雷8題

【雷雨(らいう)】

「羽鳥。。。」
丸川書店の正面玄関で意外な人物に声をかけられ、羽鳥は目を瞠った。
普段だったら、あまり関わりたくない人物。
最愛の恋人がある意味自分よりも心を許し、懐いている男。
羽鳥にとっては、一番警戒すべき恋敵だ。

「柳瀬?」
羽鳥が思わず確認するように問いかけてしまうほど、柳瀬の様子は普段と違った。
全身はずぶ濡れで、服が身体に張り付いている。
いつもはフワリと美貌を彩る髪も、水気を含んで元気を失っていた。
その様子を見て、羽鳥は玄関ドアの向こうを見る。
そして初めて、外は激しい雷雨であることを知った。

「柳瀬、大丈夫か?」
「ああ、多分。」
「おい!その傷!」
柳瀬に近づいて、改めてその顔を覗きこんだ羽鳥は愕然とした。
どうやら額が切れているようで、雨に混じって赤い血も顔を伝っている。

「どうしたんだ?」
「ああ、何かヤケになって暴れてるヤツらがいて巻き込まれた。でも大したことない。」
「大したことあるだろ!かなり血が出てるぞ。手当てしないと」
「俺はいいんだ!」
柳瀬が羽鳥の言葉を遮って、大きな声を上げた。

「千秋は今、北海道だろ?」
「ああ。今から会いに行く。」
羽鳥のその言葉を聞いた途端、思いつめて焦っていたような柳瀬の表情が変わった。
落ち着きを取り戻し、身体からも余計な力が抜けたようだ。

「それならいい。帰る。」
クルリと踵を返した柳瀬に、羽鳥が「待て!」と声を上げる。
だが柳瀬は振り返らずに、そのまま正面玄関を出て行こうとした。
するとそれまで黙って2人のやり取りを見ていた高野が「待ってください!」と声を上げた。
柳瀬はその声に足を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。

*****

「電話は通じませんね。」
律はついに諦めて、受話器を戻した。

律は木佐の頼みを実行するべく動いていた。
おそらくは木佐の大事な人だと思われる雪名皇。
彼と連絡を取り、何とかホテルへ来てもらう。
だがホテルの公衆電話は、もうつながらなくなっていた。
テレホンカードを入れても、小銭を入れても、通話音すら鳴らない。

「行ってみるしかなさそうです。」
「でも、住所だけで行けますか?」
「何とかします。吉野さんは部屋で待っていてください。」
「そんな。俺も行きますよ。」
「でも吉野さんは、大事な作家なのに。。。」
律は吉野の申し出にためらい、言葉を濁した。
外は激しい雷雨だし、危険なのだ。
木佐からのごく個人的な頼みに、吉野を巻き込むのは気が引けた。

「もう関係ないですよ。それに1人で待ってるなんて不安です。」
吉野はこんな事態になっても生真面目な律に、思わず笑った。
確かに1人で残るのも、また危ないかもしれない。
そう思い直した律は「じゃあ行きましょう」と笑顔で答える。

2人が向かったのは、ホテルの3軒先にある交番だった。
もしかして警察官が残っていれば、道を聞けるかもしれない。
傘がない2人は、ホテルの正面玄関から交番まで全力で走った。
ものの1,2分しか走っていないのに、ずぶ濡れになるほどのひどい雨だ。

「すみません。この住所は。。。」
声をかけながら、先に交番に足を踏み入れた律は驚き、足を止めた。
後から入ってきた吉野が、律の様子に「どうしました?」と不審の声を上げる。
だが次の瞬間、吉野も「それ」を見つけて、呆然と立ち尽くした。

「「うわぁぁぁ~~~!!」」
一瞬の沈黙の後、2人は同時に絶叫した。
交番の中にいた警察官は、もう律たちに道を教えてくれることはできないだろう。
警察官の制服を着た男は頭部から血を流しながら、椅子に座って動かない。
彼がすでに絶命しているのは、明らかだった。

*****

高野は無言でハンドルを握り、車を走らせていた。
2シーターの助手席に、羽鳥と木佐が窮屈におさまっている。
そんな滑稽な状況にも、誰も笑うこともない。
3人とも言葉もなく、ただ前方を見つめている。
フロントガラスの向こうは激しい雷雨。
高速で動くワイパーの音だけが、車内に響いている。

「今まで吉川先生の力になってくださってありがとうございました。」
丸川書店の玄関で、高野は柳瀬にそう声をかけた。
デット入稿常習者の吉野が、それでも原稿を落とさなかったのは柳瀬の力が大きい。
高野は最後に編集長として、柳瀬に礼を言ったのだ。

「お前も来るか?」
羽鳥は柳瀬にそう声をかけた。
だが柳瀬は皮肉っぽい表情で笑いながら、首を振った。

「冗談じゃねーよ。死ぬ間際まで千秋と羽鳥がいちゃついてるとこなんか見たくねーし。」
「柳瀬。。。」
「お前が行かないなら俺が行こうと思った。だけどお前が行くなら俺は行かない。」
「そうか」
「千秋を頼む。絶対に捜し出して離すなよ。」
「わかった。」

木佐が立ち去ろうとする柳瀬に駆け寄り、ハンカチを取り出して柳瀬の顔の傷に当てた。
驚いた柳瀬だったが、フッとため息混じりの声を漏らして笑う。
そのまま木佐のハンカチで傷を押さえながら「ありがとうございます。」と礼を言った。
最後に高野の方に向き直ると、無言で頭を下げて、今度こそ正面玄関から出て行った。

そして北海道に向かう車中の人になった3人は、不安な思いでいっぱいだった。
襲われ、流血するほどの怪我を負わされた柳瀬。
その手当てさえ満足にしてやれずに、別れてしまった。
柳瀬があの後どこに向かったのか、そして無事にたどり着けるのか。

だがそれ以上に心配なのは、遠く離れた地にいる想い人のことだ。
彼らは無事なのか、そして自分たちもまた無事でまた彼らに逢うことができるのか。
だが今は考えても仕方がない。
とにかく進むしかないのだ。

夜のように暗い雷雨の中、高野はアクセルを踏み込む。
車はスピードを上げて、北の大地を目指していた。

【続く】
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