愛してる5題

【傾いた天秤】

*木佐さんは原作と同じ三十路の編集者、雪名は9歳年上の画家という設定です*

傾いた天秤はもう揺れることはない。
木佐翔太は雪名と恋に堕ちたその日からずっとそう思っている。

翔太?久しぶり!
繁華街の書店前でいきなり声をかけられ、振り返った木佐は顔をしかめた。
声の主はかつて木佐と身体だけの関係-いわゆる「セフレ」だった男だ。
男は木佐の表情を見て「そんな嫌な顔すんなよ」とヘラヘラ笑っている。
木佐は早く男に消えて欲しかった。
恋人である雪名と待ち合わせをしているのだ。
誰彼かまわず遊んでいた頃の「セフレ」と話してるところなんか見られたくない。

なぁ。あの何とかいう男とはまだ続いてんの?
男は木佐の隣に立つと、馴れ馴れしく肩に腕を回してくる。
そして耳元で「また俺と遊ばない?彼氏には内緒で」と囁く。
木佐は「やなこった!」と叫んで、男の腕を跳ね除けようとした。
だが男は予想していたようで、さらに腕に力を込めると、小柄な木佐の身体を押さえ込む。

これ、覚えてる?
男はポケットからガラスの瓶を取り出すと、これ見よがしに木佐の目の前にかざす。
木佐の顔から血の気が引いた。
小さな茶色の小瓶は一見すると、ドリンク剤のように見える。
だか中身は怪しい非合法な薬だ。
冗談じゃないと男の腕を外そうとした瞬間、男の腕が別の男の手で外され、ねじ上げられた。

彼にこれ以上、つきまとうな。
威嚇するような低い声と共に男を睨んでいるのは、恋人の雪名だった。
男より上背もあるし、何よりも美人が怒ると迫力が増す。
付きまとっていた男は、早々に退散していった。
だが最悪の場面を見られた木佐は、頭を抱えたい気分だった。

*****

もうあの男とは関係ない。偶然会ってからまれただけだから。
木佐は雪名にきっぱりとそう告げた。

行きつけの書店が同じで、顔見知りになった雪名と恋人になって約半年。
それまでは若く見える外見を利用して、行きずりの男と平気で寝ていた。
面食いなので、選ぶ男は外見重視。
うまく振舞えば、相手から金を引き出すこともできる。
男好きで一生結婚などできないだろうから、せめて面白おかしく生きようと思っていた。

だが雪名と知り合って、初めて本当の恋を知った。
9歳年上、大人の男の落ち着いた魅力で、木佐を受け止めてくれる。
遊び放題だった過去も許してくれた。
そしてその下に隠れた照れ屋でシャイな本当の木佐を見つけてくれた。

いろいろな男の間でフラフラと天秤のように揺れた木佐。
だが雪名に傾いた天秤はもう揺れることはない。
木佐は雪名と恋に堕ちたその日からずっとそう思っている。

今日は木佐の家に雪名が泊まることになっていた。
有名な画家、しかも秀麗な容姿の雪名は目立つ。
だからデートはどちらかの自宅であることが多い。
本当は一緒に住んでしまいたいが、世間体もある。

雪名を自宅マンションに招き入れた木佐は、着替えようとして気付いた。
コートのポケットに入っていた、木佐の持ち物ではない異物。
それはあの男が持っていた茶色の小瓶だった。

何のつもりだと思った。
実はあの男と寝たときに、あの薬を使われたことがある。
半分は飲まされ、残りを身体の中に塗り込まれたのだ。
強烈な快楽に理性を飛ばされ、のた打ち回った記憶が蘇る。
木佐は怒りに震えながら、瓶の中身をキッチンのシンクに捨てようとした。

そこでふと手が止まる。
雪名はベットの中でも優しく、木佐をまるでお姫様のように扱う。
それはとても嬉しいが、時折物足りなくなる感じるのだ。
たまにでいいから激しく抱かれたい。
だが雪名にそれを言うのは、躊躇われた。
遊び放題の過去も知られている上、そんなことを言えば淫乱と思われるだろう。

でもこの薬の力を借りれば。
ほんの少しだけ、こっそりと雪名に飲ませれば、変わるかもしれない。
箍が外れたみたいに、激しくメチャメチャに抱いてもらえるかもしれない。

木佐は中身を捨てずに、キッチンの調味料の棚の奥に瓶を隠した。
買い置きの醤油の瓶の裏だ。
雪名は料理好きでキッチンに立つこともあるが、ここならわからないだろう。

薬を使う日がくるのかどうかは、わからない。
だけどそのチャンスは取っておいた方がいいような気がした。

*****

自分の方に傾いた天秤が、いつまでも止まっていてくれるのか。
雪名には自信がなかった。

雪名皇は美大を卒業したものの、売れない時期が続いた。
何度画家の道をあきらめようと思ったことだろう。
それでも30歳までは、我儘を通そうと思った。
バイトで食いつなぎながら絵を描き続け、最後と決めた30歳のときに描いた絵が傑作という評価を得た。
雪名はギリギリのところで、画家としての成功の切符を手に入れたのだ。

