狂宴舞踏会
【BGMは悲鳴に怒声、泣き声笑い声】
気配が変わった。
それを最初に察知できたのは、おそらく長年の秘書の勘だ。
朝比奈薫は居心地の悪さを感じていた。
このパーティが異様であることに気が付いていたからだ。
そもそもセレブが集まるダンスパーティってだけで、庶民には敷居が高い。
ホールの中央で踊る若者や、楽しそうに談笑する大人たちからは独特のにおいがする。
生まれながらに家柄に恵まれた者だけが持つ、どこか高慢な雰囲気だ。
21世紀、平成のこのご時世に政略結婚が当たり前な世界の住民たち。
気持ちよりも利害や世間体が優先することに、少しも疑問を感じていない。
そんな者たちが数多く集まるこの場には、狂気が渦巻いているようにさえ思える。
それなのに肝心な、本当に友人として招かれた者たちは、この雰囲気に圧倒されているのだ。
そう、例えば本心から純粋に小野寺律の幸せを願う、エメラルド編集部の者たちなどが。
明確な言葉にできなくても、感じ取っているのだろう。
幼い頃から親子で井坂の家に仕えている朝比奈には、この不条理さはよくわかる。
そんな救いようのないパーティでの唯一の救い。
それは主であり恋人の井坂龍一郎が、笑ってはいるがこの雰囲気に辟易していることだ。
社長令息として生まれながら、きちんと人の心が見える。
そんなところも井坂の魅力の1つなのだ。
とにかく早く終わって欲しい。
朝比奈はそんなことを思いながら、井坂の隣で人々を観察していた。
井坂にとって有用な人間、そうでない人間。
頭の中で無意識にそれを分別してしまうのは、もはや秘書の職業病だ。
だがそうしているうちに、いち早くこの会場の変化に気付いたのだった。
気配が変わった。
それを最初に察知できたのは、おそらく長年の秘書の勘だ。
井坂の横でじっと耐え、小野寺律に狂おしいほどの視線を送り続けた高野。
その高野は今は静かに壁際に立っている。
トラブルを起こしてほしくないこちらとしては、好都合ではある。
だが不自然な静けさだった。
何か事を起こすために、今は注目を集めないように、ひたすらおとなしくしている。
そんな印象を受けたのだ。
「高野さん、大丈夫ですか?」
不安になった朝比奈は、ついに高野に声をかけた。
決して高野の身を案じてではなく、井坂が巻き込まれることを心配しての言葉だ。
高野は一瞬キョトンとした表情になったが、その直後に吹き出した。
そして「さすがですね」と不敵な笑みを見せる。
さらに高野は朝比奈の耳元に口を寄せて「帰るなら、今ですよ」と囁いたのだ。
つまりこれから何かが起こる。高野が仕掛けるのだ。
それを感じ取った朝比奈の言葉を否定すらしないところに、高野の覚悟の重さを感じた。
何とかしなければと思うのだが、何をしたらいいのだろう。
朝比奈は雰囲気を感じただけで、高野が実際に何をするつもりなのかはわからないのだ。
まさか高野を拘束するようなことはできないし、何を警戒したらいいのか見当もつかない。
「龍一郎様、少しいいですか」
考えあぐねた朝比奈は、井坂に声をかけた。
高野はうっすらと不気味な笑みを浮かべながら、そんな朝比奈を見つめていた。
*****
「引き返すなら、今しかないよ」
これは律からの最後の決断だ。
それを悟った杏は席を立つと、小走りで両親のいる場所へ向かった。
井坂の秘書、朝比奈が異変に気付いた直後。
このパーティの主役の1人である杏も、ただならぬ雰囲気に気付いた。
それは友人たちとダンスを踊って、席に戻ってからのこと。
ずっと無表情のまま、まったく動かなかった婚約者が短い間に何度か席を立ったのだ。
そして何度も壁際に立つ男と視線を交わしている。
それがあの律の隣の部屋に住んでいた男だと分かった途端、心臓が不穏なリズムを刻み始めたのだ。
律はまだあの人のことを想っている。
そんなのは初めからわかっていたことだ。
それでも律が好きだったから、この縁談を受けたのだ。
律の心が自分にないことなど、承知の上だ。
それでもこんなにも堂々と、目の前で視線を交わされるのは不快だった。
そしてそれ以上に、何かが起きるような胸騒ぎが止まらない。
意を決した律は、恐る恐る律に話しかけた。
