和5題-1
【薫風】(くんぷう) 初夏、新緑の間を吹いてくる快い風。
*****
開け放った障子から流れてくる薫風が、初夏の緑の匂いを乗せて流れ込んでくる。
翔太はその心地よさに目を閉じながら、季節の移ろいを感じていた。
ここに売られてきてから、もう何度目の夏だろう。
翔太は指を折って数えようとしたが、ふっと息をつくと首を振った。
考えても仕方がないのだ。
家にかけられた借金のかたとして、翔太の人生は売り払われた。
代金を払う客があれば、昼でも夜でもこの身を差し出さなくてはならない。
男でありながら、嬲られて、玩具にされて、男の吐き出す欲にまみれる。
季節が何度変わろうと、それは決して変わることはないのだから。
翔太は考えることを止めて、立ち上がる。
だがその途端、軽い立ち眩みを感じた。
思い当たる理由はいくつもある。
もう何年もこの館から出た事がないし、必要がなければ部屋からも出ない。
運動不足で、身体はすっかり弱っていた。
それに昨晩の客は、本当にしつこかった。
欲望にまかせて、力任せに翔太を揺さぶり続けたのだ。
しかもそいつはもう何日も連続で、翔太を指名しているのだ。
身体が悲鳴を上げても、無理のないことだ。
それでも翔太は障子に手を置きながら、身体を支えた。
静かに立ち眩みが治まるのを待つ。
どうせ自由がない身なのだ。
せめて自分の立ちたいときに立ち上がり、心のままに風を感じたい。
そんなささやかな抵抗だった。
*****
翔太が暮らしているのは、とある場末の娼館だった。
街外れの古い武家屋敷をそのまま使っており、看板も掲げていない。
だが江戸の遊び人の間では有名だ。
曰く、失望することなくしっかりと欲望を満足させられる店であると。
この娼館では、吉原の太夫のようにもったいぶったことをしない。
襦袢は脱がない、唇は許さない、心は渡さない。
そんな気取ったことは絶対に言わないのだ。
恋しい相手と思い、必死に尽くすこと。
娼婦たちはそう教え込まれている。
つかの間の恋の相手と思うもよし、単に遊び相手の玩具と思うもよし。
金さえ払えば、娼婦たちは何でもさせてくれる。
手荒なことをするのも、金次第だ。
大金を積めば、少々の傷をつけても文句を言われない。
娼婦たちはそこそこ可愛らしい者が揃っている。
あえて美女揃いにしないのは、客の好みはまちまちだからだ。
身体つきだって、細身の者もいれば、少々太めの者もいる。
他にも性の技巧に長けた者や、素人とほとんど変わらない初な者もいる。
様々な客の要求に応えられる。
そして変わった性癖の客のために、翔太のような男娼もいる。
*****
翔太は裏庭に面した部屋をあてがわれていた。
これはかなりいい待遇だ。
こうして障子を開け放てば、手入れのいい庭を見ることができる。
風を受けながら、季節の移ろいを感じることができるのだ。
広さも1人で過ごすには充分過ぎる。
そもそも1人で部屋が使えるのは、かなりの特権だった。
それもこれも翔太が売れっ子の男娼であるから許されていることだ。
強いて難を言うなら。
この部屋は西向きなので夕方になると少々西日がきつい。
そして勝手口の裏木戸の出入りが見えるのが、たまに酷くつらくなる。
客は表から出入りするから、裏木戸はここで働く者しか使わない。
売られてきたばかりの者も当然ここから入る。
基本的には売られてきた娘たちは、借金を払い終えれば解放される。
だが一生かかっても払いきれず、生きてこの娼館を出られない者だっている。
それを本能的に察した者は、絶望の声を上げて我が身の不運を嘆くのだ。
その慟哭がもれなく感じ取れる場所に、翔太の部屋はあった。
不幸な者の泣き顔や叫びを、否が応でも見聞きすることになる。
そして今、その裏木戸の扉が開いた。
入ってきたのは熊のような風貌の長身の男。
勝手口から裏庭に入って来たのは、男だけではなかった。
まだ子供と呼んでも差し支えないような2人の小柄な少年を連れていた。
おや?
