キス5題
【おでこにチュウ】
そのとき額に唇が触れた。
それを間近で見てしまった吉野は、呆然とした。
吉川千春こと吉野千秋は、丸川書店の会議室にいた。
今日は新しい企画の打ち合わせに来たのだ。
吉野と向かい合って、高屋敷玲二が座っている。
彼は羽鳥の大学時代の友人で、ゲームクリエイターだ。
そして2人をここへ案内したのはエメラルド編集部の小野寺律だった。
高屋敷はゲーム界では有名な存在だ。
その彼が以前吉野の作品をゲーム化するとき、企画を担当した。
売れっ子作家吉野とゲーム界のヒットメーカーがコラボ。
その甲斐あって、ゲームはまずまずの売り上げ本数を叩き出した。
今回は吉野の漫画をゲーム化するのではない。
最初からゲームありきで作品化するという企画だ。
キャラクターやシナリオを吉野が作り、それを高屋敷がゲーム化する。
まずゲームソフトを売り出すのが先で、その後エメラルドに吉野の漫画を掲載する。
もちろんゲームと漫画では、シナリオを変えて作る。
ファンは同じ世界観で、2つの作品を楽しめるという趣向だった。
エメラルド側の担当者は、羽鳥芳雪だ。
だがせっかく吉野と高屋敷の初打ち合わせの今日、アクシデントが起きた。
例によってかの大作家、一之瀬絵梨佳のわがままで呼び出されてしまったのだ。
こういう場合は普通、編集長の高野政宗が相手をするところだ。
だがその高野も羽鳥と共に、一之瀬の仕事場に出向いている。
そこで急遽、この場を取り仕切ることになったのが律だった。
*****
「何か飲み物でも買ってきます。何がいいですか?」
「それよりも、ちょっと座って。」
吉野が「何か炭酸」と答えようとしたが、高屋敷が遮った。
そして隣の椅子を指差して、座るようにとうながす。
律は訳がわからないままに、高屋敷の隣に座った。
「こっち向いて」
律がキャスター付きの椅子ごと高屋敷の方を向くと、高屋敷も律の方に向き直る。
2人は椅子に座って向き合う形になった。
吉野は何が始まるのかわからず、ただ2人の様子を見ていた。
「綺麗な顔、してるな。」
高屋敷は律の顔を無遠慮にジロジロと見ながら、そう言った。
どうにも落ち着かないのだろう。
律が俯いてしまいそうになると「動かないで!」と声を荒げる。
そして上体を動かしながら、いろいろな角度から律の顔を検分している。
「まぁ確かに」
吉野は高屋敷の意図がわからないまま、同意した。
吉野も律と初めて会ったときには、同じ印象を持ったのだ。
美形が多いエメラルド編集部にあって、決して見劣りしない美しい見目形。
さすが乙女部の新入部員だと。
「ねぇ吉野さん。今度のゲームの主人公、彼がモデルでどうかなぁ?」
「えっ?小野寺さんを?」
「こ、困ります!」
突拍子もない提案に、吉野は驚き、律はブンブンと首を振って拒否の意を示す。
だが当の高屋敷は涼しい顔だ。
*****
「本当にいいんですか?小野寺さん」
「仕方ないです。いい作品を作るためですから。」
吉野は何だか心配になって、律に問いかける。
律はがっくりと肩を落としたまま、そう答えた。
モデルが小野寺さんだってことは秘密にする。
ちゃんとアレンジするから、元は誰かなんてわからないよ。
