狂宴舞踏会
【破滅の舞踏曲を踊りませ】
これがセレブのダンスパーティか。
雪名は華やかな世界に、ただただ圧倒されていた。
雪名がこのパーティに紛れ込めたのは、運が良かったからだ。
美大生である雪名は、他の大学に通う画家志望の学生と親交がある。
その中に、日本最高峰の美術学校と音楽学校を備えた芸術大学があった。
今日、生演奏をしているのはそこの音大卒の音楽家だ。
そして今日のパーティで、器材搬入の手伝いをしてくれる学生を捜していたのだ。
交通費しか出ないので誰もやらないという話を聞き、雪名が名乗りを上げたのだ。
もちろん単なる無料奉仕なんていうつもりはない。
このパーティが、恋人である木佐の元同僚の婚約披露パーティだと知っている。
もちろん雪名には何の関係もないので、呼ばれてなどいない。
それでも何とかこの場に居合わせたいと思ったのには、理由がある。
「何かすごく嫌な予感がするんだ。」
このパーティの招待状を受け取った木佐は、雪名にそう言った。
そしてその表情は、わかりやすく落ち込んでいた。
よくよく聞けば、職場で付き合っていた2人が無理矢理別れさせられた。
そして会社を辞めた片割れと別の女性との婚約披露なのだという。
それを聞いた雪名は「確かに行く気が起きませんね」と言った。
男同士の交際を親に反対され、引き裂かれる。
それは雪名にとっても、他人事とは思えなかった。
「それだけじゃないんだ。何だかよくないことが起きる気がする。」
木佐は冴えない表情で、要領を得ない言葉を繰り返す。
おそらく木佐は本能的に悪い予感がするというだけで、論理的な根拠はないのだろう。
だが無視することなどできなかった。
落ち込んでいる木佐は何度も見たが、こんなに怯えているのは初めて見たからだ。
だからこそ雪名は何とかして参加する方法を捜しまくり、まぎれこむことに成功した。
これがセレブのダンスパーティか。
雪名は華やかな世界に、ただただ圧倒されていた。
アンサンブルのメンバーの指示で、楽器や譜面、譜面台などの備品を搬入する。
そしてセッティングが済んでしまうと、パーティが終わるまでは暇なのだ。
だからもっぱら雪名は、じっくりとパーティを観察することにした。
木佐のことはすぐに見つけた。
やはりこういう場だから明るく振る舞っているが、笑顔がどこかぎこちない。
今も不吉な胸騒ぎに、落ち着かないのだろう。
少しの異変も見逃さないようにしなくてはと雪名が目を凝らした瞬間、それを見つけた。
入口付近に、なにかが落ちている。
雪名は小走りで近づき、拾い上げた。
それは男物の長財布だった。
茶色の革製で、おそらくは高級品だ。
きっと今日の客の誰かの落し物だろう。
届けるにしても、誰に渡そうかと迷った瞬間「律っちゃんの財布だよね?」と背後から声がする。
振り返ると、今日の主賓であるカップルの女性が、婚約者の腕を引きながら、こちらに歩いてくる。
この人が木佐さんの元同僚、だよな。
雪名は美貌の青年に、財布を渡す。
青年はぎこちない表情のまま受け取ると「ありがとうございます」と頭を下げた。
*****
早く、この茶番が終わってくれ。そうでないとヤバい。
律はイライラと落ち着かない気分を隠すのに必死だった。
もう高野とは一生逢うことはないと思っていた。
残りの人生に、もう希望など持てそうにない。
この婚約披露パーティだって、律にとって苦痛なだけのつまらないものだ。
もう心には、何の感情も浮かばない。
だがパーティの客の中に高野を見つけたとき、忘れていた激しい感情が溢れ始めた。
初めは、最後にその姿を見られただけでいいと思った。
ただひたすら彼の幸せだけを祈ろうと思った。
だけど時間が経つにつれ、凶暴な気持ちがこみ上げてくる。
やっぱり好きだし、離れたくない。
このまま何もかも振り捨てて、高野と一緒に逃げてしまいたい。
だがそれが無理であることもわかっていた。
実はこの会場には、律の両親が雇ったセキュリティサービスの人間も混じっているのだ。
彼らはさり気なく律を監視している。
律がこっそりとこのホテルを出るなんて、ほぼ不可能だろう。
早く、この茶番が終わってくれ。そうでないとヤバい。
律はイライラと落ち着かない気分を隠すのに必死だった。
このままでは叫び出してしまいそうだ。
わけのわからないことをわめき散らして、暴れたくなる。
そうなればすぐに監視している男たちに取り押さえられるだろうが。
「律っちゃんの財布だよね?」
不意に杏に呼ばれた律は、慌てて我に返った。
美貌の青年が、見覚えのある財布を手にして、立っている。
確かにそれは律の財布だった。
「ありがとうございます」
律は財布を受け取ると、青年に頭を下げた。
まったく抜けているにも程がある。
この財布は高野からプレゼントされた大事なものなのだ。
写真も何もかも、高野との思い出になりそうなものは全て捨てた。
今はもう唯一これだけが、律と高野を繋ぐ絆なのだ。
それをこれからの心の支えにしようと思っていたのに、よりによって落としてしまうなんて。
律は呼吸を整えると、財布をスーツの内ポケットに入れようとして「あ」と声を上げた。
いつもの定位置に律の財布はきちんと収まっていたのだ。
ではこの財布はいったい誰の?
