和5題-2

【物の怪】(もののけ)人にとりついてたたりをする死霊・生き霊・妖怪など。

*****
「本当にいいのだな?」
柳瀬は強い口調で念を押す。
目の前の男は「はい」と静かに頷いた。

柳瀬は今日も娼館に出向き、千春を呼んだ。
だが現れたのは、違う男娼だった。
羽鳥という、千春の口からよく名前が出る人物。
千春を男娼として仕込み、千春は絶対の信頼を寄せている。
柳瀬としては、あまり会いたくなかった男だった。

「千春をちゃんと抱かないのであれば、もうお呼びにならないで下さい。」
羽鳥は真っ直ぐに柳瀬の目を見ながら、きっぱりとそう言った。
客に対する態度としては、無礼と言えるだろう。
だがそれは羽鳥の決意の表れだった。

「今までお使いになられたお代は、お返しいたします。」
「返す?千春の借金になるのか?」
「いえ。私がお払いいたします。」
「お前が?」

羽鳥は本当は千春を誰にも触れさせたくないはずだ。
それでも柳瀬に千春を抱けと言う。
だがそれは千春と話し合った上で、納得した結論なのだろう。
2人とも覚悟の上のことなのだ。

「本当にいいのだな?」
「はい。」
「では千春を呼んでくれ。」
「かしこまりました。」

羽鳥は丁寧に一礼すると、部屋を出て行く。
程なくして、千春が現れた。
その表情は固く、動作もどこかぎこちない。
これから行われるであろうことを思い、緊張しているのだろう。

後で柳瀬は裏方の男に、千春が店の中で立場が悪くなっているのだと聞いた。
今まで柳瀬が支払った金を返済するために、羽鳥が男娼に戻ったことも。
羽鳥と千春は汚れて堕ちながら、共に生きることを選択したのだ。

その夜、ついに柳瀬は千春を抱いた。
初々しくも愛らしい千春の身体は、柳瀬の期待以上だった。
だが感じたのは、強烈な敗北感だ。
羽鳥と千春の絆には、絶対に入り込めない。
それを痛いほど思い知った夜だった。

*****

「上手いもんだな。まるで生きているみたいだ。」
翔太は皇の描いた絵を眺めながら、褒めた。
お世辞などではなく、心の底からの賛辞だった。

皇は娼館で働くことになり、住居もここに移した。
娼館での源氏名は「雪名」。
翔太とは違い、女の客を取る男娼だ。
店に出ると、たちまち売れっ子になった。
羽鳥も男娼に戻ったこともあり、店には最近、女の客が増えている。

「やっぱり女の身体はいいのかい?」
「頭の中で、木佐さんだと思って抱いてるんですよ。そうするとお客様も喜んで下さって」
「そういうものか?」

翔太は何気ない振りを装いながら、頬を赤らめていた。
実は翔太も同じだった。
客に抱かれるときは、皇に抱かれているのだと想像している。
そうすると妙に身体は興奮してしまい、客が喜ぶのだ。
皇も同じように思ってくれているなら、嬉しいことだ。

それでも翔太の中にある負い目は消えない。
翔太のためだけに、家も親兄弟も捨てて男娼になってしまった皇。
自分にそれだけの価値があるとは思えない。
狂わせてしまった皇の人生に報いるために、自分に何ができるだろう。

「それにしても上手いもんだな。」
客がいない時間には、皇はもっぱら絵を描いて過ごしている。
男娼になる前は、翔太ばかりを描いていた。
だが最近はそれ以外のものも描くようになった。
他の娼婦や男娼の顔とか、裏庭から見える風景だとか。
早く絵師になるために、とにかく腕を磨く。
そのためには好きなものばかり描いていては駄目だと思ったそうだ。

「律の絵がないんだな。」
今まで皇が書き溜めた絵を1枚ずつ見ていた翔太は、気づいた。
娼婦や男娼、裏方の美濃や用心棒の横澤の絵まである。
それなのに、律の絵だけなかった。
律は一度見たら忘れられないほど、美しい容貌をしている。
絵に描くとしたら、絶好の題材だと思うのに。

