和5題-1
【遅桜】(おそざくら)遅咲きの桜。
*****
「この子は買えねぇな。」
横澤は眉を顰めながら、首を振る。
その眼前には、縄で縛られた少女が転がされていた。
まったく人使いが荒い。
横澤は心の中で、悪態をついていた。
娼館で用心棒をしている横澤だが、雑用も多い。
営業している時間帯には、揉め事に対応できるように待機している。
だがそれ以外の時間には、細々とした用を言いつけられたりする。
その中の1つが売られてくる少年や少女を引き取りに行くことだった。
今日も売りたい娘がいるから、取りに来てくれという依頼があった。
横澤は不審に思いながらも、その場所に出向いた。
指定された場所は、街外れの古い家だ。
確かこの家は長いこと空き家だったと思う。
その家の横には大きな桜の木があり、ひっそりと満開になっていた。
街中の桜はとっくに散ってしまったのに。
きっと日当たりの悪い場所だからだろう。
遅桜は寂れた古い家をもの悲しく彩っていた。
横澤を出迎えたのは、一目でやくざ者とわかる怪しげな男だった。
同様の男が他に2人いる。
彼らはこの今にも朽ち果てそうな古い家を不当に占拠しているようだ。
男の1人が床に転がされた少女を「こいつだ」と指差す。
少女は後ろで手首を縛られた上に、胸元にも縄がかけられていた。
その上足首もくくられた上に、口にも布を押し込まれて、転がされている。
だが何よりも横澤がおかしいと感じたのは、少女の身なりだった。
春らしい桜色の、かなり仕立てのいい着物だ。
とても売られるような境遇の娘には見えない。
明らかにどこからか誘拐されてきた娘のようだ。
少女は怯えた表情で、横澤を見上げて固まっている。
どうやら自分を攫ったこの男たちと、同類に見えているのだろう。
心外だ。
顔が怖いことはわかっているが、こんなやつらよりはかなりましだと思うのだが。
*****
「この子は買えねぇな。」
横澤は眉を顰めながら、首を振った。
横澤の働く娼館では、身元のわからない者は買わない。
まして犯罪に関わっているなら、なおさらだ。
ちゃんと売られる事情を本人なりに納得して、覚悟を決めた者だけを買う。
無理矢理働かせても客の受けは悪いし、強いては店の価値が落ちるからだ。
唯一の例外は、身元がわからないままに連れて来てしまったあの狐少年だけだった。
「お前ら、この子を無理矢理連れてきたんだろ?そりゃ人攫いだ。」
「何だと!?」
「この子を連れて、番屋に行く。一緒に来てもらおうか。」
男たちはいっせいに刀を抜いた。
予想していたことなので、別に慌てない。
横澤もまた刀を抜いた瞬間、右腕が痛んだ。
先日、男娼の木佐に入れあげた客が、店に乗り込んできた。
そして木佐がそれをきっぱり断ると、刃物を抜いたのだ。
騒ぎを知らされて駆けつけたときには、客は刃物を振り上げていた。
咄嗟に割って入り、何とか男を取り押さえたものの、利き腕を切られてしまったのだ。
幸い傷は浅かったし、他に怪我人もいなかった。
だが出血が多く、あの料亭の次男坊の絵を汚してしまったのが、申し訳なかった。
男たちが雄叫びを上げながら、飛び掛ってくる。
横澤はそれを綺麗に避けながら、刀を振り下ろした。
刀の背面で相手を打つ、いわゆる峰打ちだ。
斬り殺したらいろいろ面倒だし、何より少女の目の前だ。
攫われただけでも怖いだろうし、これ以上心を傷つけるのもかわいそうだ。
横澤は男たちを叩きのめして気絶させると、少女を縛っていた縄を解く。
そしてその縄で男たちを縛り上げると、逃げられないように縄の先を柱に括った。
思わずため息が出る。
こんな荒事が多いので、解けないように縄をかけるのが得意になっている。
手先は器用な方だが、こんな特技、あまり人には誇れない。
「家に返してやるから」
作業が終わた横澤は、少女にそう言ってやる。
