和5題-2
【初恋】(はつこい) 生まれて初めての恋。
*****
「木佐さん!」
男は挨拶もなしに、いきなり襖を開けて、部屋に飛び込んできた。
あまりの勢いに驚いた翔太は、座布団から転がり落ちてしまった。
「何なんだ!おい!」
翔太からは普段纏っている売れっ子「木佐」の威厳は消え失せていた。
今の状態はまったく素の状態の翔太だ。
一瞬しまったと思ったが、すぐにどうでもいいと思い直した。
何しろ座布団から転がり落ちるという失態を犯しているのだ。
今更格好つけたところで、わざとらしいだけだ。
「無事なんですね!」
久しぶりに顔を見せた男は切羽詰まっていた。
翔太が無様に畳に転がっていても、それを変に思う余裕もないほどだ。
それならばその隙に。
優雅な所作で座布団に座り直した翔太は、こほんと咳払いをした。
「早耳だね。でもそれは私のことじゃない。」
翔太は「木佐」の顔に戻って、尊大な態度でそう告げた。
男娼の律が怪我をしたのは、本当につい先程のことだ。
細かいことはよくわからないが、狼藉者に襲われた少女をかばってのことらしい。
律のことは気に入っているし、心配ではあった。
だが嵯峨が恐ろしい顔で律の隣を陣取っているので、とても何があったか聞ける様子ではない。
そこでこうして部屋で様子が落ち着くのを待っている次第だ。
「心配しました。本当に。」
皇は翔太の前に腰を下ろすと、心から安堵している様子だ。
二度と来るなと追い出してから、ずっと顔を見せなかった。
所詮それまでと諦めていた翔太にとって、それは嬉しいことだった。
だが懸命にその気持ちを抑え、表情に出さなかった。
情を見せてしまうことは、皇のためにならない。
だが次の瞬間、皇は翔太を驚愕させることを告げた。
「俺、男娼になることにしました。」
「はぁぁ?何で?」
再び「木佐」の威厳を忘れて、声を荒げてしまう。
皇はそんな反応を予想していたらしく、驚きもせず、微笑さえ浮かべていた。
*****
「俺、男娼になることにしました。」
皇はかねてからずっと考えていたことを、木佐に告げた。
木佐は「はぁぁ?何で?」と売れっ子らしからぬ声を上げている。
だが皇の決意は、揺らぐことはなかった。
「絵師になるための修行は続けます。その上で大金を得るにはどうしたらいいかと思って」
「何のために」
「木佐さんは俺に絵師になって欲しい。俺は木佐さんを身請けしたい。両方叶えるためです。」
「俺のことなんか、どうでもいいだろ!」
「よくありません!!」
言い返された木佐は、いつもの落ち着いた威厳はどこへやら。
呆然と皇の顔を見ている。
そして皇は一歩も引くつもりはなかった。
絵師になるのを諦めると言ったら、木佐に「もう2度とここへは来るな」と怒鳴られた。
それなら絵師を目指しながら、木佐も手に入れるのだ。
両親と兄には反対された。
どうしても男娼になるなら、勘当するとも言われた。
皇はこの時、自分が次男であることにつくづく感謝した。
家のことも両親のことも、頼りになる兄がいる。
だから迷うことなく、木佐との恋に生きることができるのだ。
「俺も一緒に汚れます。そうしないと木佐さんは、俺を受け入れてくれないでしょう?」
皇だって、木佐が本心から自分を拒絶したわけではないことはわかっている。
木佐は皇に道を踏み外させないようにしてくれたのだ。
今まで商売でたくさんの男に抱かれてきたって、実は優しい。
身体は売っても、心の底は美しく、誰にも汚すことはできない。
そんな木佐が好きなのだ。
例え親兄弟を捨てても、絶対に譲らない。
「初めての恋なんです。どうかそばにいることを許してください。」
「お前、馬鹿だよ。」
木佐が諦めたようにため息をつく。
皇は木佐を抱きしめたい衝動を懸命に堪えていた。
木佐は売り物であり、自分ももう売り物になったのだ。
自由の身になるまで、勝手に抱くことは許されない。
*****
「すまないな。娘のせいで。」
「いや」
桐嶋の言葉に、嵯峨が冷静に答えている。
横澤はその横顔を見ながら、現金なものだと呆れていた。
日和の悲鳴に驚き、駆け付けた横澤と桐嶋は、とんでもないものを見た。