そもそもモデルが存在するコトだって公表しないし。
高屋敷がやり手のセールスマンよろしく律を口説き落としにかかる。
律は頑として首を縦に振らず「できません」を繰り返した。
それはそうだよな、と吉野も思う。
一応少女漫画とコラボしたゲームなのだから、主役は女の子だ。
自分の顔を女の子のモデルとして使われるのは、やはり複雑な気分だろう。
少なくても吉野だったら、プライドが傷つく。
だが高屋敷は諦めることなく、律を説得し続けた。
こんな綺麗な顔なら、俺だったら絶対に恋しちゃうよ。
モデルになってくれたら、いい作品ができると思うんだけどなぁ。
律が結局モデルを引き受けてしまったのは、高屋敷のこの一言だった。
編集者はやはり「いい作品」という言葉には弱い。
吉野はこれは確信犯だと思った。
高屋敷が律にうんと言わせるために、そんな言葉を使ったのだと。
とにかく律は承諾してしまった。
これで実際のエメラルド側の担当の羽鳥、そして編集長の高野がOKを出せば。
律がモデルで主人公のキャラを作ることが決まる。
*****
とりあえず吉野はスケッチブックを取り出し、律の顔のデッサンを始めた。
サラサラとした髪、白くて綺麗な肌、整った顔立ち。
それらと普段の律から感じる人当たりのよさと重なり、やわらかなイメージになる。
だけど大きな瞳から感じるのは意志の強さだ。
優しくて、でも芯が強くて、前向きな女の子。
彼女はいったいどんな恋をするんだろう。
鉛筆をサラサラと動かしながら、吉野の中でイメージが膨らんでいく。
「こういう感じだとどうかな?」
高屋敷はしきりにブツブツと呟きながら、律の顔に触れた。
顔の角度を変えさせてみたり、髪をかき上げてみたり。
そうしながらデジタルカメラで、いろいろな角度から律の顔を撮影していた。
「前髪上げてみても、いいかも」
高屋敷が律の前髪を分けて、律の額をあらわにする。
吉野はそんな高屋敷の強引さに、呆れていた。
吉野とは面識があるが、高屋敷と律は今日が初対面なのだ。
いきなり顔や髪に触りまくるなど、かなり馴れ馴れしくないか?
吉野とだって初対面でかなり態度が大きかったけど、それにしてもだ。
「ちょっと、ベタベタ触りすぎじゃない?」
吉野はたまりかねて、そう声をかけた。
居心地悪そうに落ち着かない様子の律に、助け舟を出したつもりだった。
それに何より高屋敷が邪魔で、デッサンが進まない。
そしてスケッチブックに落としていた視線を上げた瞬間、見てしまった。
「!!」
それは、ほんの一瞬のことだった。
愛おしそうに律の前髪を分けた高屋敷が、その額にすばやく唇を寄せたのだ。
アイツ、小野寺さんのおでこにチュウした---!!
吉野は驚いて、鉛筆を取り落とした。
ちょうどその瞬間、会議室の扉が開いた。
*****
「何やってるんだ?」
会議室に入ってきながら、羽鳥が聞く。
その後ろから入ってきたのは、編集長の高野だ。
「小野寺さんを主役のモデルにしようってことになってさ。顔の感じを見てた。」
高屋敷は何事もなかったような顔で、平然とそう答えた。
吉野には高屋敷の真意がわからない。
初対面でいきなり触りまくって、額にキスなんて。
いったいどういうつもりなのだろうか?
