和5題-2

寒雷【かんらい】冬に鳴る雷。

*****
「もう泣くな」
男は、泣きじゃくる少年を見ながら、途方に暮れた。
季節外れの寒雷は、まるで少年の動揺と共鳴しているようだった。

男の名は柳瀬優。
父親は旗本、いわゆる「殿様」と呼ばれる身分の男だ。
柳瀬はその嫡子、長男でありながら、後継ぎにはならなかった。
母親は柳瀬がまだ幼い時に亡くなり、後妻を迎えた。
その後妻が男の子を産んだからだ。
父は後妻を気に入っていたし、後妻は先妻の子供の柳瀬を露骨に疎んじた。
2人とも後妻の子供、柳瀬にとっては弟を後継ぎにしたい気持ちが見え見えだった。

それならば、と柳瀬はさっさと後継ぎの座を降りた。
父親を見ていても、旗本なんて少しも魅力的な地位に見えない。
それより先に、父と後妻が弟を溺愛する様子に少々危険を感じていた。
この勢いではいつか、命を取られかねない。
それならさっさとこんなつまらない家など、さっさと捨ててしまおう。

その代わりに頂くものはしっかり頂いておく。
幸いにも柳瀬の家も、後妻の実家も、金回りがいい。
家を出て、余計なことは何も言わない。
その代わりにと金を要求した。
余計な揉め事を恐れた柳瀬家は、その条件を飲んだ。

かくして柳瀬優は、世間的には家から勘当された放蕩息子と思われている。
そしてその代償に、毎月高額の金が渡されていた。
柳瀬は開き直って、楽しく暮らしている。
昼は書物を読んだり、芝居見物などして、夜は遊郭通いだ。

遊郭通いは当初、若い身体の疼きを止めるだけのものだった。
だが最近通い詰めている娼館がある。
よく躾けられた娼婦たちが揃っているのに、吉原のように固いことも言わない。
良心的な商売っぷりが、気に入った。

*****

「柳瀬様、千春でございます。」
声とともに襖が開けられ、男が三つ指をついている。
そしてその隣には、今夜柳瀬に買われた少年が、床に額をつけるように頭を下げていた。
丁寧に躾けられた仕草に、柳瀬は微笑しながら「入りなさい」と告げた。

「お酒をお持ちいたしましょうか?」
男は声をかけてきたが、柳瀬は首を振った。
この少年は今夜、初めて客を取るのだ。
高い金-柳瀬にとっては大したことはないが、とにかく相場より高い金で競り落としたのだ。
初物ならば、酒抜きの素面の状態で味わいたいと思った。

それに案内してきた男と、もう顔を合わせたくなかった。
確か羽鳥とかいう名前のその男とは、どうにも相性が悪いのだ。
享楽的に生きる柳瀬のことが嫌いなのかもしれない。
今だって柳瀬に少年の初めてを売りたくないと思っているのが、ひしひしと伝わってくる。

「用はない。あんたは下がってくれ。」
柳瀬は男にきっぱりとそう言い渡した。
男は柳瀬に再び三つ指をついて「失礼いたしました」と頭を下げる。
少年だけが部屋に入り、襖は閉じられた。

「千春。顔を上げなさい。」
柳瀬は部屋に入ってまた床に額をつけている少年に、そっと声をかけた。
この娼館で男を買うのは初めてのことだ。
売れっ子の木佐を勧められたことはあるが、柳瀬の好みではなかった。
かわいい顔はしているが、どこか投げやりな雰囲気がある。
金を払った情事に慣れて、人生を諦めてしまっているのだろう。

だがこの少年は違う。
まだ情事に慣れるどころか、誰かと身体を繋げたことすらない。
人生にまだ希望も未練も持っている、生き生きした瞳がいい。
その瞳が怯えて震えながら、潤んでいるのにそそられる。

「こちらにおいで」
柳瀬は穏やかな声で、千春という男娼を呼んだ。
千春はがちがちに緊張した様子だったが、素直に柳瀬の隣に座った。

*****

「羽鳥様、どうされました?」
客の部屋に千秋を送り届けた羽鳥は、ふと前から歩いてきた男娼に声をかけられた。
以前狐と呼ばれていた少年、律だ。

今夜は千秋が初めて店に上がった。
源氏名は千春。
秋よりも春の方が好きだからと、千秋本人がつけた。

羽鳥はやるせない思いで、廊下を歩いていた。
千秋を客の部屋に入れて、もう羽鳥には何もすることがない。
後は客の手で千秋の初めてが奪われるのを、じっと待つだけだ。

よりにもよってなぜ柳瀬なのだと思う。
旗本の嫡子であるくせに、家を勘当された男。
それなのに実家から多額の資金を得て、放蕩の限りを尽くしている。
羽鳥がもし柳瀬ほどの財力があれば、さっさと千秋を身請けしているだろう。
それができず、柳瀬の手に千秋を渡すことが悔しくてならない。

おそらくそんな不機嫌さが態度に出てしまっていたのだろう。
廊下を歩いていた律が怪訝そうな表情で足を止め、声をかけてきたのだ。
律はまだ店に上がっていないが、こうして時々店の中を意味なく歩き回っている。
これは店側の策略だ。
人目を引く美貌の律が歩き回っていれば、客は当然興味を持つ。
もうすぐ店に上がる男娼と知れば、さらにその興味は増すだろう。
事実その作戦はまんまと成功し、今では律見たさに来る客もいるほどだ。
そして律を見て満足すると、今夜空いている娼婦を抱いて帰るのだ。