背中に日和をかばいながら、暴漢と対峙する律だ。
暴漢が刀を抜いた瞬間、もう駄目だと思った。
だが律は咄嗟に両手を伸ばして、斬りかかる男の手首を受け止めたのだ。
もちろん力の差は歴然であり、それで形勢が逆転したわけではない。
だがほんの数秒、時間稼ぎはできた。
それで充分だった。
「何をしている!」
桐嶋が声を張り上げると、暴漢は明らかに狼狽していた。
一見して同心とわかる桐嶋に、まずいと思ったのだろう。
暴漢は逃げに転じ、自分の手首を掴んでいる律を、思い切り突き飛ばした。
塀に背中と頭を打ち付けた律は、そのまま気を失ってしまったのだ。
「何やってんだ!お前、用心棒だろう!」
意識のない律を抱き上げて娼館に運び入れたとき、嵯峨は烈火のごとく怒った。
横澤は返す言葉もなかった。
暴漢にはまんまと逃げられ、男娼に怪我をさせたのだ。
律は嵯峨の居室で布団に寝かされ、直ちに医師が呼ばれた。
だが頭の方は特に怪我もないし、目を覚ませば大丈夫だろうという見立てだった。
重症なのはむしろ背中の方だ。
痣になった上に、何か所か擦り剥けて血が滲んでいる。
時が経てば消えるが、痛みが消えるには、少々時間がかかるだろうとのことだった。
これを聞いた嵯峨は、途端に怒りを収めた。
桐嶋や横澤が謝罪しても、冷静な態度だ。
本当は、笑い出したいくらいなのだろう。
律が店に上がるのはもうすぐで、そろそろ日取りも決まろうとしていたのだ。
だがこれでは怪我がが治るまでは延期になるだろう。
何しろ嵯峨は今になって、律を客に出すことを惜しいと思っているようだから。
先延ばしにできたことが嬉しいのだ。
「大した怪我ではありません。」
目を覚ました律は、何事もなかったようにそう言った。
だが嵯峨はピッタリと隣に寄り添って、見舞いに現れた千秋や木佐を遠ざけてしまった。
これには横澤も呆れるしかない。
それより心配なのは、未だに泣き止まない日和だ。
売り飛ばされそうになったり、斬りかかられたり、危険な目にばかり合っている。
そもそも今日だって、横澤に会いに来たために襲われることになったのだ。
だが娼館の用心棒である横澤には、できることは何もない。
そのことが横澤の気を重くしていた。
*****
「怪我をした男娼がいるって聞いたけど。千春のこと?」
女は冷たい言葉を投げつけた。
羽鳥が何も言い返せなかったのは、女が客であるからだ。
女の名は絵梨佳。
旗本、一之瀬家の嫁で、この娼館の得意客だ。
倫理的にはかなり問題があるが、ここでそんな無粋なことを言う者はいない。
金回りのいい客は、とにかく歓迎されるだけだ。
絵梨佳は元々、羽鳥の客だった。
それこそ連日通い詰めて、羽鳥を呼んだ。
だが羽鳥が借金を払い終えて裏方になると、一気に足が遠のいた。
それでも性的な欲求なのか、月に1、2度現れる。
呼ぶのは嵯峨だった。
羽鳥が売られてきた少年の面倒を見ているという話は、絵梨佳の耳にも入っていた。
嵯峨は何も言わないが、娼婦たちは小銭を握らせてやれば、なんでも話す。
羽鳥がその少年、千春に入れ上げていることはすぐに知れた。
その上千春は、柳瀬という客に気に入られていることもわかった。
娼婦たちの千春への印象は、すこぶる悪い。
裏方をしていた羽鳥は心遣いが細かく、娼婦たちに人気があるのだ。
その羽鳥を独り占めし、しかも柳瀬のような上客がついた。
しかもあろうことか、柳瀬はまだ千春を抱いていないという噂まであるのだ。
借金のために嫌々客に身体を許した女たちにとっては、憎しみの対象にしかならない。
「怪我をした男娼がいるって聞いたけど。千春のこと?」
昼間、約束もなくいきなり娼館を訪れた絵梨佳は、羽鳥を呼び出して唐突にそう聞いた。
羽鳥は突然のことに驚きながらも、丁寧に応対する。
「これは絵梨佳様。怪我をしたのは律です。千春ではありません。」
「あら、そう。随分嫌われているみたいだから、あの子かと思った。」
さらに挑発するようにそう続けても、羽鳥は表情を変えなかった。
羽鳥と千春を引き離したい絵梨佳にとっては、面白くない反応だ。
「男娼に戻るなら、また指名するわよ。」
