和5題-2
【静寂】(しじま) 静まりかえって、物音一つしないこと。
*****
「余計なことをするな!」
翔太は冷たい声で言い放った。
室内は気まずい静寂に包まれた。
翔太が休みの日に、絵師志望の青年、皇が訪ねてくる習慣はもう何年も続いている。
それは翔太にとって、最初はいい息抜きだった。
皇は街中の噂や、流行っていることなどを面白おかしく話して聞かせてくれる。
それは娼館から出ない翔太にとって、数少ない楽しみだ。
だがそれは次第に変化していった。
翔太は皇を待ち焦がれるようになった。
絵に描かれることも、最初は面倒だったが今では楽しみだ。
皇の真剣な瞳にじっと見つめられ、綺麗な指先で姿を写し取られる。
そのことに息苦しいほど、胸はときめいた。
2人の転機は、常連の客に翔太が斬り付けられるという事件だった。
皇と翔太は互いに相手を、狂気の刃から守りあった。
そのことで自分の気持ちを自覚し、同時に相手の気持ちを悟った。
2人は間違いなく恋に堕ちていたのだ。
その後は、穏やかな時間が流れていた。
男娼であり、売り物の身である翔太には気持ちを伝える自由などない。
そして皇も、まるで何もなかったように、今までと同じに振る舞っている。
翔太はそれでいいのだと思いながら、寂しいとも思う。
1人で眠る夜は、涙で枕を濡らした。
客に抱かれているときには、無意識に皇に抱かれていると思おうとした。
そしていつか時が忘れさせてくれる筈だった。
「俺、絵師になるのは諦めて、働きます。これが最後の絵です。」
それは突然だった。
いつもの通りに絵を描き、帰ろうとした皇がそう告げたのだ。
翔太は驚き「どうして?」と問うた。
「金を貯めて、木佐さんを身請けしたいんです。」
皇は真っ直ぐに翔太を見つめて、そう告げた。
それはあまりにも愚直な恋の告白だった。
皇は自分の夢を捨てて、翔太を取ると言っているのだ。
「余計なことをするな!」
翔太は冷たい声で言い放った。
こんな場末の男娼のために、将来を無駄にさせてはならない。
皇の驚いた表情に、胸が痛む。
「迷惑だ。もう2度と、ここへは来るな!」
翔太は涙を堪えて、皇を睨みつけた。
皇に投げつけた言葉は、翔太自身の心も切り裂いていた。
*****
「お兄ちゃん!」
明るい声で呼びかけられたが、横澤は反応しなかった。
いままでそんな呼び名で、屈託なく呼ばれたことなどなどないからだ。
横澤はひどく落ち着かない気分で、歩いていた。
長年愛用している刀が、最近少々調子が悪かった。
そこでそれを馴染みの刀工のところに持ち込み、修理してもらうことになった。
自分で手入れは欠かさなかったが、やはりそれなりに傷んではいたらしい。
娼館の揉め事を一気に担ってきた横澤の刀は、なまじの武士より抜く機会が多かったのだから。
この際徹底的に点検してもらうことにして、刀を刀工に預けてきたのだ。
代わりの刀を借り受けたものの、やはり違和感が拭えない。
だが当面はこれで辛抱するしかない。
どうかその間、何も起きませんように。
そんな横澤らしからぬ弱気なことを考えていたとき、声をかけられたのだ。
「横澤のお兄ちゃんってば!」
さすがに自分の名前まで呼ばれれば、横澤も気が付く。
声の方向に振り向いた横澤は、こちらに向かって駆けてくる少女を見つけた。
その少女には見覚えがある。
最近、横澤にむやみに言い寄ってくる町方同心の娘、日和だ。
しばらく見ない間に、ずいぶん女らしくなったと思う。
以前危ないところを助けたことがあるが、それからずっと会っていなかったのだ。
桐嶋からは「娘が礼を言いたがっている」と再三誘われたが、頑として応じなかった。
さすがに桐嶋も娼館に娘を連れて来るような真似もしない。
「ひよちゃん、どなた?」
日和と一緒に歩いていた少女が追い付いてきて、日和にそう問いかける。
その瞬間、横澤はハッと我に返った。
自分は娼館という、あまり人には言えない場所で働いている。
そんな人間と親しげにしているところを、日和の友人に見られるのはまずい。
「人違いですよ。」
横澤は抑揚のない声で、素っ気なく突き放した。
日和が驚いた表情で固まっている。
微妙な静寂に、日和の友人の少女は困惑しているようだ。