「あの人は今の俺には描けません。あの雰囲気は出せない。」
「雰囲気?」
「何ていうか、怖いです。物の怪みたいな。」
「物の怪、ねぇ。。。」

確かに曰く付きの人生を送る者が多い娼館で、律の生い立ちはすごぶる変わっている。
そのせいか普通の男娼とはどこか違う雰囲気を持っているのは間違いない。
被写体の内面まで写し取ろうとする皇には、それが怖く見えるらしい。

「まぁ描けなくても、仲良くしてやってくれよ。いい子なんだ。」
「ええ。それはもちろん。」

皇は笑顔で答えながら、今もスラスラと筆を動かしている。
翔太はその横顔を見ながら、ひと時の幸せを味わっていた。

*****

「で、下手人はまだわからねぇのか?」
横澤は不機嫌を隠そうともせずに、文句を言った。
桐嶋はいつになく神妙に「すまん」と頭を垂れた。

娼館の裏口で日和と律が襲われた事件は、進展していなかった。
下手人の手掛かりがまったくないのだ。
このままうやむやになってしまうことだけは許せない。
それはまた同じような事件が起きるかもしれないのだ。

まだ子供の日和や、娼館の中にしか顔見知りがいない律が恨まれているなどありえない。
どうしても桐嶋に対する遺恨で日和が狙われ、律が巻き沿いになったと考えるしかない。
だが桐嶋は同心としては凄腕で、今までに捕えた罪人の数は多い。
それはつまり、多くの人間に恨まれているのだ。
疑わしい人間を絞り込むなど、とてもできない。

横澤は知らないことだが、奉行所内では本気で探索をしない向きがあった。
表向きは日々巻き起こる事件優先、身内の揉め事には時間をさけない。
だが実は桐嶋の仕事ぶりを妬む同僚の同心たちの、狡い心理が働いている。

「あんた、もうここへは来るな。」
「何を言ってる。下手人は必ず捕える。だから。。。」
「あんたのせいで、起こった事件だろう。」

横澤は心ならずも、冷たい言葉を口にした。
そもそも日和が襲われたのは、この場所にも原因がある。
娼館という場所柄、そもそも人気が少ない場所にある。
こんな場所に横澤を訪ねて来なければ、襲われる可能性も少なかっただろう。

「あんたと俺とは、元々釣り合うはずもない人間だ。」
「釣り合うだと?そんなことは」
「そのせいで、何の関係もない律が怪我をした。」

横澤がさらに桐嶋の痛いところを抉った。
とにかく嫌われても、憎まれても、桐嶋をここへ来させないようにする。
これ以上、日和も律も、他の誰も傷つけるようなことはしたくなかった。

「今回の下手人が捕まっても、まだまだあんたを恨んでる人間はいる。」
「横澤、俺は」
「困るんだ。俺はここの用心棒だぞ。もう揉め事は御免だ。」

桐嶋に喋る隙を与えず、横澤は無慈悲な言葉を投げつける。
今まで桐嶋がふざけ半分に「惚れた」とか「嫁に来い」などと言われ続けた。
きっぱりと拒絶しなかったのは、それが思いのほか嬉しかったせいだ。
その心地よさに酔いながら、中途半端な関係を続けた。
その結果がこれなのだ。

「頼むからもう二度と来ないでくれ。俺はあんたとは生きられない。」
横澤はとどめの台詞を放った。
そしてさっさと背を向けると、奥に引っ込んでしまう。
そうしなければ弁が立つ桐嶋に何か言われれば、言い負かされてしまう。

明るい日向で生きる桐嶋父娘と娼館の用心棒の自分は、最初から出逢ってはいけなかった。
だからこうして災いが起きたのだ。
それでも桐嶋が日和と共に、幸せに暮らせるように祈らずにはいられない。
嵯峨に向いていたはずの恋心は、いつの間にか桐嶋に向かっていたのだ。

