和5題-1
【名残雪】(なごりゆき) 春が来ても消え残っている雪。または春が来てから降る雪。
*****
もう春の陽気だと思っていたのに、今さら雪だなんて。
名残の雪が積もった表門の前を千秋は恨めしげに見ていた。
千秋がこの娼館に売られてきたのは、初夏の頃だ。
季節は巡り、秋、冬、そして春を迎えようとしている。
つまりもうじき1年だ。
この間、千秋はずっとここで下働きをしていた。
すぐに客を取らされるものと覚悟していた千秋は、困惑していた。
千秋の処遇はまだ決まっていないのだそうだ。
女はここに来れば、娼婦になることが決まっている。
多少見目形が悪くても、化粧して着飾ればたいていはどうにかなる。
だが男の場合はそうはいかないのだという。
この娼館には2種類の男娼がいる。
女を抱く者と、男に抱かれる者だ。
だがどちらも資質が必要だ。
女を抱く男娼は、どんな客でも抱ける性欲が必要。
平たく言えばいつでも勃たなければ、務まらない。
そして男に抱かれる男娼は、男を誑し込み受け入れる淫らな身体でないと無理だ。
その要素がないのに無理矢理客を取ると、すぐに心身を病んでしまうという。
一緒にここに連れて来られた「狐」と呼ばれる少年は、男に抱かれる男娼になる。
まだ客を取らされていないが、そのための稽古を受けていると聞く。
立ち居振る舞いや褥での作法を学んでから、お披露目となるそうだ。
そして千秋はまだ男娼になれるかどうか、店はまだ判断がつかないのだ。
とにかく千秋は命じられた下働きの仕事をするしかない。
そして今は夜半に降り積もった雪を片付けることだ。
客が足を滑らせたりしないように、この季節はずれの雪をどけなくては。
*****
「お前1人でやっているのか?他の者は?」
羽鳥は早朝、1人で表門前の雪かきをしている子供に気付いた。
去年の夏に売られてきて、未だ処遇が決まらず下働きをしている少年だ。
「他の者はどうしたんだ?」
一応そう問うてみたが、答えは聞く前からわかっていた。
この少年はどうも要領が悪いのだ。
だから他の下働きの者たちにきつい仕事を押し付けられてしまう。
「他の人たちはみんなすることがあるみたいで。」
少年は困ったように笑うと、また雪をかき始めた。
羽鳥はそんな小さな背中を見ながら、切ない思いに囚われる。
この少年、千秋の年齢は確か15くらいだったはずだ。
だが10歳と言われても信じてしまうほど小さいのは、貧しかったせいだろう。
ここに来る前の身体が成長する時期に、満足な食事ができなかったのだ。
そして今はこんな場所で、こき使われる。
不憫なことだと、羽鳥は千秋のことを気にかけていた。
「他の者にも手伝うように言っておく。それと終わったら私の部屋に来なさい。」
羽鳥は千秋の背中に声をかけた。
千秋は雪かきの手を止めると「はーい」と笑顔を見せた。
この少年の処遇はまだ決まっていない。
だがいつか客を取ることになるのかと想像するだけで、もの悲しい気分になる。
羽鳥はその気持ちの正体に薄々気付いている。
だが気付かぬ素振りで、千秋に背を向けた。
雪かきを手伝ってやりたいが、羽鳥は羽鳥で仕事があるのだ。
*****
羽鳥はこの娼館の裏方を取り仕切っている。
客のいざこざは、用心棒の横澤の仕事。
羽鳥は娼婦や男娼、下働きたちの仕事振りを管理する。
体調が悪そうな者は休ませ、悩む者の相談に乗り、いさかいがあれば仲介する。
まるで大所帯の母親のような仕事だと思う。
元々は羽鳥も男娼だったのだ。
母親が病で倒れ、薬代を借金をした。
その返済のためにこの娼館で、男娼として働いたのだ。
羽鳥は女客を抱いていた。
幸いなことに借入額はさほど多くなく、数年で借金はなくなった。
だが男娼という仕事は、やはり世間的に誇れる仕事ではない。
羽鳥は友人知人から白い目で見られ、後ろ指を刺されるようになった。
