消滅3題

【私なんてイラナイ】

「私なんてイラナイ。そういうことね?」
本の中の少女は、そう言っているように見えた。

あと1ヶ月で、地球が滅亡します。
巨大な流星群が地球の周りを周回しており、それが1ヵ月後に衝突します。
回避できる可能性は、ほぼゼロです。

横澤隆史はそのニュースを、職場で聞いた。
正直言って、悪い冗談としか思えない。
だが呆然と言葉もない後輩社員や、泣き叫ぶ女子社員たちを見て、現実を突き付けられる。
これは冗談でも夢でもないのだ。

もう本を出すことはない。
後はここを去るだけだ。
そう理解した横澤は、直ちに行動を開始した。
世話になった書店の関係者に電話をして、礼を言う。
そして社内の関連部署に出向き、挨拶して回った。

エメラルド編集部にも立ち寄った。
かつて愛した男、高野は、ちょうど会社を出るところだった。
高野が愛する青年は、作家の取材旅行に付き合って、北海道に出張中だ。
横澤はその決然とした表情を見て、高野が恋人のところへ行くのだとわかった。

「横澤、お前はどうするんだ?」
「俺もお前らと同じ。大事なヤツのところに行くだけだ。」
高野にそう問われて、横澤はスラリとそう答えた。
普段なら恥ずかしくて、絶対に言えないセリフだ。
だがこの非常事態、そして高野とは2度と会えないと思うと、照れずに言える。

「お幸せに。」
「ば~か。こっちのセリフだ。じゃあな。」
高野の心のこもった言葉に、横澤は軽口で応じた。
いろいろあったが、最後はいい思い出だ。

自分のデスクに戻った横澤は、そのまま会社を出ようとした。
仕事関係の書類や資料は、もう必要ないから置いていく。
だがふと引き出しを開けた。
そこに入っていたのは、一之瀬絵梨佳のコミックス。
高野が丸川書店に入社して、初めて出した本だ。

「じゃあな。」
横澤は表紙に描かれたヒロインに、そっと声をかけた。
高野への想いのように、横澤はこれをずっと大事にしまっていたのだ。

「私なんてイラナイ。そういうことね?」
本の中の少女は、そう言っているように見えた。
だが横澤は構わずに引き出しを閉めた。
これから向かう先で待つ恋人、そして娘との時間に、彼女は必要ない。

*****

「家で待ってる。」
桐嶋禅は編集部に挨拶に来た横澤に、そっと耳打ちした。
横澤はいつになく素直な表情で、コクリと頷く。
あと1ヶ月で地球が滅亡するという途方もないニュースの前で、いつもの照れはないようだ。

努めて冷静に挨拶回りなどをしながら、気になるのは娘のことだった。
自分は編集長として、やりがいのある仕事ができた。
結婚して、かわいい娘にも恵まれたし、今は最愛の恋人もいる。
だが娘の日和はまだ小学生なのだ。
恋だって、仕事だって、人生の楽しいことをまだほとんど味わっていない。
それなのにあと1ヶ月しか生きられないことが、不憫でならない。

そして1つ、迷っていることがある。
横澤との関係を、日和に伝えるべきかどうかだ。
こんなことがなければ、今事実を話すなんて考えなかっただろう。
打ち明けるにしても、日和がもっと大人になったときと思っていた。

だが残り時間は1ヶ月しかない。
桐嶋は、横澤を自分の部屋に呼んで3人で過ごすつもりでいる。
隠し通すという選択肢も、もちろんありだろう。
でも最期の瞬間まで2人の関係を知らせないのは、不実なことに思える。

「パパ、お帰りなさい。」
どうにか家に帰り着いた桐嶋は、日和の姿を見つけてホッとした。
携帯電話は通じないし、小学校に電話をしても応答がなかった。
日和が家に無事に帰れたかどうか、気になっていたのだ。

