和5題-1

【短夜】(みじかよ) 短い夜。夜明けの早い夏の夜。

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「で、そのお狐さんは、今はどうしてるんですか?」
「嵯峨が仕込んでるよ。でも大変そうだ。」
問いかけた男は、絵筆を動かしながら問いかける。
翔太はそんな男の様子を見ながら、淡々と答えていた。

当初、翔太は男の名を知らなかった。
この娼館では客の要望があれば、簡単な酒や肴を出すことができる。
だがきちんとした食事の注文があったときは、近所の料亭から取り寄せている。
この男はその料亭の者で、時々注文の料理を届けにやって来る。
人当たりがよくて綺麗な男だとは思っていたが、それまでのこと。
真っ直ぐで眩しい男は、こんな場所で身体を売っている翔太には無縁だ。

「皇さんが、お前の絵を描きたいそうだ。」
娼館の主にそう言われて、翔太は初めて男の名を知った。
料亭の次男坊で、家業を手伝いながら絵師を目指しているという。
正直言って、この男がどうして翔太の絵を描きたがるのかわからない。
何しろここは娼館、綺麗な女はいくらでもいるのに。

わけがわからないが、翔太にとっても損はない話だった。
翔太は2日働いたら、1日休むことになっている。
男の身体は女と違い、抱かれるようにはできていない。
毎日客を取り続ければ、すぐに身体は壊れてしまうのだ。
その男、皇はその休みの日に翔太の絵を描き、給金も払うと言う。
身体を売ることに比べれば些少だが、休むよりは少しでも金が入る方がいい。

こうして翔太は3日に1度、皇の絵の被写体をしている。
仕事がない短夜の暇潰しとしては、悪くない。
他愛無い世間話をしながら、皇と緩やかな時間を過ごすのだ。

*****

「お狐さんはすごく綺麗な男の子だと聞いたんですが」
「ああ、そうだ。それに珍しい。茶色の髪、それに目が緑だった。」
「異国の人ですか?」
「生まれはよくわからないって話だ。」

皇は翔太と手にした紙の間に視線を往復させながら、筆を動かす。
そうしながら翔太が退屈しないように、話しかけ続けてくれる。
今の話題は、この娼館にやって来た少年のことだった。

この娼館のすぐ近所に、小さな神社がある。
その少年はそこに住みついており、お供え物などを食べ荒らしていた。
少年の髪の色が変わっていたことから、周辺の者は「狐」と呼んでいた。
物の怪ではないかなどという奇妙な噂さえ飛び交っていた。

だが先日、少年は近所の住民たちに捕らえられた。
さすがに神聖な神社で盗み食いをするのが、目に余ったようだ。
だが実際目のあたりにした「狐」の瞳の色は異様だった。
住民たちが殺してしまった方がいいなどと相談している時、横澤が通りかかった。

横澤はちょうど千秋の身柄を引き取りに行った帰り道だった。
そこでどんなやり取りがあったかを、横澤はほとんど語らない。
だが結局千秋と一緒に連れて来てしまった。
心優しい横澤は「殺す」という物騒な言葉にさすがに哀れになったのだろう。

結局、狐少年は結局この娼館で働くことになった。
引き取ってくれるような身寄りもなく、その見目形の異質さから奉公先も決まらない。
このまま放り出したら、少年は神社の「狐」に戻るしかない。
そこで殺されてしまうよりは、ここで生きる方がまだ幸せだろう。

*****

「狐はきっと磨けば磨くほど光るよ。すぐに俺より売れっ子になるだろう。」
「謙遜を。で、嵯峨さんは、狐さんと千秋ちゃん、2人の面倒を見てるんですか?」
「いや嵯峨は狐だけ。千秋は羽鳥が見てる。」
「え?羽鳥さん?あの方はもう裏方仕事に変わったのでは?」
「それが千秋の面倒は自分にって志願したとさ。嵯峨も狐で手一杯だしありがたいって」

翔太と皇の話はいつもこんな風だ。
皇が一方的にこの娼館の中でのことを聞き、翔太が答える。
翔太が何かを聞くことはない。

嵯峨はこの娼館の中でも異質な存在だ。
特に借財があるわけではないのに、なぜか男娼をしている。
男前で所作にも品がある嵯峨は、おそらく武家の血を引いているのだろう。
そんな男がなぜ男娼?などと無粋な問いをする者は、ここにはいない。
現在女の客を相手にする男娼は、この嵯峨だけだ。

