和5題-2

【枯れ野】(かれの)草木の枯れはてた冬枯れの野原。

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「私にはわかりかねます。申し訳ありません。」
律は畳に手をつき、丁寧に頭を下げた。
かつて狐と呼ばれ、言葉も通じず、手づかみで食事をしていたという。
だがいくつかの季節を経て、少年は艶やかに変貌していた。

「まぁ、そうか。そうだよな。」
定町廻り同心、桐嶋禅は頭を掻いた。
つい先日、かつて律が棲み付いていたあの神社で、死体が見つかった。
桐嶋はその件で、律に話を聞くために娼館に来たのだ。

「あんたは阿呆か?こんな子供に何を聞いてるんだ?」
桐嶋に茶々を入れたのは、用心棒の横澤だ。
ちなみに桐嶋は横澤の居室に上り込んでいる。
本来の要件の相手である律は部屋の隅にちょこんと座っていた。
その横にはこの件にはまったく関係のない嵯峨が、どっかりと胡坐をかいている。

横澤はかなり機嫌が悪かった。
自分の領域である居室にはあまり人を入れたくないのだ。
それなのに、こんなに人がいる状況は落ち着かない。

こんなことになったのには、理由がある。
以前桐嶋の娘、日和が攫われ、売り飛ばされそうになったのを横澤が助けたのだ。
横澤としては成り行き上そうなっただけのことであり、大したことをしたとは思っていない。
だが桐嶋はそれから頻繁に、この娼館に現れるようになった。
定町廻り同心である桐嶋は、常に市中を動き回っている。
その折によく立ち寄り、冗談とも本気ともつかない口調で横澤を口説くのだ。

「お前さんを一晩買うといくらなんだ?」
最初の言葉はそれで、横澤は呆然とした。
横澤は売り物ではないし、そもそも用心棒という仕事柄、営業中は待機している。
そう言って断ると、今度は「仕事を辞めて、嫁いで来い」と言う。

「なぜ俺なんだ、俺は男だぞ。」
横澤はいつも文句を言う。
だが桐嶋はまったく聞く耳を持たない。
男娼を置く娼館で働く人間が、男だなんだと言っても説得力がない。
それが桐嶋の言い分だった。

** 02 **
「そう言うな。俺だって、律が何か知ってるとは思ってねぇ。」
桐嶋は「阿呆か」などと言われても、動じない。
阿呆なことをしているという自覚があるからだ。

「聞き込みをしたら、下手人は神社の狐だなんて言う奴が、意外と多いんだ。」
桐嶋はあっさりとそう答えた。
事の発端は、神社の敷地内にある柳の木が枯れかかっていたことだ。
古くからある木であり、寿命なのかもしれない。
だがこのまま枯らしてしまうのは可哀想だ。
いっそ日当たりのよい場所に植え替えたらどうだろうか。
そこで近所に住む者たちが木の根元を掘り、死体を発見したのだった。

死んだ者は若いのか年寄りか、男か女かさえわからない。
なぜならもう白い骨になってしまっていたからだ。
おそらく死んだ原因を突き止めることは不可能だろう。
だがあんな枯れ野のような場所に、ずっと埋められていた仏が不憫だ。
せめて身元を突き止めてやれないものかと、桐嶋は周辺の住民に聞き込んだ。
すると皆口々に、狐の仕業ではないかと言い出したのだ。

まったく阿呆らしい。
白骨になったとすれば、この者が死んだのは何年も前だろう。
その頃、律はまだ幼子のはずで、そんな血生臭いことに関わっているはずがない。
だが変な噂になっているのが、気になった。
だから桐嶋は、こうしてわざわざ律に聞いた。
律を詮議して、何も怪しいことはなかったという形を作りたいのだ。

「それにしても神社に死体を埋めるとは、罰当たりなことだな。」
ようやく桐嶋の阿呆な質問の意味に合点がいった横澤が、ため息をついた。
ほぼ毎日娼館に現れ「嫁に来い」などと戯言を言う桐嶋に、かなり消耗している。
だが徐々にほだされているのも間違いなかった。
こうして嵯峨と律が寄り添っている姿を見ても、もう心が痛まないほどに。

律に形式的に聞いただけで、桐嶋の興味はまた横澤に向いた。
そして横澤はそんな桐嶋の口説き文句を躱すことに忙しい。
だから2人とも気づかなかった。
一言も口を開かなかった嵯峨が、難しい顔をしていたことに。

嵯峨はある1つの可能性を考えていた。
神社で見つかった骨はもしかしたら律の母親、小野寺屋の先妻ではなかろうか?
だとすると、律が神社で暮らしていたことはどう考えればいいのだろう。
その険しい横顔を、律だけが心配そうに見ていた。

** 03 **
「そっか、千秋ちゃん、決まったの。」
翔太は素っ気なく、そう言った。
冷たいとか、関心がないというわけではない。
動揺しているらしい千秋に、大したことではないのだと思ってもらいたかった。

ついに千秋が客前に出される日が決まった。
千秋がこの娼館に来て、すでに2年余りが経っている。
この間に千秋はいろいろなことを学んだ。
読み書きはもちろん、文学や歴史、算術、それて礼儀作法。
この娼館は、道端で買えるような安い娼婦は置かない。
最低限の教養を持ち、客の話し相手もこなせるようにさせられるのだ。