翔太は首を傾げながら3人の姿を凝視した。
確か今日来るのは男の子1人と聞いた気がしたからだ。
*****
「ああ、木佐。ちょうどよかった。」
男は翔太の姿を見ると、ホッとしたような表情になった。
木佐というのは、翔太の店での呼び名だ。
本名の翔太は男娼らしからぬ名前なので、通り名を使っている。
「悪いが、風呂に入れてくれねぇか?」
人相ほど性格は悪くない男が、困ったような声を出す。
男の名は横澤隆史、この娼館の用心棒だ。
娼婦を多く抱えるこの店も、娼館のご多分にもれず、情欲のトラブルが多い。
それを解決するのが、用心棒の主な仕事だ。
荒事が多いが、今日は彼にしては平和な仕事。
借金のカタに売り飛ばされた少年を、引き取りに行ったのだ。
「おいで」
翔太は少年にそっと声をかけた。
すると2人のうちの1人は、転がるようにこちらに駆けて来た。
翔太は腰を落として、少年と目の高さを合わせる。
大きな瞳の少年は、目に涙を浮かべていた。
「俺の顔が怖かったらしい。」
横澤が憮然とした表情でそう言ったので、翔太は思わず吹き出した。
確かに小さな少年には、熊のような大男は怖いだろう。
「挨拶の前に風呂ですか?」
ふと気付いた翔太は、少年の髪を撫でながら聞いた。
この娼館に連れて来られた者は、まずは主に挨拶をするものだ。
「いや千秋じゃなくて、こっちの子供だ。」
横澤は顎をしゃくるようにして、自分の横を示した。
もう1人の少年は横澤の斜め後ろに立ったままだ。
*****
「その子は異国の生まれですか?」
翔太は思わずそう聞いていた。
こちらに走ってきた少年は翔太と同じ、黒い髪に黒い瞳。
だが立ったまま動かない少年は、茶色い髪だ。
伸び放題の髪が顔にかかって表情は見難いが、かろうじてのぞく瞳は何と緑色だった。
確かに茶色い髪の少年はひどく汚れている。
もう何日、下手をすると何ヶ月も風呂に入っていないのだろう。
着物も埃まみれで、何日も着替えていないことがうかがえる。
だがよくよく見ると、元々かなり仕立てのいい着物のようだ。
粗末だが清潔な格好の黒い髪の少年、千秋とは対照的だった。
「その子供は裏の神社の狐だ。人じゃねぇかもしれねぇぞ。」
「え、この子が?」
それは翔太も聞いたことがある噂だった。
この娼館の裏には小さな神社がある。
数年前まで年取った宮司が1人いたが、老齢のため亡くなった。
その後神社には狐が棲み付き、人々に災いをもたらすと言う。
「こんな子供が、狐?」
翔太がもう1度、少年を凝視した瞬間、風が吹いた。
薫風が顔を覆う茶色い髪を揺らして、その顔を曝け出す。
それは息を飲むほど秀麗な美貌だった。
この子はきっと高く売れる。
数多の男と身体を重ねてきた翔太は、ほぼ直感的にそれを理解した。
【続く】
*****
開け放った障子から流れてくる薫風が、初夏の緑の匂いを乗せて流れ込んでくる。
翔太はその心地よさに目を閉じながら、季節の移ろいを感じていた。
ここに売られてきてから、もう何度目の夏だろう。
翔太は指を折って数えようとしたが、ふっと息をつくと首を振った。
考えても仕方がないのだ。
家にかけられた借金のかたとして、翔太の人生は売り払われた。
代金を払う客があれば、昼でも夜でもこの身を差し出さなくてはならない。
男でありながら、嬲られて、玩具にされて、男の吐き出す欲にまみれる。
季節が何度変わろうと、それは決して変わることはないのだから。
翔太は考えることを止めて、立ち上がる。
だがその途端、軽い立ち眩みを感じた。
思い当たる理由はいくつもある。
もう何年もこの館から出た事がないし、必要がなければ部屋からも出ない。
運動不足で、身体はすっかり弱っていた。
それに昨晩の客は、本当にしつこかった。
欲望にまかせて、力任せに翔太を揺さぶり続けたのだ。
しかもそいつはもう何日も連続で、翔太を指名しているのだ。
身体が悲鳴を上げても、無理のないことだ。
それでも翔太は障子に手を置きながら、身体を支えた。
静かに立ち眩みが治まるのを待つ。
どうせ自由がない身なのだ。
せめて自分の立ちたいときに立ち上がり、心のままに風を感じたい。
そんなささやかな抵抗だった。
*****
翔太が暮らしているのは、とある場末の娼館だった。
街外れの古い武家屋敷をそのまま使っており、看板も掲げていない。
だが江戸の遊び人の間では有名だ。
曰く、失望することなくしっかりと欲望を満足させられる店であると。
この娼館では、吉原の太夫のようにもったいぶったことをしない。
襦袢は脱がない、唇は許さない、心は渡さない。
そんな気取ったことは絶対に言わないのだ。
恋しい相手と思い、必死に尽くすこと。
娼婦たちはそう教え込まれている。
つかの間の恋の相手と思うもよし、単に遊び相手の玩具と思うもよし。