ようやく横澤が悪人でないと理解し、少女は笑顔になった。
*****
「痛ぇ!もっと優しくやれよ」
横澤は文句を言う。
だが目の前の男は涼しい顔で、傷口に布を巻い始めた。
横澤は、誘拐された少女を番屋に送り届けた。
ついでに人攫いのゴロつきを置いてきた小屋の場所も教えて、捕まえるように頼んだ。
そして娼館に戻ってきた横澤は、傷口から出血していることに気付いた。
何しろあのゴロつきどもは、横澤が怪我をしていることがわかると、ここばかり狙ったのだ。
「まったく、面倒な役回りだぜ」
横澤は裏庭の井戸で傷口を洗いながら、文句を言った。
こうして人知れず、揉め事を片付けるのが、横澤の仕事。
怪我をすることだって珍しくない。
「手当てしてやる」
不意に背後から声をかけてきたのは、男娼の嵯峨だった。
目聡いこの男は、横澤がこっそり手当てしようとしていたのを見つけたようだ。
血を見ても顔色を変えず、何も問うこともなく、心配してくれる。
「いらん。ほっとけ」
「利き腕を自分でするのは大変だろう?」
横澤は素っ気なくことわった。
だが嵯峨は大徳利を持っており、中の酒を口に含むと、一気に横澤の腕に吹き付けた。
まるで焼け石でも押し付けられたように傷口が痛んで、横澤は顔をしかめた。
「痛ぇ!もっと優しくやれよ」
横澤は文句を言う。
だが目の前の男は涼しい顔で、傷口に布を巻い始めた。
横澤は何でもない振りをしながら、秘かに喜びを感じていた。
決して口には出さないが、横澤は嵯峨に惹かれているのだ。
だから少々乱暴でも、手当てしてもらえることが嬉しい。
娼館という男女の情が乱れ咲く場所で、横澤の想いはあまりにも密やかだ。
まるであの古い家の横の遅桜のように。
*****
「狐はどうしてるんだ?」
自分の気持ちをまぎらわすように、横澤は話題をそらす。
すると嵯峨は悪戯が成功した子供のようににやりと笑った。
「順調だ。あれは男泣かせのいい娼婦になる。」
「はぁ?一時期は言葉も通じねぇって愚痴ってなかったか?」
単なる雑談のつもりなのに、嵯峨は饒舌だ。
意外な反応に、横澤は驚いていた。
言葉が通じなかったのは、誇張なしに本当のことだ。
最初に狐少年を見つけた横澤にもわかる。
少しでも素性を知ろうといろいろ質問したが、小首を傾げただけだった。
答えないのではなく、何を言っているのかわからないのだ。
ずっと人と関わらずに、生きてきたせいだろう。
おそらく幼少期の言葉を覚える時期に、孤独に過ごしてきたのだ。
「まぁ売れるなら。。。」
「客に抱かせるの、もったいねぇんだよな。」
横澤の言葉を遮って、嵯峨は呟いた。
その口調は誇らしげでもあり、悲しげでもある。
横澤はそんな嵯峨に「まさか」と思う。
「見た目は美しいが気立てもいい。世間ずれしてねぇんだ。そこがかわいい。」
狐少年を褒め称える嵯峨に、横澤は止めて欲しいと思った。
娼館の中では「嵯峨は狐に誑かされた」などと噂する者もいる。
それほど嵯峨は狐少年にずっと寄り添っているのだ。
単に世話を任されてるのだと思っていたが、これは違う。
嵯峨は狐に惚れており、あろうことか客前に出すのを迷ってさえいる。
「できた。じゃあ大事にしろよ。」
傷の手当てを終えた嵯峨が、店の方へと戻っていく。
横澤は絶望的な気持ちで、その後ろ姿を見ていた。
あの腕に抱きしめられたい。
それが実らない恋だとはわかっていた。
でもまさか自分が拾ってきた狐に奪われるとは、何と皮肉なことだろう。
*****
「横澤さんにお客さんですよ。」
裏方の美濃に声をかけられて、横澤は勝手口へ向かおうとする。
だがすぐに「表の方ですよ」と言われ、首を捻った。
娼館の揉め事、いわゆる影の部分を引き受ける横澤に訪ねてくる客は少ない。
そしてその少ない客は、裏から出入りする類の者ばかりなのだ。