そして夜の褥のことも学ばされる。
感じる場所を開かされ、快感を覚えさせられるのだ。
それらすべてを羽鳥によって教え込まれた。
そしてついに客を取る日が決まった。

羽鳥に身体を仕込まれ、淫らな行為を教え込まれた。
だが唇を重ねることと、身体を繋げることはされていない。
それは初めての客への売り物として、残されていた。
そして「初物」には、高い値段がつけられる。

翔太にも覚えがある。
最初に客と身体を重ねたとき、心が重かった。
好きでもない相手と金を貰ってする情事に、どうしても抵抗があったのだ。
自分は汚れたのだと、はっきりとそう感じた。
きっと千秋も同じ思いをするのだろう。

「慣れるしかないね。」
翔太は明るくそう告げた。
中途半端に同情する素振りを見せることなど意味がない。
翔太自身が借金に縛られていて、とても他人を助ける余裕などないのだ。

できるのはこうして時折、愚痴を聞いてやること。
すでに売れっ子の男娼である翔太には、客からの手土産が多くある。
菓子があるから食べに来いと声をかけて、部屋に呼ぶのだ。

** 04 **
「失礼いたします。木佐様」
襖の外から、声が聞こえる。
この声はかつて狐と呼ばれていた少年のものだ。
翔太は鷹揚に「お入り」と答えた。
案の定、開いた障子の向こうには律が座っており、三つ指をついて頭を下げた。

「律っちゃんも座って、菓子をお上がりなさい。」
翔太は売れっ子男娼の貫録で、威厳たっぷりな声をかける。
律は「ありがとうございます」と答えると、楚々とした足取りで部屋に入った。
膝を付き、再び襖を閉めると、今度は立ち上がって千秋の隣に座る。
その淀みない優雅な仕草に、翔太は今更ながらに内心舌を巻いていた。
ここに来た時には言葉も満足に話せず、箸さえ使えない、まさに狐のようだったのに。
それが今ではすっかり可憐で妖艶な男娼へと変化しつつあった。

「そういえば律っちゃんのお客って、誰だったの?」
翔太は売れっ子男娼の貫録を引っ込め、興味本位を前に押し出した。
南蛮ものの珍しい菓子を貰ったので、千秋と律を同時に部屋に呼んだ。
だが律は来客があるので、遅れると言われたのだ。
この娼館以外に顔見知りもいそうにない律への客とは、いったい誰なのか。

「桐嶋様です。」
「桐嶋?用心棒の横澤に惚れ込んでる八丁堀の同心の?」
「惚れ込んでいるというのはわかりませんが、同心の桐嶋様です。」
「何の用で?」
「神社にいた頃のことを聞かれました。」

翔太は律が菓子に手をつけないのを見て、もう一度「お上がりなさい」と促した。
嵯峨に見事に仕込まれた律は、翔太が話しかけている間は食べようとしないのだ。
律は「いただきます」と翔太に一礼すると、ようやく菓子を食べ始めた。

それにしても、と翔太はため息をついた。
こうして律と千秋を見ていると、嵯峨と羽鳥の仕事ぶりが見て取れる。
翔太は美しく妖艶な律と、可愛らしく清楚な千秋。
どちらも売れっ子になることは間違いなさそうだ。

正直言って、翔太の商売に影響することは間違いない。
それでもこの少年たちを嫌う気持ちにはなれなかった。
こんなに長いこと男娼をした身で、もう親許には戻れない。
待っている人もいない以上、ここを早く出たいという気持ちはないのだ。

** 05 **
「律さんは、まだ店に出る日は決まらないの?」
今度は千秋がそう聞いた。
来月から客を取ることが決まった千秋は、どうにも気が晴れないようだ。

「千秋さんより少し後、とだけ聞いております。」
「嫌じゃない?」
「いいえ。嫌ではありません。」
律は静かに首を振る。
だが千秋には納得がいかないらしい。
手にした湯呑を盆に置くと、律の方に向き直る。

「嵯峨様にだけ、抱かれていたいって思わないの?」
「お客様に抱かれることは、嵯峨様がお望みですから。」
律は艶やかに微笑んだ。
千秋は「俺は羽鳥様だけ」と言いかけて、慌てて口を噤む。
翔太はそんな2人を見ながら、物思いに耽っていた。

身体を売ることは、枯れ野を彷徨うようなものだ。
翔太はそう思っている。
時折すれ違う人と、身体を重ねて熱を分け合うことはある。
そうでなければ、寒くて凍えてしまうからだ。
だが決してその相手に心を奪われてはならない。
なぜならすれ違う2人は行く先が違うからだ。

だが千秋と律は、出逢ってしまった。
どうしても離れたくない、けれど決して結ばれるはずのない人に。
大事な人を思う故に迷う千秋と迷わない律。
いったいどちらが正しいのだろう。

翔太にもそういう人がいる。
いつか客が刃傷沙汰を起こした時に、咄嗟にかばおうとしてくれた絵師の青年だ。
彼がこのまま傷つけられたらと思うと、逆に彼を守ろうと思った。
結局用心棒の横澤が間に入って、事なきを得た。
だがあの1件で、翔太と皇は自分の恋心に気づき、相手も同じであることを悟った。

枯れ野の中で出逢った大事な人。
でも一緒に歩く未来が見えない相手を、想い続けても意味がない。
忘れてしまえば楽なのに、それができずにもがき苦しむのだ。

「2人とももっと食べなさい。菓子はまだあるんだから。」
物思いの感傷を振り捨てるように、翔太は明るい声を出した。
千秋と律は幼さの残る笑顔で、勧められるまま菓子に手を伸ばした。

【続く】
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