家に戻ることなどできなかった。
そもそも両親もそのことで住み難くなり、羽鳥を置いて江戸を離れてしまった。
途方に暮れる羽鳥を、この娼館はまたしても拾ってくれた。
男娼ではなく裏方として働かないかと言ってくれたのだ。
もちろんたまたま裏を仕切っていた者が辞めたからだ。
だが羽鳥にとっては、またとない機会だった。
そのときに羽鳥は自分の名を捨てた。
羽鳥というのは男娼をしていた時の通り名で、本当の名前は違う。
だがもうずっと羽鳥として生き、親から付けられた名は使わないことにした。
もうここでしか生きられない。
羽鳥は覚悟を決めたのだ。
*****
「寒かっただろう。火のそばに行きなさい。」
言いつけ通りにやって来た千秋は、寒さで頬を赤くしていた。
小さな身体で雪かきはさぞ大変だっただろう。
羽鳥は火鉢の横の座布団を指差して、千秋に勧めた。
そうしながら火にかけていた土瓶を取り上げ、熱い茶を淹れる。
羽鳥の部屋は狭いが、居心地のいい空間だ。
なぜなら単に羽鳥1人の場所ではないからだ。
娼婦たちの悩みを聞いたり、不始末を仕出かした人間を諭したりする。
だから冬は暖かく、夏は涼しく、清潔に保つようにしている。
「食べなさい」
羽鳥は千秋と向かい合うところに腰を下ろすと、小さな饅頭と熱い茶を置いてやった。
千秋は一瞬戸惑った様子を見せたが、何度も頷いてやるとおずおずと饅頭を取る。
だが1口食べると、瞬く間に食べてしまう。
きっと空腹だったのだろう。
千秋が茶を飲み終えた頃、羽鳥はようやく本題を切り出した。
「千秋、お前、奉公に出る気はないか?」
2杯目の茶を注いでやりながら、羽鳥は千秋にそう聞いた。
千秋は何を言われたのかわからないようで、呆然としている。
「丁稚を捜している御店がある。主人とは知り合いだ。よくしてくれると思う。」
それはここに出入りしている呉服問屋だった。
遊女たちの着物の仕立てを頼んでいる。
主は商売上手だが誠実な男だ。
こんな小さな少年が客を取らされるのは、かわいそうだ。
千秋だって身体を汚されるより、ずっとましだろう。
もし千秋が頷けば、娼館の主を説得するつもりだった。
必要なら少々の金を出してやってもいいとさえ思っている。
だが千秋は「ありがとうございます」と言いながら、首を横に振った。
てっきりこの話を喜ぶと思っていた羽鳥は驚いた。
*****
「俺なんかのために。もしかして断ると羽鳥様の立場が悪くなりますか?」
「それはかまわない。でもどうして?身体を売るよりいいだろう。」
「ここでお客を取った方が、たくさん稼げますよね?」
「それはそうだが」
「その分、家にお金を送りたいんです。」
羽鳥は千秋の気持ちを理解して、ため息をつくしかなかった。
千秋の家は羽鳥の家とは違う。
病気の薬代という明確な理由があって、借金があるわけではない。
慢性的な貧乏だ。
千秋の身を売り払って借金を清算しても、また借金は増えていくだろう。
少しでもその負担を減らすために、千秋は過酷でも稼げる仕事を望んでいる。
「少しでも多く家にお金を入れたいのです。せめて妹が嫁ぐまで。」
「妹もいるのか」
「妹だけは絶対に売られるような目に合わせたくないんです。」
「そうか」
家のことはどうにもできないし、千秋の決心も固い。
誰かに花を散らされるくらいなら、いっそ自分の手で。
羽鳥は自分の心にこみ上げて来る衝動を抑えられなかった。
やにわに手を伸ばすと、千秋の手を掴んで引き寄せる。
千秋の小さな身体が、羽鳥の大きな胸に落ちた。
大きな瞳がさらに驚きで見開かれながら、羽鳥を見上げる。
羽鳥はその細い背中に腕を回して、抱きしめた。
降り積もった名残雪はもう踏み均されて、多数の足跡がついている。
千秋のまだ誰も足を踏み入れていない白い身体も、いつかそうなってしまうのだろう。