「急ぎますので、これで。」
横澤は日和に背を向けると、足早に歩きだした。
どうか日和が傷ついていませんように。
それだけを願いながら、帰り道を急いだ。
*****
「申し訳ありません。」
千秋は畳に額を擦り付けるように、頭を下げた。
千秋が店に上がって、すでに10日程になる。
その間、柳瀬は毎日のように店に来て、千秋を買ってくれる。
だが決して、千秋と身体を重ねようとしない。
隣に座らせて、肩を抱き寄せるようなことはする。
だがそれは兄が弟をかまうような軽い仕草だ。
最初はそれがありがたかったが、次第に不安になった。
柳瀬はすでにかなりの金額を、娼館に払っている。
それなのに千秋はその金額分の奉仕をしていないと思う。
むしろ柳瀬の方が、千秋に奉仕しているくらいだ。
巧みな話術で千秋の身の上話を聞きだし、慰めてくれたりする。
「千春はまだ慣れていないからな。」
千秋が柳瀬にこのままでいいのかと問うと、柳瀬は笑顔でそう答えた。
初めての夜、千秋が泣き出してしまったせいなのだろう。
だが千秋の戸惑いは消えない。
とにかくこれ以上、柳瀬に散在させるのは申し訳ない。
今夜こそ抱いてもらおうと、覚悟を決めて臨んだ夜。
だけど先に動いたのは柳瀬の方だった。
「お前を身請けしたいと思うのだが。どう思う?」
「あなたのお妾さんに、なるのですか?」
「いや。私の屋敷で家のことをしてくれればいい。給金も払う。」
柳瀬の表情は真剣だった。
身請けした上に、屋敷で身体を売る以外の仕事を用意してくれる。
千秋にしてみれば夢のような話だ。
だが次の瞬間、頭をよぎったのは羽鳥の顔だった。
身請けされてここを出れば、もう羽鳥には逢えない。
「申し訳ありません。」
次の瞬間、千秋は畳に額を擦り付けるように頭を下げた。
どんなにいい話でも、羽鳥と離れたら生きていけない。
千秋はごく自然にそう思ったのだ。
*****
何だか最近、みんな元気がない。
少年は娼館の微妙な静寂を、敏感に感じ取っていた。
律は縁側に腰を下ろして、昼下がりの裏庭を眺めている。
ほとんどの時間を嵯峨と一緒に過ごす律が、唯一独りでいる時間。
それは嵯峨が客の相手をしているときだった。
今もまさにその時間で、律は誰もいない裏庭でぼんやりしていた。
嵯峨の客は女だ。
しかも武家や商家の奥方や後家など、金銭的に恵まれた女ばかり。
そういう客は、営業時間外の昼間に来ることが多い。
密やかな情事を楽しんだ後、夜は家に帰るのだろう。
律は1人で嵯峨を待ちながら、いつも娼館の者たちのことを考える。
だが何だか最近、みんな元気がない。
絵師志望の料亭の次男坊は最近、顔を見せなくなった。
木佐があまり笑わなくなったのは、そのせいだろう。
千春と名を改めて店に上がるようになった千秋と顔を合わせる機会も減った。
たまにすれ違っても目も合わせてくれないし、羽鳥も同じだ。
用心棒の横澤は、ここ数日機嫌が悪い。
持ち慣れた刀を刀工に預けているせいだというが、それだけではないような気がする。
律は経験から知っている。
そうして他の者たちのことを思っていれば、考えずにすむのだ。
嵯峨が他の女を抱いていると想像するだけで感じる胸の痛みを。
人との関わりをあまり経験していない律には、それが嫉妬なのだとはわからない。
だがあの胸の痛みは好きではなかった。
ふと静寂を破るようにコンコンと控えめな音が響いた。
裏木戸を叩く音、誰かが来訪した合図だ。
律は立ち上がり、辺りをキョロキョロと見回した。
来客の時には出ないで、裏方の誰かを呼ぶようにと言い渡されていたからだ。
「すみません。開けてください。」
ガンガンと大きくなった音とともに、声が聞こえる。
それは女の子、しかもまだ子供の声だ。
律は少々迷ったが、裏木戸に向かった。
少女の声はかなり切羽詰まったものに聞こえたからだ。
「何か、御用ですか?」
律は閂を外すと、扉を開いた。
そこに立っていたのは、律よりも年下の少女だ。
少女は律の茶色の髪と緑色の瞳に驚いているようだ。
不意に、路地の向こうから1人の男が走ってきた。
目つきの鋭い男は、一目散にこちらに向かっており、あと数歩のところで刀を抜いた。
間違いなく、狙っている!