そう考えたとき、律は今度こそ叫び出しそうになり、慌てて堪えた。
律が使っているのとまったく同じ財布が落ちていたのが、偶然とは考えにくい。
ではどういうことかと考えた時に、閃いたのだ。
こんなことができる人物は、この場に1人しかいないことに。
「律さん、どちらへ?」
急いで確認したくて、律はホールを出ようとする。
すると数人の男たちが、すっと律に近づいてきて、取り囲んだ。
口調こそ丁寧だが、有無を言わせぬ物言いだ。
「トイレです。一緒に来てもいいですけど、個室には入ってこないで下さいね。」
律がそう答えて歩き出すと、男たちもゾロゾロとついてくる。
本当は走り出したいのを我慢しながら、律はゆっくりとした足取りでホールを出て、トイレに向かう。
律を監視する男たちは、個室に誰もいないことを確認すると、律を1人で入らせてくれた。
よし、ここまでは成功だ。
律は久し振りに高揚する気持ちを押さえながら、渡された財布の中身を確認した。
そして中から一枚のメモを発見したのだった。
*****
作戦は始まった。後はもう突き進むだけだ。
高野はウォールフラワーよろしく、壁際で静かに佇んでいた。
高野は何としても律を連れ出すと決めてはいたが、迷いがまったくないわけではなかった。
かわいい嫁をもらって、家を継ぐ。
それは確かに律にとって、幸せの形だ。
そう思う気持ちが、心のどこかにあったのだ。
だけど律は、出席者の中に高野を見つけてからは、ずっと高野を見ている。
最初は健気に何かを堪えているような表情だったが、次第に変化していった。
何か言いたそうな、いや何かを叫びたそうな顔だ。
それを見て、高野のわずかな迷いは完全に吹き飛んだ。
もうやるしかない。律も賛成してくれるはずだ。
高野は最初の行動を起こした後は、ずっと壁際に立っていた。
ホールで踊る者たちを見て、楽しんでいるという体を装う。
高野の素性を知らない女性客が、何人もダンスを申し込んでくる。
だが「不調法なもので、踊れないんです」と申し訳なさそうにことわった。
「ウォールフラワーか、お前は。」
井坂がそんな高野のところにやって来て、ツッコミを入れた。
ウォールフラワー、つまり壁の花。
ダンスパーティーなどでパートナーがおらず、壁際で佇んでいることを意味する言葉だ。
「花なんてガラじゃないですよ。」
高野が苦笑すると、井坂も笑った。
今はとにかく何でもない顔をしていることが大事だ。
ただただ恋人との最後の別れを惜しむ、ただの男を演じきるのだ。
ここに来て、律が数人のゴツい男たちに監視されていることもわかった。
まともに腕力で勝負しても、勝ち目はない。
「酒、飲まないのか?」
「悪酔いしそうなので、遠慮しておきます。」
「・・・ふうん?」
井坂はまだ完全に、高野に対する疑いを解いていないようだ。
勘の鋭い井坂を騙せるなら、他の人間も欺けると思うのだがむずかしい。
高野はひたすら待っていた。
律に高野の計画が伝わって、OKの合図が来るのを。
雪名が拾って律の手に渡った財布は、実は高野の持ち物だった。
律にプレゼントしたときに、同じものを自分にも買ったのだ。
偽造したショップの会員証などを入れて、いかにも律のもののように偽装した。
こうして財布が律の手に渡れば、誰が仕組んだものかわかる。
そして財布を調べてくれれば、高野の計画が書かれたメモも見つかるだろう。
作戦は始まった。後はもう突き進むだけだ。
高野はウォールフラワーよろしく、壁際で静かに佇んでいた。
そして何も知らずに踊っている客たちを冷やかに見つめる。
破滅の舞踏曲を踊りませ。
このパーティが楽しいまま終わるか、惨劇になるか。
今の時点では高野にさえ、わからない。
【続く】
これがセレブのダンスパーティか。
雪名は華やかな世界に、ただただ圧倒されていた。
雪名がこのパーティに紛れ込めたのは、運が良かったからだ。
美大生である雪名は、他の大学に通う画家志望の学生と親交がある。
その中に、日本最高峰の美術学校と音楽学校を備えた芸術大学があった。
今日、生演奏をしているのはそこの音大卒の音楽家だ。
そして今日のパーティで、器材搬入の手伝いをしてくれる学生を捜していたのだ。
交通費しか出ないので誰もやらないという話を聞き、雪名が名乗りを上げたのだ。
もちろん単なる無料奉仕なんていうつもりはない。
このパーティが、恋人である木佐の元同僚の婚約披露パーティだと知っている。