羽鳥はやるせない気持ちを懸命に押し殺しながら、千秋の身体を離せずにいた。
【続く】
*****
もう春の陽気だと思っていたのに、今さら雪だなんて。
名残の雪が積もった表門の前を千秋は恨めしげに見ていた。
千秋がこの娼館に売られてきたのは、初夏の頃だ。
季節は巡り、秋、冬、そして春を迎えようとしている。
つまりもうじき1年だ。
この間、千秋はずっとここで下働きをしていた。
すぐに客を取らされるものと覚悟していた千秋は、困惑していた。
千秋の処遇はまだ決まっていないのだそうだ。
女はここに来れば、娼婦になることが決まっている。
多少見目形が悪くても、化粧して着飾ればたいていはどうにかなる。
だが男の場合はそうはいかないのだという。
この娼館には2種類の男娼がいる。
女を抱く者と、男に抱かれる者だ。
だがどちらも資質が必要だ。
女を抱く男娼は、どんな客でも抱ける性欲が必要。
平たく言えばいつでも勃たなければ、務まらない。
そして男に抱かれる男娼は、男を誑し込み受け入れる淫らな身体でないと無理だ。
その要素がないのに無理矢理客を取ると、すぐに心身を病んでしまうという。
一緒にここに連れて来られた「狐」と呼ばれる少年は、男に抱かれる男娼になる。
まだ客を取らされていないが、そのための稽古を受けていると聞く。
立ち居振る舞いや褥での作法を学んでから、お披露目となるそうだ。
そして千秋はまだ男娼になれるかどうか、店はまだ判断がつかないのだ。
とにかく千秋は命じられた下働きの仕事をするしかない。
そして今は夜半に降り積もった雪を片付けることだ。
客が足を滑らせたりしないように、この季節はずれの雪をどけなくては。
*****
「お前1人でやっているのか?他の者は?」
羽鳥は早朝、1人で表門前の雪かきをしている子供に気付いた。
去年の夏に売られてきて、未だ処遇が決まらず下働きをしている少年だ。
「他の者はどうしたんだ?」
一応そう問うてみたが、答えは聞く前からわかっていた。
この少年はどうも要領が悪いのだ。
だから他の下働きの者たちにきつい仕事を押し付けられてしまう。
「他の人たちはみんなすることがあるみたいで。」
少年は困ったように笑うと、また雪をかき始めた。
羽鳥はそんな小さな背中を見ながら、切ない思いに囚われる。
この少年、千秋の年齢は確か15くらいだったはずだ。
だが10歳と言われても信じてしまうほど小さいのは、貧しかったせいだろう。
ここに来る前の身体が成長する時期に、満足な食事ができなかったのだ。
そして今はこんな場所で、こき使われる。
不憫なことだと、羽鳥は千秋のことを気にかけていた。
「他の者にも手伝うように言っておく。それと終わったら私の部屋に来なさい。」
羽鳥は千秋の背中に声をかけた。
千秋は雪かきの手を止めると「はーい」と笑顔を見せた。
この少年の処遇はまだ決まっていない。
だがいつか客を取ることになるのかと想像するだけで、もの悲しい気分になる。
羽鳥はその気持ちの正体に薄々気付いている。
だが気付かぬ素振りで、千秋に背を向けた。
雪かきを手伝ってやりたいが、羽鳥は羽鳥で仕事があるのだ。
*****
羽鳥はこの娼館の裏方を取り仕切っている。
客のいざこざは、用心棒の横澤の仕事。
羽鳥は娼婦や男娼、下働きたちの仕事振りを管理する。
体調が悪そうな者は休ませ、悩む者の相談に乗り、いさかいがあれば仲介する。
まるで大所帯の母親のような仕事だと思う。
元々は羽鳥も男娼だったのだ。
母親が病で倒れ、薬代を借金をした。
その返済のためにこの娼館で、男娼として働いたのだ。
羽鳥は女客を抱いていた。
幸いなことに借入額はさほど多くなく、数年で借金はなくなった。
だが男娼という仕事は、やはり世間的に誇れる仕事ではない。
羽鳥は友人知人から白い目で見られ、後ろ指を刺されるようになった。
家に戻ることなどできなかった。