金さえ払えば、娼婦たちは何でもさせてくれる。
手荒なことをするのも、金次第だ。
大金を積めば、少々の傷をつけても文句を言われない。
娼婦たちはそこそこ可愛らしい者が揃っている。
あえて美女揃いにしないのは、客の好みはまちまちだからだ。
身体つきだって、細身の者もいれば、少々太めの者もいる。
他にも性の技巧に長けた者や、素人とほとんど変わらない初な者もいる。
様々な客の要求に応えられる。
そして変わった性癖の客のために、翔太のような男娼もいる。
*****
翔太は裏庭に面した部屋をあてがわれていた。
これはかなりいい待遇だ。
こうして障子を開け放てば、手入れのいい庭を見ることができる。
風を受けながら、季節の移ろいを感じることができるのだ。
広さも1人で過ごすには充分過ぎる。
そもそも1人で部屋が使えるのは、かなりの特権だった。
それもこれも翔太が売れっ子の男娼であるから許されていることだ。
強いて難を言うなら。
この部屋は西向きなので夕方になると少々西日がきつい。
そして勝手口の裏木戸の出入りが見えるのが、たまに酷くつらくなる。
客は表から出入りするから、裏木戸はここで働く者しか使わない。
売られてきたばかりの者も当然ここから入る。
基本的には売られてきた娘たちは、借金を払い終えれば解放される。
だが一生かかっても払いきれず、生きてこの娼館を出られない者だっている。
それを本能的に察した者は、絶望の声を上げて我が身の不運を嘆くのだ。
その慟哭がもれなく感じ取れる場所に、翔太の部屋はあった。
不幸な者の泣き顔や叫びを、否が応でも見聞きすることになる。
そして今、その裏木戸の扉が開いた。
入ってきたのは熊のような風貌の長身の男。
勝手口から裏庭に入って来たのは、男だけではなかった。
まだ子供と呼んでも差し支えないような2人の小柄な少年を連れていた。
おや?
翔太は首を傾げながら3人の姿を凝視した。
確か今日来るのは男の子1人と聞いた気がしたからだ。
*****
「ああ、木佐。ちょうどよかった。」
男は翔太の姿を見ると、ホッとしたような表情になった。
木佐というのは、翔太の店での呼び名だ。
本名の翔太は男娼らしからぬ名前なので、通り名を使っている。
「悪いが、風呂に入れてくれねぇか?」
人相ほど性格は悪くない男が、困ったような声を出す。
男の名は横澤隆史、この娼館の用心棒だ。
娼婦を多く抱えるこの店も、娼館のご多分にもれず、情欲のトラブルが多い。
それを解決するのが、用心棒の主な仕事だ。
荒事が多いが、今日は彼にしては平和な仕事。
借金のカタに売り飛ばされた少年を、引き取りに行ったのだ。
「おいで」
翔太は少年にそっと声をかけた。
すると2人のうちの1人は、転がるようにこちらに駆けて来た。
翔太は腰を落として、少年と目の高さを合わせる。
大きな瞳の少年は、目に涙を浮かべていた。
「俺の顔が怖かったらしい。」
横澤が憮然とした表情でそう言ったので、翔太は思わず吹き出した。
確かに小さな少年には、熊のような大男は怖いだろう。
「挨拶の前に風呂ですか?」
ふと気付いた翔太は、少年の髪を撫でながら聞いた。
この娼館に連れて来られた者は、まずは主に挨拶をするものだ。
「いや千秋じゃなくて、こっちの子供だ。」
横澤は顎をしゃくるようにして、自分の横を示した。
もう1人の少年は横澤の斜め後ろに立ったままだ。
*****
「その子は異国の生まれですか?」
翔太は思わずそう聞いていた。
こちらに走ってきた少年は翔太と同じ、黒い髪に黒い瞳。
だが立ったまま動かない少年は、茶色い髪だ。
伸び放題の髪が顔にかかって表情は見難いが、かろうじてのぞく瞳は何と緑色だった。
確かに茶色い髪の少年はひどく汚れている。
もう何日、下手をすると何ヶ月も風呂に入っていないのだろう。
着物も埃まみれで、何日も着替えていないことがうかがえる。
だがよくよく見ると、元々かなり仕立てのいい着物のようだ。
粗末だが清潔な格好の黒い髪の少年、千秋とは対照的だった。
「その子供は裏の神社の狐だ。人じゃねぇかもしれねぇぞ。」
「え、この子が?」
それは翔太も聞いたことがある噂だった。
この娼館の裏には小さな神社がある。
数年前まで年取った宮司が1人いたが、老齢のため亡くなった。
その後神社には狐が棲み付き、人々に災いをもたらすと言う。
「こんな子供が、狐?」
翔太がもう1度、少年を凝視した瞬間、風が吹いた。
薫風が顔を覆う茶色い髪を揺らして、その顔を曝け出す。
それは息を飲むほど秀麗な美貌だった。
この子はきっと高く売れる。
数多の男と身体を重ねてきた翔太は、ほぼ直感的にそれを理解した。
【続く】
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