そう思った瞬間、律は少女を背後にかばい、男と相対した。
少女の甲高い悲鳴が、人通りのほとんどない裏路地に響き渡った。
*****
「日和、来てないか?」
桐嶋は横澤に詰め寄った。
いつもは桐嶋を見るとウンザリした表情になる横澤が、不思議そうに首を振った。
日和が朝、家を出たきり戻らない。
心配した桐嶋家の下働きが、奉行所まで知らせに来たのだ。
桐嶋は直ちに、横澤が働く娼館へと足を運んだ。
日和がここに来る理由に、心当たりがあるからだ。
「なぜここに来てると思うんだ?」
横澤は困惑した様子で、そう聞き返してくる。
その反応に、桐嶋の怒りが沸騰した。
「お前、街で日和と会ったとき、人違いだと言ったそうだな?」
それでも桐嶋は懸命に怒りの感情を押さえながら、そう聞いた。
すると今度は横澤が、怒りで顔を紅潮させていた。
「当たり前だ。あの子の友達も一緒にいたんだ。娼館の用心棒と知り合いだなんてまずいだろう。」
「日和がそんなことを気にすると思うのか?」
「あの子は気にしなくても世間はそう見ない。あんた、同心のくせにそんなこともわからないのか?」
横澤は桐嶋の目を睨みつけながら、冷やかにそう告げた。
かつて見たこともない冷めた横澤の表情に、桐嶋は絶句した。
「お前の仕事は恥じることなどない立派な仕事だ。」
「恥じてなどいない。だが後ろ指を指す人間もいる。」
「気にする必要なんかないだろう?」
「ないさ。俺一人ならな。だがあんたやあんたの娘が関わってくれば、そうはいかない。」
つまり横澤は横澤なりに、桐嶋と日和のことを思っているということだ。
怒りにまかせて乗り込んできた桐嶋は、振り上げた拳のやり場に困る。
気分は思いのほか悪くないが、肝心な日和の行方がわからない。
2人が気まずく黙り込んでしまった途端、少女の甲高い悲鳴が響き渡った。
声の方向は裏口だ。
桐嶋と横澤は思わず顔を見合わせる。
次の瞬間、2人は裏に向かって走り出した。
2人が裏口に駆け付けたとき、見知らぬ男がまさに刀を振り下ろそうとしていた。
刃の先には日和が座り込んでおり、律が日和を護るようにその間に立ちふさがっていた。
【続く】
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「余計なことをするな!」
翔太は冷たい声で言い放った。
室内は気まずい静寂に包まれた。
翔太が休みの日に、絵師志望の青年、皇が訪ねてくる習慣はもう何年も続いている。
それは翔太にとって、最初はいい息抜きだった。
皇は街中の噂や、流行っていることなどを面白おかしく話して聞かせてくれる。
それは娼館から出ない翔太にとって、数少ない楽しみだ。
だがそれは次第に変化していった。
翔太は皇を待ち焦がれるようになった。
絵に描かれることも、最初は面倒だったが今では楽しみだ。
皇の真剣な瞳にじっと見つめられ、綺麗な指先で姿を写し取られる。
そのことに息苦しいほど、胸はときめいた。
2人の転機は、常連の客に翔太が斬り付けられるという事件だった。
皇と翔太は互いに相手を、狂気の刃から守りあった。
そのことで自分の気持ちを自覚し、同時に相手の気持ちを悟った。
2人は間違いなく恋に堕ちていたのだ。
その後は、穏やかな時間が流れていた。
男娼であり、売り物の身である翔太には気持ちを伝える自由などない。
そして皇も、まるで何もなかったように、今までと同じに振る舞っている。
翔太はそれでいいのだと思いながら、寂しいとも思う。
1人で眠る夜は、涙で枕を濡らした。
客に抱かれているときには、無意識に皇に抱かれていると思おうとした。
そしていつか時が忘れさせてくれる筈だった。
「俺、絵師になるのは諦めて、働きます。これが最後の絵です。」
それは突然だった。
いつもの通りに絵を描き、帰ろうとした皇がそう告げたのだ。
翔太は驚き「どうして?」と問うた。
「金を貯めて、木佐さんを身請けしたいんです。」
皇は真っ直ぐに翔太を見つめて、そう告げた。
それはあまりにも愚直な恋の告白だった。
皇は自分の夢を捨てて、翔太を取ると言っているのだ。
「余計なことをするな!」
翔太は冷たい声で言い放った。
こんな場末の男娼のために、将来を無駄にさせてはならない。
皇の驚いた表情に、胸が痛む。