「よろしくお願いいたします。」
悔しまぎれの捨てセリフに、意外な答えが返ってきた。
ここ最近は誘っても「もう男娼は辞めましたので」と素っ気ない返事だったのだ。
また男娼に戻る気なのか。
絵梨佳は怪訝な面持ちで、羽鳥の表情をじっとうかがっていた。
*****
「随分嫌われているみたいだから、あの子かと思った。」
絵梨佳の言葉に、羽鳥の心は揺れた。
だがそれを迂闊に客に見せるような真似はしなかった。
律が怪我をしたときには、千秋でなくてよかったと思った。
だが大したことはないと聞いた時には、千秋であって欲しかったと思う。
律が店に上がる日は、延期されることになった。
だが千秋は相変わらず、店に出なければならないからだ。
「もう柳瀬様のお誘いはお断りした方がいいですよね?」
千秋は何度もそう言った。
あまつさえ今まで柳瀬が支払ってくれた金を返したいとも言った。
だがそれを全て羽鳥が止めさせたのだ。
金を払って抱かないことを選んだのは、客である柳瀬だ。
それならば言う通りにすればいいと。
だがそのせいで、千秋は他の娼婦たちから目の敵にされつつある。
おそらく千秋の態度から、ばれているのだろう。
柳瀬が金だけ出して、実際は身体を重ねていないということが。
女の嫉妬は凄まじい。
挨拶をしても無視する者、露骨に冷たい視線を投げつける者。
そんな風にされて平気でいられるほど、千秋は強くない。
木佐や律が変わらずに親しくしてくれるのが救いだ。
「男娼に戻るなら、また指名するわよ。」
「よろしくお願いいたします。」
羽鳥は静かに頭を下げた。
絵梨佳が驚いたように、じっと羽鳥を見ている。
ずっと考えていたことだった。
柳瀬とのことは、このままでいいはずがない。
千秋にはちゃんと客を取らせなくては、いつまでたっても中途半端なままだ。
そして羽鳥自身も、このままではいけない。
絵梨佳の言葉に、羽鳥はついに決意を固めたのだった。
「本当に戻るの?」
「はい」
絵梨佳の問いに、羽鳥は力強く頷いた。
初めての恋を貫くために、もう1度身を汚す決意はできている。
【続く】
*****
「木佐さん!」
男は挨拶もなしに、いきなり襖を開けて、部屋に飛び込んできた。
あまりの勢いに驚いた翔太は、座布団から転がり落ちてしまった。
「何なんだ!おい!」
翔太からは普段纏っている売れっ子「木佐」の威厳は消え失せていた。
今の状態はまったく素の状態の翔太だ。
一瞬しまったと思ったが、すぐにどうでもいいと思い直した。
何しろ座布団から転がり落ちるという失態を犯しているのだ。
今更格好つけたところで、わざとらしいだけだ。
「無事なんですね!」
久しぶりに顔を見せた男は切羽詰まっていた。
翔太が無様に畳に転がっていても、それを変に思う余裕もないほどだ。
それならばその隙に。
優雅な所作で座布団に座り直した翔太は、こほんと咳払いをした。
「早耳だね。でもそれは私のことじゃない。」
翔太は「木佐」の顔に戻って、尊大な態度でそう告げた。
男娼の律が怪我をしたのは、本当につい先程のことだ。
細かいことはよくわからないが、狼藉者に襲われた少女をかばってのことらしい。
律のことは気に入っているし、心配ではあった。
だが嵯峨が恐ろしい顔で律の隣を陣取っているので、とても何があったか聞ける様子ではない。
そこでこうして部屋で様子が落ち着くのを待っている次第だ。
「心配しました。本当に。」
皇は翔太の前に腰を下ろすと、心から安堵している様子だ。
二度と来るなと追い出してから、ずっと顔を見せなかった。
所詮それまでと諦めていた翔太にとって、それは嬉しいことだった。
だが懸命にその気持ちを抑え、表情に出さなかった。
情を見せてしまうことは、皇のためにならない。
だが次の瞬間、皇は翔太を驚愕させることを告げた。
「俺、男娼になることにしました。」
「はぁぁ?何で?」
再び「木佐」の威厳を忘れて、声を荒げてしまう。
皇はそんな反応を予想していたらしく、驚きもせず、微笑さえ浮かべていた。
*****
「俺、男娼になることにしました。」
皇はかねてからずっと考えていたことを、木佐に告げた。
