消滅3題

「お兄ちゃん、大丈夫かな。」
日和は膝の上のソラ太に、そう呟いた。
ちょうど自分の部屋から出てきた桐嶋が「大丈夫。横澤は頑丈だから」と答える。
父親の明るい笑顔に、日和はようやくホッとすることができた。

「車を盗まれた。その上カバンまで盗られかけた。くそ!」
ボロボロの状態で帰ってきた横澤は、静かに怒っていた。
ソラ太の前の飼い主の家に着くまでは順調だった。
だが帰り際、車に乗ろうとしたところを襲われたという。
襲ったのは数人の若い男女のグループだったそうだ。
車のキーは盗まれたものの、カバンは死守した。
その結果、帰りの足がなくなり、怪我をした状態で延々歩く羽目になったのだ。

「まったくクソガキどもが!」
桐嶋に身体を拭いてもらい、傷の手当てをされながら、横澤はまだブツブツと悪態をつく。
だが手当てを終えて横になった途端、爆睡してしまった。
どうやら疲れているだけでなく、熱も上がっているらしい。
怪我をしている上に、雷雨に濡れながら帰ってきたのだから、無理もない。

「お兄ちゃん、ソラちゃんのために頑張ったんだね。」
日和はソラ太の喉をあやしながら、また呟いた。
ソラ太も横澤の顔を見て安堵したのか、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
これならきっと横澤が命がけで持って帰ったキャットフードを、元気よく食べるだろう。

なんかもう、思った以上にラブラブかも。
日和は濡れタオルや救急箱片手に、落ち着かない様子で動き回る父に苦笑する。
2人の関係を肯定して1歩引いてみると、違う景色が見えてくる。
もう微笑ましいというか、可愛らしいというか。
桐嶋の父親以外の表情は、新鮮な驚きだった。

「私も横澤のお兄ちゃん、好きかも」
すっかり愉快になった日和は、キッチンに立った桐嶋にそう声をかける。
横澤のために粥をつくろうとしていたのだろう。
土鍋を持った手を止めて、マジマジと日和を見た。
ささやかな悪戯は大成功だ。

「恋じゃないよ。パパの恋人として。」
「脅かすなよ。」
「そばにいてあげなよ。お粥は私が作る。」
日和は桐嶋の手から土鍋を受け取りながら、ニッコリと笑った。

だから私が消える。
怪我が治るまでは、2人きりを楽しませてあげる。
最愛の恋人が怪我をしたら、心配に決まってるのだから。

*****

「私も横澤のお兄ちゃん、好きかも」
思いがけない日和の言葉に、桐嶋は目を剥いた。
将来、日和が横澤に惚れてしまったらと、漠然と考えたことはある。
だが現実になったりしたら、絶対に困る。

横澤の怪我を、日和には明るさを装って「大丈夫」と言ったが、それは願望だ。
帰宅した横澤は意識もあったし、言葉も明瞭だった。
素人目には大したことはないように見える。
だがやはり頭を殴られたというのは、不安だった。
それでも日和が安心したような表情になったので、少しだけ明るい気分になれた。

「ソラ太は愛されてるな」
ベットで眠る横澤の横顔に、文句を言ってみた。
桐嶋だって、最期の瞬間までソラ太には元気でいて欲しいし、好きなものを食べさせたい。
だがそのために横澤が危険な目に合うというのは、やぶさかではなかった。
この場合悪いのは、間違いなく横澤を襲った若者たちだ。
だが恋人として、こっそりソラ太に嫉妬するくらいは許されるはずだ。

「腹減った。」
ぐっすり眠っていた横澤が、目を覚ました第一声はそれだった。
まったくこちらの気も知らないで、いい気なものだ。
どうにも日和と横澤に振り回されている感が否めない。

「今、お粥を用意してる。」
「できればもう少し、腹にたまるものがいい。」
「贅沢言うな。ひよがせっかく作ってるんだ。」
「それを先に言え。」

桐嶋相手なら文句を言っても、日和ならいいと言うのか。
ますます面白くない。
何か皮肉の1つでも言おうと思った途端、ドアが開いた。
顔を出したのはもちろん日和で、テキパキと土鍋や茶碗、お茶などを部屋に運び入れ始める。

「お粥じゃお腹にたまらないかと思って、雑炊にしたよ!」
「お、ひよ。気が利くな。」
日和と横澤が楽しそうに喋るものだから、ますます気に入らない。
開いたドアの隙間からは、ソラ太が見舞客よろしく横澤を見ていた。

「パパの分もあるから。ごゆっくり!」
日和は土鍋や食器類をすべて運び終えると、手を振りながら出て行ってしまった。
確かに茶碗も湯呑も2人分用意されている。
2人きりで食事を楽しめという小憎らしい配慮のようだ。
桐嶋はため息をつきながら、土鍋の蓋を開けた。
鶏肉と野菜がたっぷり入った味噌風味の雑炊は、実に美味そうだ。

俺はこのまま最期の日まで、日和に茶化されつづけるのか?
だがその想像は思ったほど嫌ではなく、むしろ楽しいことに気付いた。
愛する家族と共に迎える最期は、きっと幸せということなのだろう。

*****

「パパの分もあるから。ごゆっくり!」
横澤は意味あり気に手を振る日和を見て、悟った。
日和は桐嶋と自分の関係を理解し、受け入れたのだ。

眠っている間、横澤は夢を見ていた。
熱に浮かされていたせいか、はっきりとは覚えていない。
だが登場人物については鮮明に記憶している。
仏壇の写真でしか知らない、日和と面差しのよく似た女性。
桐嶋の妻、桜だった。

「・・・だから、私が消える。」
彼女は夢の中でそう告げていた。
だが肝心な「・・・」の部分が、不鮮明だ。
横澤が桐嶋を盗ったから。
それ以外に当てはまる言葉を思いつかない。
だが地球が滅亡するという事実の前では、それすらもう関係ないことだ。
桜だけでなく、桐嶋も横澤も日和も、みんな消えてしまうのだから。

「ひよに俺たちのことを話したのか?」
「特に話してない。でも察したみたいだ。」
日和特製の雑炊をありがたく平らげた後、横澤と桐嶋は茶をすすっていた。
大きな土鍋は綺麗に空になっている。

「喜んでくれるのか」
横澤は空の湯呑を盆に戻しながら、俯く。
日和が、そして桜が祝福してくれるのか。
まったく自信がない。

「喜んでいるかどうかなんてわからない。だけど受け入れてもらうしかない。」
「あんた、そんな押しつけがましいことを」
「そうだろう?俺たちが一緒に最期の時を迎えるのは、決定事項なんだから。」

なるほど。それが答えか。
その言葉はまるで天啓のように、横澤の心に落ちた。
先程から考えていた夢に、ようやく納得のいく説明を見つかった。
桐嶋と横澤はずっと一緒にいる。だから私は消える、だ。
横澤の心の中心から高野が消えたように、桐嶋からも桜が消える。
決して忘れるわけではなく、思い出の中に埋めるのだ。
願わくば「安心して消える」であって欲しい。

「お前はもう少し寝ておけ。」
桐嶋がそう言い置いて、空いた食器の片づけを始めた。
ドアを開けて、土鍋や茶碗をキッチンへと運んでいく。
開いたドアの隙間から、ソラ太がガツガツと食事をしているのが見えた。
やはりいつものお気に入りのキャットフードがいいらしい。
どうやら死にそうな目に合ったのは、無駄ではなかったようだ。

残された時間はあとわずか。
だが思いのほか、穏やかに過ごせそうだ。
横澤はベットに身体を沈めると、静かに目を閉じた。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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