*****

「あの子は、茶問屋の小野寺屋の縁続きの子ではないか?」
思いがけない問いかけに、政宗は思わず言葉に詰まった。

政宗は娼館近くで開業する医師を訪ねていた。
先日怪我をしてしまった律の薬を貰いにくるためだ。
初老の医師の腕は確かで、少々の怪我や病は治せる。
だが看板を掲げておらず、近隣の者でさえ診療をしていることを知らない。
訳ありの患者ばかりを診ており、高い診療代で生計を立てている。
娼館で怪我人や病人が出た時には、いつもここの世話になっていた。

「これを朝昼、塗ってやりなさい。」
老医師はそう言いながら、丸い軟膏の容器を渡してくれる。
政宗は黙ってそれを受け取った。
代金はまとめて月末に娼館に請求されるから、今支払う必要はない。
さっさと帰ろうとする政宗の背中に、老医師が声をかけたのだ。

「あの子は、茶問屋の小野寺屋の縁続きの子ではないか?」
老医師の言葉に、政宗は振り返った。
そう言えばこの男は、診察に来た時に律の顔をじろじろと無遠慮に見ていた。
敵か味方かわからない相手に、どう答えたらいいのだろう。

「なぜそう思う?」
「小野寺屋の先代にそっくりだからな。」
「偶然じゃねぇの?」
「その上、律って名前。前の内儀の名前だ。」

政宗は思わず舌打ちをしていた。
迂闊だったかもしれない。
狐と呼ばれていた少年に、実の母親とのつながりを残してやりたくてつけた名前。
それが少年の素性を暴く結果になっている。

「儂は別に、あの子をどうこうしようと思ってないからな。」
政宗がよほど警戒するような表情になっていたのだろう。
老医師は苦笑しながら、そう告げた。
だがこんな金次第で動く男は信用できない。
事情が変われば、物の怪のように容赦なく人を化かして、利用するだろう。
政宗は固い表情のまま、老医師の診療所を後にした。

この先、律の素性に気付く者は現れるだろうか。
そのことで律が窮地に陥ることになっても、絶対に守らなくてはならない。
政宗は決意を込めた足取りで、律の待つ娼館に向かっていた。

*****

何かが変だ。
律は縁側から裏庭を眺めながら、じっと考え込んでいる。

暴漢に襲撃される事件から、数日経った。
当初は壁に打ち付けた後頭部と背中がズキズキと痛んでいたが、かなりよくなった。
頭はもう痛みを感じないし、背中も背筋を伸ばしたりすると微かに痛むだけだ。
それでもまだ背中には痣が残っている。
それが完全に消えてから、店に上がることになっていた。

店の者たちが、みな律を労わってくれる。
だれもがあの暴漢は、同心の娘である少女を狙ったものと思っている。
だが律は本当にそうだろうかと疑っていた。

あの暴漢は全身に殺意を漲らせて、律に斬りかかってきた。
つまり明確に、律を殺すつもりだったのだ。
どう考えてもあの少女ではなく、自分を狙っていたような気がしてならない。

だが律はそれを誰にも言わなかった。
ただでさえ怪我をしたことで、みんなに迷惑をかけているのだ。
その上に自分が狙われたのだと言い出せば、余計に気を使わせてしまうだろう。

以前、律が住み付いていた神社に、死体が上がったという事件があった。
その時同心の桐嶋に、心当たりはないかと聞かれた。
心当たりなどまったくないから、正直にそう答えた。
だがその時も、その事件はきっと自分と無関係ではないと思った。
なにか不吉な予感のようなものを感じたのだ。

じわじわと自分に迫る悪意と殺意。
それは物の怪のように、律を取り込もうとしている。
多分遠からず、この穏やかな日々は終わってしまうのだろう。

あの時、どうして咄嗟にあの刃を避けたのだろう。
律は風にそよぐ木々を眺めながら、ぼんやりとそう思う。
元々生きているのか死んでいるのか、わからないような日々を送っていた。
いつ死んでもかまわなかったはずだ。

だが襲われた時、咄嗟に頭に浮かんだのは、嵯峨の顔だった。
このまま死にたくない、もう一度あの人と一緒に。
そう思った瞬間、あの刃を受け止めていた。

もう少しだけ、生きていたい。
律はそれだけを願いながら、ぼんやりと午後を過ごしていた。

【終】お題「和5題-3」に続きます。
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