もちろん雪名には何の関係もないので、呼ばれてなどいない。
それでも何とかこの場に居合わせたいと思ったのには、理由がある。
「何かすごく嫌な予感がするんだ。」
このパーティの招待状を受け取った木佐は、雪名にそう言った。
そしてその表情は、わかりやすく落ち込んでいた。
よくよく聞けば、職場で付き合っていた2人が無理矢理別れさせられた。
そして会社を辞めた片割れと別の女性との婚約披露なのだという。
それを聞いた雪名は「確かに行く気が起きませんね」と言った。
男同士の交際を親に反対され、引き裂かれる。
それは雪名にとっても、他人事とは思えなかった。
「それだけじゃないんだ。何だかよくないことが起きる気がする。」
木佐は冴えない表情で、要領を得ない言葉を繰り返す。
おそらく木佐は本能的に悪い予感がするというだけで、論理的な根拠はないのだろう。
だが無視することなどできなかった。
落ち込んでいる木佐は何度も見たが、こんなに怯えているのは初めて見たからだ。
だからこそ雪名は何とかして参加する方法を捜しまくり、まぎれこむことに成功した。
これがセレブのダンスパーティか。
雪名は華やかな世界に、ただただ圧倒されていた。
アンサンブルのメンバーの指示で、楽器や譜面、譜面台などの備品を搬入する。
そしてセッティングが済んでしまうと、パーティが終わるまでは暇なのだ。
だからもっぱら雪名は、じっくりとパーティを観察することにした。
木佐のことはすぐに見つけた。
やはりこういう場だから明るく振る舞っているが、笑顔がどこかぎこちない。
今も不吉な胸騒ぎに、落ち着かないのだろう。
少しの異変も見逃さないようにしなくてはと雪名が目を凝らした瞬間、それを見つけた。
入口付近に、なにかが落ちている。
雪名は小走りで近づき、拾い上げた。
それは男物の長財布だった。
茶色の革製で、おそらくは高級品だ。
きっと今日の客の誰かの落し物だろう。
届けるにしても、誰に渡そうかと迷った瞬間「律っちゃんの財布だよね?」と背後から声がする。
振り返ると、今日の主賓であるカップルの女性が、婚約者の腕を引きながら、こちらに歩いてくる。
この人が木佐さんの元同僚、だよな。
雪名は美貌の青年に、財布を渡す。
青年はぎこちない表情のまま受け取ると「ありがとうございます」と頭を下げた。
*****
早く、この茶番が終わってくれ。そうでないとヤバい。
律はイライラと落ち着かない気分を隠すのに必死だった。
もう高野とは一生逢うことはないと思っていた。
残りの人生に、もう希望など持てそうにない。
この婚約披露パーティだって、律にとって苦痛なだけのつまらないものだ。
もう心には、何の感情も浮かばない。
だがパーティの客の中に高野を見つけたとき、忘れていた激しい感情が溢れ始めた。
初めは、最後にその姿を見られただけでいいと思った。
ただひたすら彼の幸せだけを祈ろうと思った。
だけど時間が経つにつれ、凶暴な気持ちがこみ上げてくる。
やっぱり好きだし、離れたくない。
このまま何もかも振り捨てて、高野と一緒に逃げてしまいたい。
だがそれが無理であることもわかっていた。
実はこの会場には、律の両親が雇ったセキュリティサービスの人間も混じっているのだ。
彼らはさり気なく律を監視している。
律がこっそりとこのホテルを出るなんて、ほぼ不可能だろう。
早く、この茶番が終わってくれ。そうでないとヤバい。
律はイライラと落ち着かない気分を隠すのに必死だった。
このままでは叫び出してしまいそうだ。
わけのわからないことをわめき散らして、暴れたくなる。
そうなればすぐに監視している男たちに取り押さえられるだろうが。
「律っちゃんの財布だよね?」
不意に杏に呼ばれた律は、慌てて我に返った。
美貌の青年が、見覚えのある財布を手にして、立っている。
確かにそれは律の財布だった。
「ありがとうございます」
律は財布を受け取ると、青年に頭を下げた。
まったく抜けているにも程がある。
この財布は高野からプレゼントされた大事なものなのだ。
写真も何もかも、高野との思い出になりそうなものは全て捨てた。
今はもう唯一これだけが、律と高野を繋ぐ絆なのだ。
それをこれからの心の支えにしようと思っていたのに、よりによって落としてしまうなんて。
律は呼吸を整えると、財布をスーツの内ポケットに入れようとして「あ」と声を上げた。
いつもの定位置に律の財布はきちんと収まっていたのだ。
ではこの財布はいったい誰の?