そういえば羽鳥と高野は見たのだろうか。
高屋敷が律にキスをした瞬間を。
ただ律はどうしていいかわからないようで、困ったように俯いている。
何とかうまくフォローしてあげたいが、自分には荷が重い。
吉野は助けを求めるように、羽鳥を見た。
だが羽鳥は不機嫌そうに目を細めて、黙って高屋敷を見ている。
その視線はいつもの通りの無愛想で、無表情だ。
吉野は視線を羽鳥から高野に移して。。。愕然とした。
吉野に対してはいつもにこやかで、優しい人だと思っていた。
その高野が鋭い目で、高屋敷を睨みつけたように見えたのだ。
でもそれはほんの一瞬のことだった。
高野はいつもの表情に戻って「小野寺をモデルにですか?」と聞いてきた。
見間違いだったのか?と吉野は戸惑う。
このときはまだ吉野にも律にもわかっていなかった。
かつて羽鳥に振られた高屋敷が、今度は律に狙いを定めたことを。
だが高野と羽鳥は、気がついていた。
高屋敷の下心、そしてこの先面倒な事態になりそうだということに。
【続く】
そのとき額に唇が触れた。
それを間近で見てしまった吉野は、呆然とした。
吉川千春こと吉野千秋は、丸川書店の会議室にいた。
今日は新しい企画の打ち合わせに来たのだ。
吉野と向かい合って、高屋敷玲二が座っている。
彼は羽鳥の大学時代の友人で、ゲームクリエイターだ。
そして2人をここへ案内したのはエメラルド編集部の小野寺律だった。
高屋敷はゲーム界では有名な存在だ。
その彼が以前吉野の作品をゲーム化するとき、企画を担当した。
売れっ子作家吉野とゲーム界のヒットメーカーがコラボ。
その甲斐あって、ゲームはまずまずの売り上げ本数を叩き出した。
今回は吉野の漫画をゲーム化するのではない。
最初からゲームありきで作品化するという企画だ。
キャラクターやシナリオを吉野が作り、それを高屋敷がゲーム化する。
まずゲームソフトを売り出すのが先で、その後エメラルドに吉野の漫画を掲載する。
もちろんゲームと漫画では、シナリオを変えて作る。
ファンは同じ世界観で、2つの作品を楽しめるという趣向だった。
エメラルド側の担当者は、羽鳥芳雪だ。
だがせっかく吉野と高屋敷の初打ち合わせの今日、アクシデントが起きた。
例によってかの大作家、一之瀬絵梨佳のわがままで呼び出されてしまったのだ。
こういう場合は普通、編集長の高野政宗が相手をするところだ。
だがその高野も羽鳥と共に、一之瀬の仕事場に出向いている。
そこで急遽、この場を取り仕切ることになったのが律だった。
*****
「何か飲み物でも買ってきます。何がいいですか?」
「それよりも、ちょっと座って。」
吉野が「何か炭酸」と答えようとしたが、高屋敷が遮った。
そして隣の椅子を指差して、座るようにとうながす。
律は訳がわからないままに、高屋敷の隣に座った。
「こっち向いて」
律がキャスター付きの椅子ごと高屋敷の方を向くと、高屋敷も律の方に向き直る。
2人は椅子に座って向き合う形になった。
吉野は何が始まるのかわからず、ただ2人の様子を見ていた。
「綺麗な顔、してるな。」
高屋敷は律の顔を無遠慮にジロジロと見ながら、そう言った。
どうにも落ち着かないのだろう。
律が俯いてしまいそうになると「動かないで!」と声を荒げる。
そして上体を動かしながら、いろいろな角度から律の顔を検分している。
「まぁ確かに」
吉野は高屋敷の意図がわからないまま、同意した。
吉野も律と初めて会ったときには、同じ印象を持ったのだ。
美形が多いエメラルド編集部にあって、決して見劣りしない美しい見目形。
さすが乙女部の新入部員だと。
「ねぇ吉野さん。今度のゲームの主人公、彼がモデルでどうかなぁ?」
「えっ?小野寺さんを?」
「こ、困ります!」
突拍子もない提案に、吉野は驚き、律はブンブンと首を振って拒否の意を示す。
だが当の高屋敷は涼しい顔だ。
*****
「本当にいいんですか?小野寺さん」
「仕方ないです。いい作品を作るためですから。」
吉野は何だか心配になって、律に問いかける。
律はがっくりと肩を落としたまま、そう答えた。
モデルが小野寺さんだってことは秘密にする。
ちゃんとアレンジするから、元は誰かなんてわからないよ。
そもそもモデルが存在するコトだって公表しないし。