木佐は「はぁぁ?何で?」と売れっ子らしからぬ声を上げている。
だが皇の決意は、揺らぐことはなかった。
「絵師になるための修行は続けます。その上で大金を得るにはどうしたらいいかと思って」
「何のために」
「木佐さんは俺に絵師になって欲しい。俺は木佐さんを身請けしたい。両方叶えるためです。」
「俺のことなんか、どうでもいいだろ!」
「よくありません!!」
言い返された木佐は、いつもの落ち着いた威厳はどこへやら。
呆然と皇の顔を見ている。
そして皇は一歩も引くつもりはなかった。
絵師になるのを諦めると言ったら、木佐に「もう2度とここへは来るな」と怒鳴られた。
それなら絵師を目指しながら、木佐も手に入れるのだ。
両親と兄には反対された。
どうしても男娼になるなら、勘当するとも言われた。
皇はこの時、自分が次男であることにつくづく感謝した。
家のことも両親のことも、頼りになる兄がいる。
だから迷うことなく、木佐との恋に生きることができるのだ。
「俺も一緒に汚れます。そうしないと木佐さんは、俺を受け入れてくれないでしょう?」
皇だって、木佐が本心から自分を拒絶したわけではないことはわかっている。
木佐は皇に道を踏み外させないようにしてくれたのだ。
今まで商売でたくさんの男に抱かれてきたって、実は優しい。
身体は売っても、心の底は美しく、誰にも汚すことはできない。
そんな木佐が好きなのだ。
例え親兄弟を捨てても、絶対に譲らない。
「初めての恋なんです。どうかそばにいることを許してください。」
「お前、馬鹿だよ。」
木佐が諦めたようにため息をつく。
皇は木佐を抱きしめたい衝動を懸命に堪えていた。
木佐は売り物であり、自分ももう売り物になったのだ。
自由の身になるまで、勝手に抱くことは許されない。
*****
「すまないな。娘のせいで。」
「いや」
桐嶋の言葉に、嵯峨が冷静に答えている。
横澤はその横顔を見ながら、現金なものだと呆れていた。
日和の悲鳴に驚き、駆け付けた横澤と桐嶋は、とんでもないものを見た。
背中に日和をかばいながら、暴漢と対峙する律だ。
暴漢が刀を抜いた瞬間、もう駄目だと思った。
だが律は咄嗟に両手を伸ばして、斬りかかる男の手首を受け止めたのだ。
もちろん力の差は歴然であり、それで形勢が逆転したわけではない。
だがほんの数秒、時間稼ぎはできた。
それで充分だった。
「何をしている!」
桐嶋が声を張り上げると、暴漢は明らかに狼狽していた。
一見して同心とわかる桐嶋に、まずいと思ったのだろう。
暴漢は逃げに転じ、自分の手首を掴んでいる律を、思い切り突き飛ばした。
塀に背中と頭を打ち付けた律は、そのまま気を失ってしまったのだ。
「何やってんだ!お前、用心棒だろう!」
意識のない律を抱き上げて娼館に運び入れたとき、嵯峨は烈火のごとく怒った。
横澤は返す言葉もなかった。
暴漢にはまんまと逃げられ、男娼に怪我をさせたのだ。
律は嵯峨の居室で布団に寝かされ、直ちに医師が呼ばれた。
だが頭の方は特に怪我もないし、目を覚ませば大丈夫だろうという見立てだった。
重症なのはむしろ背中の方だ。
痣になった上に、何か所か擦り剥けて血が滲んでいる。
時が経てば消えるが、痛みが消えるには、少々時間がかかるだろうとのことだった。
これを聞いた嵯峨は、途端に怒りを収めた。
桐嶋や横澤が謝罪しても、冷静な態度だ。
本当は、笑い出したいくらいなのだろう。
律が店に上がるのはもうすぐで、そろそろ日取りも決まろうとしていたのだ。
だがこれでは怪我がが治るまでは延期になるだろう。
何しろ嵯峨は今になって、律を客に出すことを惜しいと思っているようだから。
先延ばしにできたことが嬉しいのだ。
「大した怪我ではありません。」
目を覚ました律は、何事もなかったようにそう言った。
だが嵯峨はピッタリと隣に寄り添って、見舞いに現れた千秋や木佐を遠ざけてしまった。
これには横澤も呆れるしかない。
それより心配なのは、未だに泣き止まない日和だ。
売り飛ばされそうになったり、斬りかかられたり、危険な目にばかり合っている。
そもそも今日だって、横澤に会いに来たために襲われることになったのだ。