「律っちゃん、あの人と」
「杏ちゃん、ごめんね。俺はやっぱり高野さんが好きだ。」
律は杏の言葉を遮って、きっぱりとそう告げた。
今までは杏が何を言っても、絶対に途中で話を切るようなことはしなかったのに。
杏の中でますます、不吉な予感が広がった。
「あの人は俺をここから出すために動く。俺はついて行こうと思う。」
「律っちゃん」
「その前に俺を振ってくれていいよ。今ケンカをしたことにして、怒って、婚約解消すればいい。」
「何を言ってるの?」
「そうすれば杏ちゃんは、恥をかかずに済む。」
「悪い冗談はやめてよ!」
あくまでもタチの悪い冗談だと思いたかった。
だけど律は真剣な表情のまま、じっと杏を見ている。
先に視線を逸らしたのは杏の方だった。
だが律はおかまいなしに言葉を続けた。
「引き返すなら、今しかないよ」
これは律からの最後の決断だ。
それを悟った杏は席を立つと、小走りで両親のいる場所へ向かった。
今さら諦めるなんて、絶対にできない。
それならばもうなりふり構わず、律と杏の両親たちに頼むしかない。
何としてもあの隣の男を止めてもらうのだ。
杏は双方の両方の両親たちが歓談している輪に飛び込んだ。
律は静かに席に座ったまま、杏の姿を目で追いかけていた。
*****
「なんかボイラー室みたいな場所に、爆弾みたいな箱があったよ~」
酔っ払って呂律が回らない吉野が、しまらない口調でそう言った。
だが聞き捨てならないその内容に、羽鳥は柳瀬と顔を見合わせた。
何が起きている?
羽鳥はにわかに慌ただしくなったホールを見回していた。
まず高野と何か話していた朝比奈が、表情を強張らせたまま井坂と何か話している。
その直後、律の婚約者の女の子が、ただならぬ様子で席を立った。
そしておそらく彼女の両親と思われる中年の夫婦のところへ駆け寄り、何かを訴えていた。
この時点ではまだ異変に気付いている者は少なかった。
大多数の客は、ダンスを踊ったり、酒や食事を楽しんだり、談笑している。
そして羽鳥の恋人は酒が過ぎてしまい、かなりデキ上がっていた。
トロンとした目で「トリも、飲みなよ~♪」などとしな垂れかかってくる。
羽鳥は強制的に吉野を椅子に座らせてから、ホールで飲み物を配って回っている男を手招きした。
「何かあったか?」
羽鳥が呼び寄せたのは、なぜかこのパーティでウエイターをしている柳瀬だ。
昔からウマが合わないので、普段はわざわざ自分から話をすることはほとんどない。
だが今はそんなことを言っていられなかった。
「今、このホールで起こっていることはよくわからないが。。。」
柳瀬もいつものように突っかかって来ることはなかった。
だが臨時とはいえ、従業員である柳瀬にも情報はないらしい。
すると完全に寝落ちしていたと思われた吉野が、不意にパッチリと目を開けた。
酔っ払い、まだ寝ておけ!
羽鳥が心の中でそう思い、おそらく柳瀬も思っただろう。
だが吉野はお構いなしに、口を開いた。
「なんかボイラー室みたいな場所に、爆弾みたいな箱があったよ~」
酔っ払って呂律が回らない吉野が、しまらない口調でそう言った。
だが聞き捨てならないその内容に、羽鳥は柳瀬と顔を見合わせた。
爆弾?まさか。いくら何でも。
羽鳥は首を振って否定したが、柳瀬は「もしかして」と呻いた。
「高野さんは多分。。。銃を持ってる。」
柳瀬は羽鳥にだけ聞こえるように声を落として、そう告げた。
羽鳥は「そんなことが」と言いかけて口を噤んだ。
変だと思ったのだ。
アシスタントとしては有能で、多くの作家からの仕事が止まない多忙な柳瀬がここにいる理由。
高野が銃を入手したことを知って、このパーティにまぎれ込んだということか。
「ボイラー室を確認してくる。」
柳瀬はそう告げると、足早に離れていく。
拳銃。爆弾。そんなものを高野が用意したのだとしたら。
羽鳥はその後姿を見送りながら、懸命に最善策を考えた。
爆弾が爆発し、拳銃が発砲されたら。
BGMは悲鳴に怒声、泣き声、もしかしたら高野の笑い声。
この場はきっとパニックになり、もしかしたら死傷者が出る。
羽鳥は恐ろしい想像に首を振ると、ホールの中を見回す。
相変わらず壁際に立つ高野は、席に座る律と意味あり気に視線を交わしていた。