そもそも両親もそのことで住み難くなり、羽鳥を置いて江戸を離れてしまった。
途方に暮れる羽鳥を、この娼館はまたしても拾ってくれた。
男娼ではなく裏方として働かないかと言ってくれたのだ。
もちろんたまたま裏を仕切っていた者が辞めたからだ。
だが羽鳥にとっては、またとない機会だった。
そのときに羽鳥は自分の名を捨てた。
羽鳥というのは男娼をしていた時の通り名で、本当の名前は違う。
だがもうずっと羽鳥として生き、親から付けられた名は使わないことにした。
もうここでしか生きられない。
羽鳥は覚悟を決めたのだ。
*****
「寒かっただろう。火のそばに行きなさい。」
言いつけ通りにやって来た千秋は、寒さで頬を赤くしていた。
小さな身体で雪かきはさぞ大変だっただろう。
羽鳥は火鉢の横の座布団を指差して、千秋に勧めた。
そうしながら火にかけていた土瓶を取り上げ、熱い茶を淹れる。
羽鳥の部屋は狭いが、居心地のいい空間だ。
なぜなら単に羽鳥1人の場所ではないからだ。
娼婦たちの悩みを聞いたり、不始末を仕出かした人間を諭したりする。
だから冬は暖かく、夏は涼しく、清潔に保つようにしている。
「食べなさい」
羽鳥は千秋と向かい合うところに腰を下ろすと、小さな饅頭と熱い茶を置いてやった。
千秋は一瞬戸惑った様子を見せたが、何度も頷いてやるとおずおずと饅頭を取る。
だが1口食べると、瞬く間に食べてしまう。
きっと空腹だったのだろう。
千秋が茶を飲み終えた頃、羽鳥はようやく本題を切り出した。
「千秋、お前、奉公に出る気はないか?」
2杯目の茶を注いでやりながら、羽鳥は千秋にそう聞いた。
千秋は何を言われたのかわからないようで、呆然としている。
「丁稚を捜している御店がある。主人とは知り合いだ。よくしてくれると思う。」
それはここに出入りしている呉服問屋だった。
遊女たちの着物の仕立てを頼んでいる。
主は商売上手だが誠実な男だ。
こんな小さな少年が客を取らされるのは、かわいそうだ。
千秋だって身体を汚されるより、ずっとましだろう。
もし千秋が頷けば、娼館の主を説得するつもりだった。
必要なら少々の金を出してやってもいいとさえ思っている。
だが千秋は「ありがとうございます」と言いながら、首を横に振った。
てっきりこの話を喜ぶと思っていた羽鳥は驚いた。
*****
「俺なんかのために。もしかして断ると羽鳥様の立場が悪くなりますか?」
「それはかまわない。でもどうして?身体を売るよりいいだろう。」
「ここでお客を取った方が、たくさん稼げますよね?」
「それはそうだが」
「その分、家にお金を送りたいんです。」
羽鳥は千秋の気持ちを理解して、ため息をつくしかなかった。
千秋の家は羽鳥の家とは違う。
病気の薬代という明確な理由があって、借金があるわけではない。
慢性的な貧乏だ。
千秋の身を売り払って借金を清算しても、また借金は増えていくだろう。
少しでもその負担を減らすために、千秋は過酷でも稼げる仕事を望んでいる。
「少しでも多く家にお金を入れたいのです。せめて妹が嫁ぐまで。」
「妹もいるのか」
「妹だけは絶対に売られるような目に合わせたくないんです。」
「そうか」
家のことはどうにもできないし、千秋の決心も固い。
誰かに花を散らされるくらいなら、いっそ自分の手で。
羽鳥は自分の心にこみ上げて来る衝動を抑えられなかった。
やにわに手を伸ばすと、千秋の手を掴んで引き寄せる。
千秋の小さな身体が、羽鳥の大きな胸に落ちた。
大きな瞳がさらに驚きで見開かれながら、羽鳥を見上げる。
羽鳥はその細い背中に腕を回して、抱きしめた。
降り積もった名残雪はもう踏み均されて、多数の足跡がついている。
千秋のまだ誰も足を踏み入れていない白い身体も、いつかそうなってしまうのだろう。
羽鳥はやるせない気持ちを懸命に押し殺しながら、千秋の身体を離せずにいた。
【続く】