「迷惑だ。もう2度と、ここへは来るな!」
翔太は涙を堪えて、皇を睨みつけた。
皇に投げつけた言葉は、翔太自身の心も切り裂いていた。
*****
「お兄ちゃん!」
明るい声で呼びかけられたが、横澤は反応しなかった。
いままでそんな呼び名で、屈託なく呼ばれたことなどなどないからだ。
横澤はひどく落ち着かない気分で、歩いていた。
長年愛用している刀が、最近少々調子が悪かった。
そこでそれを馴染みの刀工のところに持ち込み、修理してもらうことになった。
自分で手入れは欠かさなかったが、やはりそれなりに傷んではいたらしい。
娼館の揉め事を一気に担ってきた横澤の刀は、なまじの武士より抜く機会が多かったのだから。
この際徹底的に点検してもらうことにして、刀を刀工に預けてきたのだ。
代わりの刀を借り受けたものの、やはり違和感が拭えない。
だが当面はこれで辛抱するしかない。
どうかその間、何も起きませんように。
そんな横澤らしからぬ弱気なことを考えていたとき、声をかけられたのだ。
「横澤のお兄ちゃんってば!」
さすがに自分の名前まで呼ばれれば、横澤も気が付く。
声の方向に振り向いた横澤は、こちらに向かって駆けてくる少女を見つけた。
その少女には見覚えがある。
最近、横澤にむやみに言い寄ってくる町方同心の娘、日和だ。
しばらく見ない間に、ずいぶん女らしくなったと思う。
以前危ないところを助けたことがあるが、それからずっと会っていなかったのだ。
桐嶋からは「娘が礼を言いたがっている」と再三誘われたが、頑として応じなかった。
さすがに桐嶋も娼館に娘を連れて来るような真似もしない。
「ひよちゃん、どなた?」
日和と一緒に歩いていた少女が追い付いてきて、日和にそう問いかける。
その瞬間、横澤はハッと我に返った。
自分は娼館という、あまり人には言えない場所で働いている。
そんな人間と親しげにしているところを、日和の友人に見られるのはまずい。
「人違いですよ。」
横澤は抑揚のない声で、素っ気なく突き放した。
日和が驚いた表情で固まっている。
微妙な静寂に、日和の友人の少女は困惑しているようだ。
「急ぎますので、これで。」
横澤は日和に背を向けると、足早に歩きだした。
どうか日和が傷ついていませんように。
それだけを願いながら、帰り道を急いだ。
*****
「申し訳ありません。」
千秋は畳に額を擦り付けるように、頭を下げた。
千秋が店に上がって、すでに10日程になる。
その間、柳瀬は毎日のように店に来て、千秋を買ってくれる。
だが決して、千秋と身体を重ねようとしない。
隣に座らせて、肩を抱き寄せるようなことはする。
だがそれは兄が弟をかまうような軽い仕草だ。
最初はそれがありがたかったが、次第に不安になった。
柳瀬はすでにかなりの金額を、娼館に払っている。
それなのに千秋はその金額分の奉仕をしていないと思う。
むしろ柳瀬の方が、千秋に奉仕しているくらいだ。
巧みな話術で千秋の身の上話を聞きだし、慰めてくれたりする。
「千春はまだ慣れていないからな。」
千秋が柳瀬にこのままでいいのかと問うと、柳瀬は笑顔でそう答えた。
初めての夜、千秋が泣き出してしまったせいなのだろう。
だが千秋の戸惑いは消えない。
とにかくこれ以上、柳瀬に散在させるのは申し訳ない。
今夜こそ抱いてもらおうと、覚悟を決めて臨んだ夜。
だけど先に動いたのは柳瀬の方だった。
「お前を身請けしたいと思うのだが。どう思う?」
「あなたのお妾さんに、なるのですか?」
「いや。私の屋敷で家のことをしてくれればいい。給金も払う。」
柳瀬の表情は真剣だった。
身請けした上に、屋敷で身体を売る以外の仕事を用意してくれる。
千秋にしてみれば夢のような話だ。
だが次の瞬間、頭をよぎったのは羽鳥の顔だった。
身請けされてここを出れば、もう羽鳥には逢えない。
「申し訳ありません。」
次の瞬間、千秋は畳に額を擦り付けるように頭を下げた。
どんなにいい話でも、羽鳥と離れたら生きていけない。
千秋はごく自然にそう思ったのだ。
*****
何だか最近、みんな元気がない。
少年は娼館の微妙な静寂を、敏感に感じ取っていた。
律は縁側に腰を下ろして、昼下がりの裏庭を眺めている。