【続く】
気配が変わった。
それを最初に察知できたのは、おそらく長年の秘書の勘だ。
朝比奈薫は居心地の悪さを感じていた。
このパーティが異様であることに気が付いていたからだ。
そもそもセレブが集まるダンスパーティってだけで、庶民には敷居が高い。
ホールの中央で踊る若者や、楽しそうに談笑する大人たちからは独特のにおいがする。
生まれながらに家柄に恵まれた者だけが持つ、どこか高慢な雰囲気だ。
21世紀、平成のこのご時世に政略結婚が当たり前な世界の住民たち。
気持ちよりも利害や世間体が優先することに、少しも疑問を感じていない。
そんな者たちが数多く集まるこの場には、狂気が渦巻いているようにさえ思える。
それなのに肝心な、本当に友人として招かれた者たちは、この雰囲気に圧倒されているのだ。
そう、例えば本心から純粋に小野寺律の幸せを願う、エメラルド編集部の者たちなどが。
明確な言葉にできなくても、感じ取っているのだろう。
幼い頃から親子で井坂の家に仕えている朝比奈には、この不条理さはよくわかる。
そんな救いようのないパーティでの唯一の救い。
それは主であり恋人の井坂龍一郎が、笑ってはいるがこの雰囲気に辟易していることだ。
社長令息として生まれながら、きちんと人の心が見える。
そんなところも井坂の魅力の1つなのだ。
とにかく早く終わって欲しい。
朝比奈はそんなことを思いながら、井坂の隣で人々を観察していた。
井坂にとって有用な人間、そうでない人間。
頭の中で無意識にそれを分別してしまうのは、もはや秘書の職業病だ。
だがそうしているうちに、いち早くこの会場の変化に気付いたのだった。
気配が変わった。
それを最初に察知できたのは、おそらく長年の秘書の勘だ。
井坂の横でじっと耐え、小野寺律に狂おしいほどの視線を送り続けた高野。
その高野は今は静かに壁際に立っている。
トラブルを起こしてほしくないこちらとしては、好都合ではある。
だが不自然な静けさだった。
何か事を起こすために、今は注目を集めないように、ひたすらおとなしくしている。
そんな印象を受けたのだ。
「高野さん、大丈夫ですか?」
不安になった朝比奈は、ついに高野に声をかけた。
決して高野の身を案じてではなく、井坂が巻き込まれることを心配しての言葉だ。
高野は一瞬キョトンとした表情になったが、その直後に吹き出した。
そして「さすがですね」と不敵な笑みを見せる。
さらに高野は朝比奈の耳元に口を寄せて「帰るなら、今ですよ」と囁いたのだ。
つまりこれから何かが起こる。高野が仕掛けるのだ。
それを感じ取った朝比奈の言葉を否定すらしないところに、高野の覚悟の重さを感じた。
何とかしなければと思うのだが、何をしたらいいのだろう。
朝比奈は雰囲気を感じただけで、高野が実際に何をするつもりなのかはわからないのだ。
まさか高野を拘束するようなことはできないし、何を警戒したらいいのか見当もつかない。
「龍一郎様、少しいいですか」
考えあぐねた朝比奈は、井坂に声をかけた。
高野はうっすらと不気味な笑みを浮かべながら、そんな朝比奈を見つめていた。
*****
「引き返すなら、今しかないよ」
これは律からの最後の決断だ。
それを悟った杏は席を立つと、小走りで両親のいる場所へ向かった。
井坂の秘書、朝比奈が異変に気付いた直後。
このパーティの主役の1人である杏も、ただならぬ雰囲気に気付いた。
それは友人たちとダンスを踊って、席に戻ってからのこと。
ずっと無表情のまま、まったく動かなかった婚約者が短い間に何度か席を立ったのだ。
そして何度も壁際に立つ男と視線を交わしている。
それがあの律の隣の部屋に住んでいた男だと分かった途端、心臓が不穏なリズムを刻み始めたのだ。
律はまだあの人のことを想っている。
そんなのは初めからわかっていたことだ。
それでも律が好きだったから、この縁談を受けたのだ。
律の心が自分にないことなど、承知の上だ。
それでもこんなにも堂々と、目の前で視線を交わされるのは不快だった。
そしてそれ以上に、何かが起きるような胸騒ぎが止まらない。
意を決した律は、恐る恐る律に話しかけた。
「律っちゃん、あの人と」