そう考えたとき、律は今度こそ叫び出しそうになり、慌てて堪えた。
律が使っているのとまったく同じ財布が落ちていたのが、偶然とは考えにくい。
ではどういうことかと考えた時に、閃いたのだ。
こんなことができる人物は、この場に1人しかいないことに。
「律さん、どちらへ?」
急いで確認したくて、律はホールを出ようとする。
すると数人の男たちが、すっと律に近づいてきて、取り囲んだ。
口調こそ丁寧だが、有無を言わせぬ物言いだ。
「トイレです。一緒に来てもいいですけど、個室には入ってこないで下さいね。」
律がそう答えて歩き出すと、男たちもゾロゾロとついてくる。
本当は走り出したいのを我慢しながら、律はゆっくりとした足取りでホールを出て、トイレに向かう。
律を監視する男たちは、個室に誰もいないことを確認すると、律を1人で入らせてくれた。
よし、ここまでは成功だ。
律は久し振りに高揚する気持ちを押さえながら、渡された財布の中身を確認した。
そして中から一枚のメモを発見したのだった。
*****
作戦は始まった。後はもう突き進むだけだ。
高野はウォールフラワーよろしく、壁際で静かに佇んでいた。
高野は何としても律を連れ出すと決めてはいたが、迷いがまったくないわけではなかった。
かわいい嫁をもらって、家を継ぐ。
それは確かに律にとって、幸せの形だ。
そう思う気持ちが、心のどこかにあったのだ。
だけど律は、出席者の中に高野を見つけてからは、ずっと高野を見ている。
最初は健気に何かを堪えているような表情だったが、次第に変化していった。
何か言いたそうな、いや何かを叫びたそうな顔だ。
それを見て、高野のわずかな迷いは完全に吹き飛んだ。
もうやるしかない。律も賛成してくれるはずだ。
高野は最初の行動を起こした後は、ずっと壁際に立っていた。
ホールで踊る者たちを見て、楽しんでいるという体を装う。
高野の素性を知らない女性客が、何人もダンスを申し込んでくる。
だが「不調法なもので、踊れないんです」と申し訳なさそうにことわった。
「ウォールフラワーか、お前は。」
井坂がそんな高野のところにやって来て、ツッコミを入れた。
ウォールフラワー、つまり壁の花。
ダンスパーティーなどでパートナーがおらず、壁際で佇んでいることを意味する言葉だ。
「花なんてガラじゃないですよ。」
高野が苦笑すると、井坂も笑った。
今はとにかく何でもない顔をしていることが大事だ。
ただただ恋人との最後の別れを惜しむ、ただの男を演じきるのだ。
ここに来て、律が数人のゴツい男たちに監視されていることもわかった。
まともに腕力で勝負しても、勝ち目はない。
「酒、飲まないのか?」
「悪酔いしそうなので、遠慮しておきます。」
「・・・ふうん?」
井坂はまだ完全に、高野に対する疑いを解いていないようだ。
勘の鋭い井坂を騙せるなら、他の人間も欺けると思うのだがむずかしい。
高野はひたすら待っていた。
律に高野の計画が伝わって、OKの合図が来るのを。
雪名が拾って律の手に渡った財布は、実は高野の持ち物だった。
律にプレゼントしたときに、同じものを自分にも買ったのだ。
偽造したショップの会員証などを入れて、いかにも律のもののように偽装した。
こうして財布が律の手に渡れば、誰が仕組んだものかわかる。
そして財布を調べてくれれば、高野の計画が書かれたメモも見つかるだろう。
作戦は始まった。後はもう突き進むだけだ。
高野はウォールフラワーよろしく、壁際で静かに佇んでいた。
そして何も知らずに踊っている客たちを冷やかに見つめる。
破滅の舞踏曲を踊りませ。
このパーティが楽しいまま終わるか、惨劇になるか。
今の時点では高野にさえ、わからない。
【続く】