高屋敷がやり手のセールスマンよろしく律を口説き落としにかかる。
律は頑として首を縦に振らず「できません」を繰り返した。
それはそうだよな、と吉野も思う。
一応少女漫画とコラボしたゲームなのだから、主役は女の子だ。
自分の顔を女の子のモデルとして使われるのは、やはり複雑な気分だろう。
少なくても吉野だったら、プライドが傷つく。
だが高屋敷は諦めることなく、律を説得し続けた。
こんな綺麗な顔なら、俺だったら絶対に恋しちゃうよ。
モデルになってくれたら、いい作品ができると思うんだけどなぁ。
律が結局モデルを引き受けてしまったのは、高屋敷のこの一言だった。
編集者はやはり「いい作品」という言葉には弱い。
吉野はこれは確信犯だと思った。
高屋敷が律にうんと言わせるために、そんな言葉を使ったのだと。
とにかく律は承諾してしまった。
これで実際のエメラルド側の担当の羽鳥、そして編集長の高野がOKを出せば。
律がモデルで主人公のキャラを作ることが決まる。
*****
とりあえず吉野はスケッチブックを取り出し、律の顔のデッサンを始めた。
サラサラとした髪、白くて綺麗な肌、整った顔立ち。
それらと普段の律から感じる人当たりのよさと重なり、やわらかなイメージになる。
だけど大きな瞳から感じるのは意志の強さだ。
優しくて、でも芯が強くて、前向きな女の子。
彼女はいったいどんな恋をするんだろう。
鉛筆をサラサラと動かしながら、吉野の中でイメージが膨らんでいく。
「こういう感じだとどうかな?」
高屋敷はしきりにブツブツと呟きながら、律の顔に触れた。
顔の角度を変えさせてみたり、髪をかき上げてみたり。
そうしながらデジタルカメラで、いろいろな角度から律の顔を撮影していた。
「前髪上げてみても、いいかも」
高屋敷が律の前髪を分けて、律の額をあらわにする。
吉野はそんな高屋敷の強引さに、呆れていた。
吉野とは面識があるが、高屋敷と律は今日が初対面なのだ。
いきなり顔や髪に触りまくるなど、かなり馴れ馴れしくないか?
吉野とだって初対面でかなり態度が大きかったけど、それにしてもだ。
「ちょっと、ベタベタ触りすぎじゃない?」
吉野はたまりかねて、そう声をかけた。
居心地悪そうに落ち着かない様子の律に、助け舟を出したつもりだった。
それに何より高屋敷が邪魔で、デッサンが進まない。
そしてスケッチブックに落としていた視線を上げた瞬間、見てしまった。
「!!」
それは、ほんの一瞬のことだった。
愛おしそうに律の前髪を分けた高屋敷が、その額にすばやく唇を寄せたのだ。
アイツ、小野寺さんのおでこにチュウした---!!
吉野は驚いて、鉛筆を取り落とした。
ちょうどその瞬間、会議室の扉が開いた。
*****
「何やってるんだ?」
会議室に入ってきながら、羽鳥が聞く。
その後ろから入ってきたのは、編集長の高野だ。
「小野寺さんを主役のモデルにしようってことになってさ。顔の感じを見てた。」
高屋敷は何事もなかったような顔で、平然とそう答えた。
吉野には高屋敷の真意がわからない。
初対面でいきなり触りまくって、額にキスなんて。
いったいどういうつもりなのだろうか?
そういえば羽鳥と高野は見たのだろうか。
高屋敷が律にキスをした瞬間を。
ただ律はどうしていいかわからないようで、困ったように俯いている。
何とかうまくフォローしてあげたいが、自分には荷が重い。
吉野は助けを求めるように、羽鳥を見た。
だが羽鳥は不機嫌そうに目を細めて、黙って高屋敷を見ている。
その視線はいつもの通りの無愛想で、無表情だ。
吉野は視線を羽鳥から高野に移して。。。愕然とした。
吉野に対してはいつもにこやかで、優しい人だと思っていた。
その高野が鋭い目で、高屋敷を睨みつけたように見えたのだ。
でもそれはほんの一瞬のことだった。
高野はいつもの表情に戻って「小野寺をモデルにですか?」と聞いてきた。
見間違いだったのか?と吉野は戸惑う。
このときはまだ吉野にも律にもわかっていなかった。
かつて羽鳥に振られた高屋敷が、今度は律に狙いを定めたことを。
だが高野と羽鳥は、気がついていた。
高屋敷の下心、そしてこの先面倒な事態になりそうだということに。
【続く】
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