ほとんどの時間を嵯峨と一緒に過ごす律が、唯一独りでいる時間。
それは嵯峨が客の相手をしているときだった。
今もまさにその時間で、律は誰もいない裏庭でぼんやりしていた。
嵯峨の客は女だ。
しかも武家や商家の奥方や後家など、金銭的に恵まれた女ばかり。
そういう客は、営業時間外の昼間に来ることが多い。
密やかな情事を楽しんだ後、夜は家に帰るのだろう。
律は1人で嵯峨を待ちながら、いつも娼館の者たちのことを考える。
だが何だか最近、みんな元気がない。
絵師志望の料亭の次男坊は最近、顔を見せなくなった。
木佐があまり笑わなくなったのは、そのせいだろう。
千春と名を改めて店に上がるようになった千秋と顔を合わせる機会も減った。
たまにすれ違っても目も合わせてくれないし、羽鳥も同じだ。
用心棒の横澤は、ここ数日機嫌が悪い。
持ち慣れた刀を刀工に預けているせいだというが、それだけではないような気がする。
律は経験から知っている。
そうして他の者たちのことを思っていれば、考えずにすむのだ。
嵯峨が他の女を抱いていると想像するだけで感じる胸の痛みを。
人との関わりをあまり経験していない律には、それが嫉妬なのだとはわからない。
だがあの胸の痛みは好きではなかった。
ふと静寂を破るようにコンコンと控えめな音が響いた。
裏木戸を叩く音、誰かが来訪した合図だ。
律は立ち上がり、辺りをキョロキョロと見回した。
来客の時には出ないで、裏方の誰かを呼ぶようにと言い渡されていたからだ。
「すみません。開けてください。」
ガンガンと大きくなった音とともに、声が聞こえる。
それは女の子、しかもまだ子供の声だ。
律は少々迷ったが、裏木戸に向かった。
少女の声はかなり切羽詰まったものに聞こえたからだ。
「何か、御用ですか?」
律は閂を外すと、扉を開いた。
そこに立っていたのは、律よりも年下の少女だ。
少女は律の茶色の髪と緑色の瞳に驚いているようだ。
不意に、路地の向こうから1人の男が走ってきた。
目つきの鋭い男は、一目散にこちらに向かっており、あと数歩のところで刀を抜いた。
間違いなく、狙っている!
そう思った瞬間、律は少女を背後にかばい、男と相対した。
少女の甲高い悲鳴が、人通りのほとんどない裏路地に響き渡った。
*****
「日和、来てないか?」
桐嶋は横澤に詰め寄った。
いつもは桐嶋を見るとウンザリした表情になる横澤が、不思議そうに首を振った。
日和が朝、家を出たきり戻らない。
心配した桐嶋家の下働きが、奉行所まで知らせに来たのだ。
桐嶋は直ちに、横澤が働く娼館へと足を運んだ。
日和がここに来る理由に、心当たりがあるからだ。
「なぜここに来てると思うんだ?」
横澤は困惑した様子で、そう聞き返してくる。
その反応に、桐嶋の怒りが沸騰した。
「お前、街で日和と会ったとき、人違いだと言ったそうだな?」
それでも桐嶋は懸命に怒りの感情を押さえながら、そう聞いた。
すると今度は横澤が、怒りで顔を紅潮させていた。
「当たり前だ。あの子の友達も一緒にいたんだ。娼館の用心棒と知り合いだなんてまずいだろう。」
「日和がそんなことを気にすると思うのか?」
「あの子は気にしなくても世間はそう見ない。あんた、同心のくせにそんなこともわからないのか?」
横澤は桐嶋の目を睨みつけながら、冷やかにそう告げた。
かつて見たこともない冷めた横澤の表情に、桐嶋は絶句した。
「お前の仕事は恥じることなどない立派な仕事だ。」
「恥じてなどいない。だが後ろ指を指す人間もいる。」
「気にする必要なんかないだろう?」
「ないさ。俺一人ならな。だがあんたやあんたの娘が関わってくれば、そうはいかない。」
つまり横澤は横澤なりに、桐嶋と日和のことを思っているということだ。
怒りにまかせて乗り込んできた桐嶋は、振り上げた拳のやり場に困る。
気分は思いのほか悪くないが、肝心な日和の行方がわからない。
2人が気まずく黙り込んでしまった途端、少女の甲高い悲鳴が響き渡った。
声の方向は裏口だ。
桐嶋と横澤は思わず顔を見合わせる。
次の瞬間、2人は裏に向かって走り出した。
2人が裏口に駆け付けたとき、見知らぬ男がまさに刀を振り下ろそうとしていた。
刃の先には日和が座り込んでおり、律が日和を護るようにその間に立ちふさがっていた。
【続く】