「用心棒の横澤ってあんたか?」
待っていたのは横澤より少々年上の、一見して何者かわかる男だった。
定紋がついた黒羽織を着ているからだ。
男は幕府の役人-いわゆる町方同心である。
「そうです。八丁堀の旦那に詮議されるような覚えはないですよ。」
町方同心は八丁堀に住居を置くことから、よく「八丁堀」と呼ばれる。
横澤は下手に出ながら、何かまずいことをしたのだろうかと考えた。
すぐに思いついたのは、先日市村という木佐に切りかかった客を殴り飛ばしたことだ。
何しろ仕事は揉め事の解決で、他にもいろいろやばいこともしている。
つまり叩けば、いくらでも埃が出る身なのだ。
「いや、そうじゃない。」
同心の男は、警戒する横澤に苦笑する。
それを見た横澤は、その男がかなりの美男であることに気付いた。
嵯峨や羽鳥など綺麗な男は見慣れているが、少しも見劣りしない。
「礼を言いに来た。俺の娘を助けてくれたと聞いたので」
「あんたの娘って、あの売り飛ばされそうになってた子か!?」
「そうだ。以前、俺が捕まえた罪人に恨まれて、攫われちまって」
思いもよらないことに、横澤は唖然とした。
あの桜色の着物の娘が、まさか同心の娘であったとは。
「本当に助かった。礼を言う。それに怪我をしたと聞いた。すまなかったな。」
男は横澤に深々と頭を下げる。
横澤は慌てて「おい、止めてくれよ!」と叫んだ。
こんなに丁寧に礼を言われたことなどないので、どうしていいかわからないのだ。
照れた顔の横澤を見て、男は意外そうな表情だ。
「ところでこの店、お前さんを一晩買うといくらなんだ?」
からかうように問われて、横澤は思わず「はぁ?」と叫んだ。
だが男は少しも動じることなく「また来る」と言い残して、出て行った。
遅桜の季節、こうして横澤は定町廻り同心、桐嶋と出逢った。
このことが後に横澤の運命を大きく変えることになるが、今は知る由もなかった。
【続く】
*****
「この子は買えねぇな。」
横澤は眉を顰めながら、首を振る。
その眼前には、縄で縛られた少女が転がされていた。
まったく人使いが荒い。
横澤は心の中で、悪態をついていた。
娼館で用心棒をしている横澤だが、雑用も多い。
営業している時間帯には、揉め事に対応できるように待機している。
だがそれ以外の時間には、細々とした用を言いつけられたりする。
その中の1つが売られてくる少年や少女を引き取りに行くことだった。
今日も売りたい娘がいるから、取りに来てくれという依頼があった。
横澤は不審に思いながらも、その場所に出向いた。
指定された場所は、街外れの古い家だ。
確かこの家は長いこと空き家だったと思う。
その家の横には大きな桜の木があり、ひっそりと満開になっていた。
街中の桜はとっくに散ってしまったのに。
きっと日当たりの悪い場所だからだろう。
遅桜は寂れた古い家をもの悲しく彩っていた。
横澤を出迎えたのは、一目でやくざ者とわかる怪しげな男だった。
同様の男が他に2人いる。
彼らはこの今にも朽ち果てそうな古い家を不当に占拠しているようだ。
男の1人が床に転がされた少女を「こいつだ」と指差す。
少女は後ろで手首を縛られた上に、胸元にも縄がかけられていた。
その上足首もくくられた上に、口にも布を押し込まれて、転がされている。
だが何よりも横澤がおかしいと感じたのは、少女の身なりだった。
春らしい桜色の、かなり仕立てのいい着物だ。
とても売られるような境遇の娘には見えない。
明らかにどこからか誘拐されてきた娘のようだ。
少女は怯えた表情で、横澤を見上げて固まっている。
どうやら自分を攫ったこの男たちと、同類に見えているのだろう。
心外だ。
顔が怖いことはわかっているが、こんなやつらよりはかなりましだと思うのだが。
*****
「この子は買えねぇな。」
