、縁側で空を見上げながら、苦笑する。
傍らの男は「まったくです」と控えめに相槌を打った。
井坂龍一郎。
それがこの娼館の主の名前だった。
旗本である井坂家の血は引いているが、その出自は娼館だ。
先代が街の娼婦との間に作った子供だった。
井坂家に引き取られたのは、先代の正妻が生んだ嫡子が病死したからだ。
後継ぎがいなくなり、娼館から呼び寄せられて井坂家の跡取りとなった。
その後すぐに、先代も亡くなり、井坂が後を継ぐことになった。
だが下賤の娼婦が産んだ子供が当主になることに、露骨な嫌悪を示す者も多かった。
もっと先代が長生きして、しっかりと後継者として教育していたら違っていたかもしれない。
だったら、と井坂は屋敷をそのまま娼館にしてしまったのだ。
屋敷に手を入れて、娼婦たちを買入れ、全てを整えるのに、先代の遺産を使った。
武士の家のしきたりなどわからないが、娼館のことなら知っている。
吉原のようにお高く留まって、高い金をふんだくるようなことはしない。
躾の行き届いた娼婦たちを置き、良心的な値段で遊べる店を作るのだ。
井坂の試みは成功した。
こうして自分を捨てて、また都合のいい時に拾った先代-父への復讐を果たしたのだ。
家臣たちは井坂が暇を出す前に、ほぼ全員が去った。
唯一残ったのが、いつも傍らにいるこの朝比奈だった。
「最近、うちの娼婦を誑かす奴がいるようだな。」
「ええ。うちは繁盛しておりますので、妬みでしょうね。」
朝比奈は自分からは何も言わないが、井坂が何か言えば静かに答える。
そしてその言葉はいつも的を得ていた。
「そっちは任せる。目に余るようなら、ちょいと脅してやれ。」
「かしこまりました。」
「他に何かあるかい?」
「娼婦を引き抜く件とは別に、律を身請けしたいという方がいらっしゃいます。」
「律?ああ、神社の狐か。身請けったってあいつは借金などないだろう。相手は誰だ?」
「小野寺屋さんです。」
「まったくどいつもこいつもきな臭いな。」
井坂はウンザリした表情のまま、また空を見上げる。
借金のために苦しむ娼婦たちの怨念のような涙雨だ。
【続く】
1/5ページ