だが娼館に女の客が来るのは、月に何日もない。
客がこない間に何をするかというと、売られてきた娼婦たちを仕込むのだ。
この娼館では、学のない下品な娼婦がいないことが売りだ。
最低限の勉学を教え、立ち居振る舞いや褥での作法を叩き込む。

嵯峨はこの狐少年に苦戦していると聞いた。
読み書きがわからないどころか、言葉もろくに通じないらしい。
神社で供え物を盗んで生きてきたというなら、無理からぬことではある。
だがそれでも狐少年を仕込むのは、彼が素晴らしい美貌の持ち主だからだ。
仕込みに多少、手がかかっても売れることは間違いない。

だが翔太は、実は千秋の方が人気者になると思っていた。
とにかく無防備で、庇護欲をかき立てる顔をしている。
何しろ店側でさえ、最近まで男娼にしていいのかと迷っていたほどの頼りなさなのだ。
狐のような美形より、かわいい千秋を好む男は少なからずいるだろう。
事実羽鳥は引退したはずの色事の道に戻った。
千秋を自分で仕込もうとしているほどののめり込み振りなのだ。

*****

「木佐、いるのだろう!」
不意に叫び声が聞こえて、翔太は顔をしかめた。
皇も筆を止め、怪訝な表情だ。
だんだんと乱暴に廊下を踏み鳴らす音が近づいてくる。

「お止めください、お客様。本日、木佐は休みをいただいております。」
客を止めている声は、美濃だ。
羽鳥が千秋の面倒を見ることになり、新しく裏方に入れた男だった。

「俺も今日は客じゃない。木佐に用があるだけだ!」
さらに近づく声に、翔太はあの男かと思った。
ここ半年ほど通い詰めて、いつも翔太を指名する客だ。
褥での行為がしつこくて、翔太はいつも辟易していた。

最近は店に頼んで、この男の指名を数回に1度にしてもらっている。
それは決して男との行為が嫌だったからではない。
この男はどうも金銭に余裕があるように見えなかったからだ。
翔太との逢瀬は、決して安い値段ではない。
こんなことで男が転落するのは、気の毒だと思った。

だがそれは見事に裏目に出たようだ。
障子が乱暴に開けられ、目を血走らせた男が飛び込んできた。
男の手には包丁が握られている。

「市村様、今日は私は休みなのですが。」
「嘘だ!部屋に男を入れているじゃないか!」
翔太は少しも動じた様子を見せずにそう言った。
こんな風に乗り込んできた男を見るのは初めてではないので、今さら驚かない。

「この方はお客様ではありません。」
「黙れ!」
市村と呼ばれた客は完全に逆上している。
翔太はどうせ自分はろくな死に方はしないと思っているし、その覚悟もある。
ただ皇を巻き込むことだけは避けなくてはならないと思う。

*****

「木佐、俺と逃げてくれ!」
男は刃物を翳しながら、翔太との距離を詰めてくる。
この頃には他の娼婦や、従業員たちも集まっていた。
娼婦の中にはニヤニヤと薄笑いを浮かべている者もいる。
彼女たちにとっては、翔太はある意味、商売敵とも言える。
それに外の世界から隔絶された娼館で、これは格好の見世物だ。

「冗談じゃねぇ。金が尽きたから俺を連れ出そうってか?」
翔太は丁寧な口調を止めて、蓮っ葉に振舞った。
これで少しでも幻滅してくれたら、御の字だ。
だがそんな気持ちは通じなかったようだ。

「俺に取り縋って、気持ちいいって啼いてたじゃねぇか!」
市村の叫びに、翔太は目と耳を覆いたくなった。
それは娼婦が客にする常套手段だ。
そもそも短夜の褥のことを、こんな大勢の前で叫ぶとは。
まったく遊び人の風上にも置けない。

「俺と逃げないなら、死んでくれ!」
市村が刃物を振り上げると、翔太へと足を踏み出した。
皇が素早く立ち上がると、翔太を背中に庇う。
だが翔太はすぐに皇の横に並びかけると、思い切り肩から体当たりした。
思いもかけない翔太からの攻撃に、皇がよろけて膝をついた。

これでいい。
皇の身体を力ずくで排除した翔太は微笑した。
庇ってくれたのは意外だし嬉しい。
だがこんな薄汚い刃傷沙汰に皇を巻き込みたくなかった。

「木佐さん!」
皇の悲鳴が響く中、市村が刃物を振り下ろす。
描きかけの絵の上に、鮮血が降りかかった。

【続く】
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