「俺は様子が変だったか?」
「怖い顔をしていらっしゃいます。」
羽鳥が問うと、律は素直にそう答えた。
他の者たちは多分、気を使って言わないのだろう。
だがはっきりとそう告げられると、むしろ気が楽だ。

「千秋さんはどなたと夜を共にしても、羽鳥様だけを好いておられますよ。」
律は羽鳥を見上げながら、笑顔でそう告げた。
どうやら羽鳥が怖い顔をしている理由はお見通しだったらしい。
羽鳥は「本当にそう思うか?」と聞き返すと、律は「はい」ときっぱりと言い切った。
自分より年下の少年の言葉に、何故だか羽鳥は安堵していた。

「律も嵯峨に対して、そう思っているのか?」
ふと羽鳥は律のことに思い至って、そう聞いた。
律がきっぱりと千秋の気持ちを断言したのは、同じ境遇だからだろう。
だが律は「いいえ」と首を振る。

「私のような者が、嵯峨様を好きになるなんていけないことです。」
律は悲しげな表情で、そう呟いた。
律が嵯峨を好いており、嵯峨がそれ以上に律に惚れていることは間違いない。
なのに悲しそうな表情でそれを否定する理由がわからない。

物思いに沈む律の横顔に、羽鳥は理由を聞こうとした。
だがその瞬間、寒雷の音が響き渡り、聞く機会を逸してしまった。

*****

「今夜は羽鳥、つらい夜だな。」
横澤はそう言いながら、パチッと駒を進めた。
嵯峨が腕組みをしながら「そう来たか」と唸った。

横澤は今夜も用心棒として、居室で待機している。
特に今夜は「初物」の男娼がいる。
揉め事が起こる可能性は、普段より高い。

今夜は客がない嵯峨が横澤の部屋に押しかけてきたのは、つい先程のことだ。
手には将棋の盤と駒を抱えている。
昔はこうして2人で、将棋を指しながら夜を過ごしたものだ。
だが律がここに来てからは、めっきりその回数が減った。
それを寂しく思ったことさえ、昔のことのような気がする。

「律はどうした?」
横澤はそう聞いたが、嵯峨は答えない。
だが答えを聞く必要はなかった。
嵯峨は羽鳥のところに、律を差し向けたのだろう。
自分より律と話した方が、羽鳥が気が楽になることを知っている。
嵯峨はそういう男だった。

「お前はいつまで用心棒を続けるんだ?」
黙々と駒を進めるうちに、ふと嵯峨がそう聞いてきた。
横澤は驚き「何を言ってるんだ?」と聞き返す。
用心棒を辞めるつもりなどないというのに。

「桐嶋の旦那に、誘われてるんだろう?」
嵯峨になおもそう告げられて、横澤は言葉に詰まった。
桐嶋にはここを辞めて、自分の家で働けと言われている。
妻を亡くし、娘と2人暮らしの桐嶋は家を切り盛りしてくれる者を捜しているのだという。

「冗談だろう。年頃の娘がいる家に、娼館で働いてた男が行けるわけがない。」
横澤はきっぱりとことわったが、桐嶋はしつこい。
だから期待してしまうのだ。
娼館というあまり人様に誇れない商売のさらに裏の荒事をこなしてきた。
そんな自分でも、人並みに幸せになりたいなどと思ってしまう。

「関係ないと思うけどな。」
嵯峨がそんな浅ましい思いに拍車をかける。
だが横澤は首を振ると、将棋盤に視線を戻した。

*****

「綺麗だな。」
柳瀬は褥に横たわる少年の裸身を見ながら、感嘆の声を上げた。

柳瀬は慣れた動作で、千春の着物を脱がせた。
そしてゆっくりと褥の上に横たえる。
千春はずっと小刻みに震えており、柳瀬のなすがままだった。
こういう物慣れなさも初々しさも、初物ならではの味わいだ。

「愛して、ください。」
千春は消え入りそうな声で、そう告げた。
そう言えと躾けられているのだろう。
その言葉は決して真実ではないが、必死さだけは本物だ。

「千春」
柳瀬は千春の身体に手を伸ばす。
その瞬間、雷が鳴った。
少し遅れて、行燈の灯りだけの暗い室内を閃光が走る。
一瞬だけ照らし出された光の中に、柳瀬は千春の涙を見た。

娼婦も男娼も、身体の欲求を満たすための道具だと思っていた。
柳瀬の血筋など残したくないので、妻を持つつもりもない。
今日だって、初物の男娼を買ったのは単なる気まぐれだったはずだ。
それなのに、たった1筋の涙で、そんな気持ちは吹き飛んでしまう。

この少年は、駄目なのだ。
単なる遊びで、ぞんざいに扱ってはいけない。
壊れ物のように、大切に包んでやらなければ。

「千春、着なさい。」
柳瀬はため息をつくと、脱がせたばかりの襦袢を千春の裸身にかけた。
千春はキョトンとした表情で横たわったまま、柳瀬を見上げている。
だが次の瞬間、声を殺して泣き出した。
初めての客に粗相をして、飽きられたと思ったようだ。

「もう泣くな」
柳瀬は、泣きじゃくる少年を見ながら、途方に暮れた。
この気持ちが恋だと気づくのは、もっと後のことだ。

【続く】
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