そんなに美人で、しかも有名な画家がどうして俺なんかを好きになったの?
付き合い始めた頃、木佐は雪名にそう聞いた。
答えは簡単、木佐は雪名を特別扱いしないからだ。
かつて付き合った女はいつまでも売れない雪名を捨てたくせに、画家として成功すると復縁したいと言う。
冷たかった両親や兄も、友人たちも似たようなものだ。
有名になってから知り合う人間は、雪名に媚を売る。
雪名を1人の男として見てくれる木佐に、雪名は本気で恋をしている。

何か作るよ、と雪名は木佐に声をかける。
どちらかの家で過ごすとき、料理をするのは雪名の担当だ。
雪名の都合で外食をしないのだし、美味しいと言って食べてくれる木佐の笑顔が好きなのだ。
そこで雪名は棚の奥に隠された茶色の小瓶を見つけた。
木佐は家では全然料理をしないのに、調味料の位置が変わっていたのだ。

先程男が木佐に見せていた瓶だろう。
男が木佐と寝たことがあるというのも、男の態度から想像できる。
そうなると瓶の中身はいわゆる媚薬と呼ばれるドラッグではないかと想像できる。

何のつもりだと思った。
もうあの男とは関係ないと言い切ったくせに、こんなものを受け取るとは。
自分と付き合いながら、あの男とも関係をもちたいというのだろうか。
それともまさか木佐は自分を捨てるつもりなのか。
雪名は怒りに震えながら、瓶の中身をキッチンのシンクに捨てようとした。

そこでふと手が止まる。
木佐は雪名のセックスをとても優しいと言う。
大事にされてるみたいで嬉しいと言う。
だがそれは自信のなさの表れだ。
いろいろな男と関係を持った木佐は経験豊富だ。
自分の好きなように抱いて、下手だなどと思われて、心が離れたら。
もうすぐ40歳、容貌が衰えていくのに、歳若くかわいい恋人を引き止めておけるとは思えない。

でもこの薬の力を借りれば。
ほんの少しだけ、こっそりと木佐に飲ませれば、変わるかもしれない。
快楽でドロドロにして、自分から離れられなくすることもできるかもしれない。

雪名は中身を捨てずに、小瓶を元の場所に戻した。
だがすぐに思い直すと、自分の鞄に入れてあったミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
飲みかけの水を捨てて、小瓶の中の液体を木佐に気付かれない程度の少量だけボトルに移した。
そして今度こそもう1度、雪名は小瓶を元の場所に戻した。

薬を使う日がくるのかどうかは、わからない。
だけどそのチャンスは取っておいた方がいいような気がした。

*****

1人の男に傾いた天秤になど用はない。
男は久しぶりに出会った木佐の顔を思い浮かべて、冷たい笑みを浮かべた。

男の生業は、非合法な薬物の売買だ。
今日も依頼された薬を客に渡し、金を受け取るはずだった。
だが指定された場所に向かう途中で、尾行されていることに気付いた。

尾行しているのは組関係の人間か、それとも刑事か。
とにかくこちらが尾行に気づいたこともバレた。
もし身柄を押さえられた時に、薬を持っていたらヤバい。

そんなときに偶然目に入ったのが、何回か寝たことがある男だった。
咄嗟に声をかけ、コートのポケットに薬を落とした。
その直後、尾行してきた男-刑事に声をかけられ、持ち物をチェックされた。
どうやら今日の売買自体が警察の罠だったらしい。
だが何も持っていなかったことで、すぐに釈放だ。
木佐と話していたのは見られずにすんだのが、幸いだった。
悔しそうな刑事の顔を思い出すと、愉快でならない。

そして木佐の事を思い出す。
男なんか抱けないと思っていたが、木佐を知って考えが変わった。
かわいらしい童顔と、感じやすくて淫らな身体のギャップがいい。
好きな男ができたからもう会わないと言われたときには少々ヘコんだ。

今日の薬は以前木佐に使った薬とは違う。
効能は同じだが、もっとずっと濃い。
ほんの数滴で天国へ行けるし、前のように瓶の半分も飲めば命も危ない。
木佐が自分で飲むか、捨てるか、惚れた男に飲ませるか。
どれを選ぼうが、自分の知ったことではないが。

男はフラフラと揺れる天秤のような、危うい木佐に惹かれていた。
1人の男に傾いた天秤になど用はない。
男は久しぶりに出会った木佐の顔を思い浮かべて、冷たい笑みを浮かべた。

【終】
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