だが娼館の用心棒である横澤には、できることは何もない。
そのことが横澤の気を重くしていた。
*****
「怪我をした男娼がいるって聞いたけど。千春のこと?」
女は冷たい言葉を投げつけた。
羽鳥が何も言い返せなかったのは、女が客であるからだ。
女の名は絵梨佳。
旗本、一之瀬家の嫁で、この娼館の得意客だ。
倫理的にはかなり問題があるが、ここでそんな無粋なことを言う者はいない。
金回りのいい客は、とにかく歓迎されるだけだ。
絵梨佳は元々、羽鳥の客だった。
それこそ連日通い詰めて、羽鳥を呼んだ。
だが羽鳥が借金を払い終えて裏方になると、一気に足が遠のいた。
それでも性的な欲求なのか、月に1、2度現れる。
呼ぶのは嵯峨だった。
羽鳥が売られてきた少年の面倒を見ているという話は、絵梨佳の耳にも入っていた。
嵯峨は何も言わないが、娼婦たちは小銭を握らせてやれば、なんでも話す。
羽鳥がその少年、千春に入れ上げていることはすぐに知れた。
その上千春は、柳瀬という客に気に入られていることもわかった。
娼婦たちの千春への印象は、すこぶる悪い。
裏方をしていた羽鳥は心遣いが細かく、娼婦たちに人気があるのだ。
その羽鳥を独り占めし、しかも柳瀬のような上客がついた。
しかもあろうことか、柳瀬はまだ千春を抱いていないという噂まであるのだ。
借金のために嫌々客に身体を許した女たちにとっては、憎しみの対象にしかならない。
「怪我をした男娼がいるって聞いたけど。千春のこと?」
昼間、約束もなくいきなり娼館を訪れた絵梨佳は、羽鳥を呼び出して唐突にそう聞いた。
羽鳥は突然のことに驚きながらも、丁寧に応対する。
「これは絵梨佳様。怪我をしたのは律です。千春ではありません。」
「あら、そう。随分嫌われているみたいだから、あの子かと思った。」
さらに挑発するようにそう続けても、羽鳥は表情を変えなかった。
羽鳥と千春を引き離したい絵梨佳にとっては、面白くない反応だ。
「男娼に戻るなら、また指名するわよ。」
「よろしくお願いいたします。」
悔しまぎれの捨てセリフに、意外な答えが返ってきた。
ここ最近は誘っても「もう男娼は辞めましたので」と素っ気ない返事だったのだ。
また男娼に戻る気なのか。
絵梨佳は怪訝な面持ちで、羽鳥の表情をじっとうかがっていた。
*****
「随分嫌われているみたいだから、あの子かと思った。」
絵梨佳の言葉に、羽鳥の心は揺れた。
だがそれを迂闊に客に見せるような真似はしなかった。
律が怪我をしたときには、千秋でなくてよかったと思った。
だが大したことはないと聞いた時には、千秋であって欲しかったと思う。
律が店に上がる日は、延期されることになった。
だが千秋は相変わらず、店に出なければならないからだ。
「もう柳瀬様のお誘いはお断りした方がいいですよね?」
千秋は何度もそう言った。
あまつさえ今まで柳瀬が支払ってくれた金を返したいとも言った。
だがそれを全て羽鳥が止めさせたのだ。
金を払って抱かないことを選んだのは、客である柳瀬だ。
それならば言う通りにすればいいと。
だがそのせいで、千秋は他の娼婦たちから目の敵にされつつある。
おそらく千秋の態度から、ばれているのだろう。
柳瀬が金だけ出して、実際は身体を重ねていないということが。
女の嫉妬は凄まじい。
挨拶をしても無視する者、露骨に冷たい視線を投げつける者。
そんな風にされて平気でいられるほど、千秋は強くない。
木佐や律が変わらずに親しくしてくれるのが救いだ。
「男娼に戻るなら、また指名するわよ。」
「よろしくお願いいたします。」
羽鳥は静かに頭を下げた。
絵梨佳が驚いたように、じっと羽鳥を見ている。
ずっと考えていたことだった。
柳瀬とのことは、このままでいいはずがない。
千秋にはちゃんと客を取らせなくては、いつまでたっても中途半端なままだ。
そして羽鳥自身も、このままではいけない。
絵梨佳の言葉に、羽鳥はついに決意を固めたのだった。
「本当に戻るの?」
「はい」
絵梨佳の問いに、羽鳥は力強く頷いた。
初めての恋を貫くために、もう1度身を汚す決意はできている。
【続く】