日和の目は涙で膨れて、腫れぼったくなっていた。
きっと目の前の現実が受け入れられず、心細かったのだろう。

「ひよ、おいで。」
桐嶋が手を広げると、日和が抱き付いてきた。
そして胸に顔を埋めながら、わんわんと声を上げて泣いている。
日和がこんな泣き方をしたのは、もう何年振りかもわからない。

ソラ太は桐嶋の足元にちょこんと座って、不思議そうにこちらを見上げていた。
聡い猫はただならぬ雰囲気を感じ取っているようだ。
何があってもマイペースで寝てばかりいるのに、今日は落ち着かないようすだった。

「もうすぐ横澤も来る。3人で最後まで楽しく過ごそう。」
桐嶋が頭を撫でてやると、日和は何度もコクコクと頷いた。
だかふと思い出したように「ソラちゃんもだよ」と泣き笑いの表情で付け加える。
懸命に現実を受け入れようとする娘が、愛おしく切ない。

桐嶋は日和の肩をあやすようにポンポンと叩いてあやしながら、仏壇を見た。
3人と言ってしまって、少々後ろめたく感じたからだ。
飾られた写真の中の妻の笑顔は、心なしか恨みがましく見えた。
ひょっとしたら「私なんてイラナイんでしょ?」と思っているのかもしれない。

*****

「ひよ!無事でよかった!心配したぞ!」
「横澤のお兄ちゃんも!すごい荷物だね。」
部屋に現れた横澤に、日和は声を上げた。
横澤は両手に大きな荷物を抱えた上に、背中にも大きなリュックサックを背負っていた。

「何だ、その荷物。お泊りセットか?」
桐嶋がやはり大荷物の横澤を見て、的外れな感想を言う。
だが横澤は「アホか!」と怒鳴った。
桐嶋がいつも冗談っぽく横澤をからかい、横澤は怒ったように応じることはよくあることだ。
だが日和には、今の怒鳴り声は本気で怒っているように見えた。

「とりあえずできるだけ食い物を手に入れてきた。もうコンビニには何もないぞ。」
「え?そうなのか?」
横澤の大荷物は食糧だったのだ。
よく見ると横澤の服はヨレヨレだし、髪も乱れている。
きっと食料を確保するのは、かなり大変だったのだろう。
呑気に「お泊りセット」なんて茶化されたら、腹が立つに決まっている。

「車にまだ積んであるんだ。運ぶのを手伝ってくれ。」
「後でいいだろう?」
「いや。外では強盗や略奪が始まっている。車だと盗られちまう。」
「わかった。ひよは危ないから部屋にいろよ。」

日和は「はーい」と答えて、手を振って2人を見送った。
だが短い間だとはわかっていても不安で、ソラ太を抱き上げる。
そしてすぐに窓側に向かい、外を見下ろした。
程なくして、桐嶋と横澤がエントランスから出てくるのが見えた。

2人は何か話しながら、歩いていく。
どうやらマンション駐車場の隅にあるのが、横澤の車のようだ。
本来は住民しか使えないのだが、今は非常事態だ。

「え?」
じっと2人の後姿を見ていた日和は、思わず小さく声を上げた。
桐嶋が不意に、隣を歩く横澤の頬にキスをしたように見えたのだ
気のせいかと思ったが、そうではなかった。
次の瞬間、桐嶋は横澤の身体を引き寄せて、抱きしめたからだ。

実は2人がそういう関係ではないかと想像したことはある。
2人の関係は、友人とか会社の同僚というには親密すぎると思ったのだ。
それにまだ恋を知らない日和にも、2人が醸し出す雰囲気の甘さは伝わっていた。

「本当は私なんてイラナイ。2人でいたいんじゃないの?」
日和は腕に抱くソラ太の身体に額を当てながら、そっと呟いた。
ソラ太はそんな日和を慰めるように短く「にゃあ」と泣いた。

【続く】
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