「杏ちゃん、ごめんね。俺はやっぱり高野さんが好きだ。」
律は杏の言葉を遮って、きっぱりとそう告げた。
今までは杏が何を言っても、絶対に途中で話を切るようなことはしなかったのに。
杏の中でますます、不吉な予感が広がった。
「あの人は俺をここから出すために動く。俺はついて行こうと思う。」
「律っちゃん」
「その前に俺を振ってくれていいよ。今ケンカをしたことにして、怒って、婚約解消すればいい。」
「何を言ってるの?」
「そうすれば杏ちゃんは、恥をかかずに済む。」
「悪い冗談はやめてよ!」
あくまでもタチの悪い冗談だと思いたかった。
だけど律は真剣な表情のまま、じっと杏を見ている。
先に視線を逸らしたのは杏の方だった。
だが律はおかまいなしに言葉を続けた。
「引き返すなら、今しかないよ」
これは律からの最後の決断だ。
それを悟った杏は席を立つと、小走りで両親のいる場所へ向かった。
今さら諦めるなんて、絶対にできない。
それならばもうなりふり構わず、律と杏の両親たちに頼むしかない。
何としてもあの隣の男を止めてもらうのだ。
杏は双方の両方の両親たちが歓談している輪に飛び込んだ。
律は静かに席に座ったまま、杏の姿を目で追いかけていた。
*****
「なんかボイラー室みたいな場所に、爆弾みたいな箱があったよ~」
酔っ払って呂律が回らない吉野が、しまらない口調でそう言った。
だが聞き捨てならないその内容に、羽鳥は柳瀬と顔を見合わせた。
何が起きている?
羽鳥はにわかに慌ただしくなったホールを見回していた。
まず高野と何か話していた朝比奈が、表情を強張らせたまま井坂と何か話している。
その直後、律の婚約者の女の子が、ただならぬ様子で席を立った。
そしておそらく彼女の両親と思われる中年の夫婦のところへ駆け寄り、何かを訴えていた。
この時点ではまだ異変に気付いている者は少なかった。
大多数の客は、ダンスを踊ったり、酒や食事を楽しんだり、談笑している。
そして羽鳥の恋人は酒が過ぎてしまい、かなりデキ上がっていた。
トロンとした目で「トリも、飲みなよ~♪」などとしな垂れかかってくる。
羽鳥は強制的に吉野を椅子に座らせてから、ホールで飲み物を配って回っている男を手招きした。
「何かあったか?」
羽鳥が呼び寄せたのは、なぜかこのパーティでウエイターをしている柳瀬だ。
昔からウマが合わないので、普段はわざわざ自分から話をすることはほとんどない。
だが今はそんなことを言っていられなかった。
「今、このホールで起こっていることはよくわからないが。。。」
柳瀬もいつものように突っかかって来ることはなかった。
だが臨時とはいえ、従業員である柳瀬にも情報はないらしい。
すると完全に寝落ちしていたと思われた吉野が、不意にパッチリと目を開けた。
酔っ払い、まだ寝ておけ!
羽鳥が心の中でそう思い、おそらく柳瀬も思っただろう。
だが吉野はお構いなしに、口を開いた。
「なんかボイラー室みたいな場所に、爆弾みたいな箱があったよ~」
酔っ払って呂律が回らない吉野が、しまらない口調でそう言った。
だが聞き捨てならないその内容に、羽鳥は柳瀬と顔を見合わせた。
爆弾?まさか。いくら何でも。
羽鳥は首を振って否定したが、柳瀬は「もしかして」と呻いた。
「高野さんは多分。。。銃を持ってる。」
柳瀬は羽鳥にだけ聞こえるように声を落として、そう告げた。
羽鳥は「そんなことが」と言いかけて口を噤んだ。
変だと思ったのだ。
アシスタントとしては有能で、多くの作家からの仕事が止まない多忙な柳瀬がここにいる理由。
高野が銃を入手したことを知って、このパーティにまぎれ込んだということか。
「ボイラー室を確認してくる。」
柳瀬はそう告げると、足早に離れていく。
拳銃。爆弾。そんなものを高野が用意したのだとしたら。
羽鳥はその後姿を見送りながら、懸命に最善策を考えた。
爆弾が爆発し、拳銃が発砲されたら。
BGMは悲鳴に怒声、泣き声、もしかしたら高野の笑い声。
この場はきっとパニックになり、もしかしたら死傷者が出る。
羽鳥は恐ろしい想像に首を振ると、ホールの中を見回す。
相変わらず壁際に立つ高野は、席に座る律と意味あり気に視線を交わしていた。
【続く】