横澤は眉を顰めながら、首を振った。
横澤の働く娼館では、身元のわからない者は買わない。
まして犯罪に関わっているなら、なおさらだ。
ちゃんと売られる事情を本人なりに納得して、覚悟を決めた者だけを買う。
無理矢理働かせても客の受けは悪いし、強いては店の価値が落ちるからだ。
唯一の例外は、身元がわからないままに連れて来てしまったあの狐少年だけだった。
「お前ら、この子を無理矢理連れてきたんだろ?そりゃ人攫いだ。」
「何だと!?」
「この子を連れて、番屋に行く。一緒に来てもらおうか。」
男たちはいっせいに刀を抜いた。
予想していたことなので、別に慌てない。
横澤もまた刀を抜いた瞬間、右腕が痛んだ。
先日、男娼の木佐に入れあげた客が、店に乗り込んできた。
そして木佐がそれをきっぱり断ると、刃物を抜いたのだ。
騒ぎを知らされて駆けつけたときには、客は刃物を振り上げていた。
咄嗟に割って入り、何とか男を取り押さえたものの、利き腕を切られてしまったのだ。
幸い傷は浅かったし、他に怪我人もいなかった。
だが出血が多く、あの料亭の次男坊の絵を汚してしまったのが、申し訳なかった。
男たちが雄叫びを上げながら、飛び掛ってくる。
横澤はそれを綺麗に避けながら、刀を振り下ろした。
刀の背面で相手を打つ、いわゆる峰打ちだ。
斬り殺したらいろいろ面倒だし、何より少女の目の前だ。
攫われただけでも怖いだろうし、これ以上心を傷つけるのもかわいそうだ。
横澤は男たちを叩きのめして気絶させると、少女を縛っていた縄を解く。
そしてその縄で男たちを縛り上げると、逃げられないように縄の先を柱に括った。
思わずため息が出る。
こんな荒事が多いので、解けないように縄をかけるのが得意になっている。
手先は器用な方だが、こんな特技、あまり人には誇れない。
「家に返してやるから」
作業が終わた横澤は、少女にそう言ってやる。
ようやく横澤が悪人でないと理解し、少女は笑顔になった。
*****
「痛ぇ!もっと優しくやれよ」
横澤は文句を言う。
だが目の前の男は涼しい顔で、傷口に布を巻い始めた。
横澤は、誘拐された少女を番屋に送り届けた。
ついでに人攫いのゴロつきを置いてきた小屋の場所も教えて、捕まえるように頼んだ。
そして娼館に戻ってきた横澤は、傷口から出血していることに気付いた。
何しろあのゴロつきどもは、横澤が怪我をしていることがわかると、ここばかり狙ったのだ。
「まったく、面倒な役回りだぜ」
横澤は裏庭の井戸で傷口を洗いながら、文句を言った。
こうして人知れず、揉め事を片付けるのが、横澤の仕事。
怪我をすることだって珍しくない。
「手当てしてやる」
不意に背後から声をかけてきたのは、男娼の嵯峨だった。
目聡いこの男は、横澤がこっそり手当てしようとしていたのを見つけたようだ。
血を見ても顔色を変えず、何も問うこともなく、心配してくれる。
「いらん。ほっとけ」
「利き腕を自分でするのは大変だろう?」
横澤は素っ気なくことわった。
だが嵯峨は大徳利を持っており、中の酒を口に含むと、一気に横澤の腕に吹き付けた。
まるで焼け石でも押し付けられたように傷口が痛んで、横澤は顔をしかめた。
「痛ぇ!もっと優しくやれよ」
横澤は文句を言う。
だが目の前の男は涼しい顔で、傷口に布を巻い始めた。
横澤は何でもない振りをしながら、秘かに喜びを感じていた。
決して口には出さないが、横澤は嵯峨に惹かれているのだ。
だから少々乱暴でも、手当てしてもらえることが嬉しい。
娼館という男女の情が乱れ咲く場所で、横澤の想いはあまりにも密やかだ。
まるであの古い家の横の遅桜のように。
*****
「狐はどうしてるんだ?」
自分の気持ちをまぎらわすように、横澤は話題をそらす。
すると嵯峨は悪戯が成功した子供のようににやりと笑った。
「順調だ。あれは男泣かせのいい娼婦になる。」
「はぁ?一時期は言葉も通じねぇって愚痴ってなかったか?」
単なる雑談のつもりなのに、嵯峨は饒舌だ。
意外な反応に、横澤は驚いていた。
言葉が通じなかったのは、誇張なしに本当のことだ。
最初に狐少年を見つけた横澤にもわかる。
少しでも素性を知ろうといろいろ質問したが、小首を傾げただけだった。
答えないのではなく、何を言っているのかわからないのだ。
ずっと人と関わらずに、生きてきたせいだろう。
おそらく幼少期の言葉を覚える時期に、孤独に過ごしてきたのだ。
「まぁ売れるなら。。。」
「客に抱かせるの、もったいねぇんだよな。」
横澤の言葉を遮って、嵯峨は呟いた。
その口調は誇らしげでもあり、悲しげでもある。
横澤はそんな嵯峨に「まさか」と思う。
「見た目は美しいが気立てもいい。世間ずれしてねぇんだ。そこがかわいい。」
狐少年を褒め称える嵯峨に、横澤は止めて欲しいと思った。
娼館の中では「嵯峨は狐に誑かされた」などと噂する者もいる。
それほど嵯峨は狐少年にずっと寄り添っているのだ。
単に世話を任されてるのだと思っていたが、これは違う。
嵯峨は狐に惚れており、あろうことか客前に出すのを迷ってさえいる。
「できた。じゃあ大事にしろよ。」
傷の手当てを終えた嵯峨が、店の方へと戻っていく。
横澤は絶望的な気持ちで、その後ろ姿を見ていた。
あの腕に抱きしめられたい。
それが実らない恋だとはわかっていた。
でもまさか自分が拾ってきた狐に奪われるとは、何と皮肉なことだろう。
*****
「横澤さんにお客さんですよ。」
裏方の美濃に声をかけられて、横澤は勝手口へ向かおうとする。
だがすぐに「表の方ですよ」と言われ、首を捻った。
娼館の揉め事、いわゆる影の部分を引き受ける横澤に訪ねてくる客は少ない。
そしてその少ない客は、裏から出入りする類の者ばかりなのだ。
「用心棒の横澤ってあんたか?」
待っていたのは横澤より少々年上の、一見して何者かわかる男だった。
定紋がついた黒羽織を着ているからだ。
男は幕府の役人-いわゆる町方同心である。
「そうです。八丁堀の旦那に詮議されるような覚えはないですよ。」
町方同心は八丁堀に住居を置くことから、よく「八丁堀」と呼ばれる。
横澤は下手に出ながら、何かまずいことをしたのだろうかと考えた。
すぐに思いついたのは、先日市村という木佐に切りかかった客を殴り飛ばしたことだ。
何しろ仕事は揉め事の解決で、他にもいろいろやばいこともしている。
つまり叩けば、いくらでも埃が出る身なのだ。
「いや、そうじゃない。」
同心の男は、警戒する横澤に苦笑する。
それを見た横澤は、その男がかなりの美男であることに気付いた。
嵯峨や羽鳥など綺麗な男は見慣れているが、少しも見劣りしない。
「礼を言いに来た。俺の娘を助けてくれたと聞いたので」
「あんたの娘って、あの売り飛ばされそうになってた子か!?」
「そうだ。以前、俺が捕まえた罪人に恨まれて、攫われちまって」
思いもよらないことに、横澤は唖然とした。
あの桜色の着物の娘が、まさか同心の娘であったとは。
「本当に助かった。礼を言う。それに怪我をしたと聞いた。すまなかったな。」
男は横澤に深々と頭を下げる。
横澤は慌てて「おい、止めてくれよ!」と叫んだ。
こんなに丁寧に礼を言われたことなどないので、どうしていいかわからないのだ。
照れた顔の横澤を見て、男は意外そうな表情だ。
「ところでこの店、お前さんを一晩買うといくらなんだ?」
からかうように問われて、横澤は思わず「はぁ?」と叫んだ。
だが男は少しも動じることなく「また来る」と言い残して、出て行った。
遅桜の季節、こうして横澤は定町廻り同心、桐嶋と出逢った。
このことが後に横澤の運命を大きく変えることになるが、今は知る由もなかった。
【続く】