…したい10題
【愛されたい】
「どうしたんだ、これ?」
羽鳥がテーブルの上を見回して、目を丸くしている。
吉野は恥ずかしくなって、俯いてしまった。
あの事件のせいでひどく落ち込んだ吉野は、随分みんなに迷惑をかけたと思っている。
柳瀬らアシスタントにも、羽鳥らエメラルドの編集者にも。
アシスタントたちには今度打ち上げと称して、食事を奢ることにした。
エメラルド編集部には、何か美味いものでも差し入れをするつもりだ。
間違えられて大怪我をした小野寺律にも、何かしなくてはと思っている。
それとは別にすごく心配させてしまった羽鳥に何かしたかったのだ。
そこで吉野は、たまには羽鳥に手料理を振舞おうと決心した。
もちろん凝ったものは出来ないし、ましてや羽鳥の料理には遠く及ばない。
でも目玉焼きとかサラダとか、いわゆる朝食っぽいメニューなら。
吉野だってそうそう失敗しないはずだ。
かくしてとある日曜日の朝、吉野は自宅に羽鳥を招いた。
だが実際、吉野の料理というか不器用さは吉野本人の予想以上だった。
黄身が偏ってしかも割れてしまった目玉焼き、どうにも不恰好なサラダ、黒く焦げた焼き魚。
どうにも修復できず、どうしようと途方にくれているときに羽鳥が現れたのだ。
「これ、お前が作ったの?」
吉野は羽鳥の問いに、渋々頷いた。
恥ずかしい。わざわざ呼んでおいてこの有様。
お礼どころか、ますます迷惑をかけているではないか。
「ごめん。何か奢るから外に食いに行こう。」
「何で。俺、千秋の手料理がいいんだけど。」
羽鳥はそう言って、吉野の身体をきつく抱きしめた。
そして吉野の耳に唇を寄せて「すごく嬉しい」と囁く。
それだけで吉野の心臓は跳ね上がり、バクバクと不穏な鼓動を刻む。
「なぁトリ、今度俺に料理を教えてくれない?」
2人で向かい合って朝食を食べながら、吉野は羽鳥にそう切り出した。
「お前は料理なんかできなくても。。。」
「俺もトリのためにいろいろしたいんだ。漫画を描く以外にも!」
それでちゃんと愛されたい。
吉野は心の中だけで、そう付け加えた。
「わかった。最初は簡単なものから少しずつ。仕事に支障が出ない範囲でな。」
「よし!頑張る!」
吉野が見せた久しぶりの屈託のない笑顔に、羽鳥も幸せな気分になる。
2人だけの甘い休日の始まりだ。
*****
雪名がいない木佐の部屋。
たまには雪名だって外出するのは当たり前なのに、ひどく違和感があって戸惑う。
その理由は簡単だ。
あの事件の後、雪名はいつも木佐より後に出かけて、木佐より先に帰る。
つまり木佐をこの部屋で1人にしないようにしていたのだ。
雪名だって、学校があって、アルバイトがあって、友だちもいる。
その全てを木佐のためだけに制限してきたのだ。
雪名は苦労など微塵も見せないが、それはかなり大変だったはずだ。
ふと木佐の目に、部屋の片隅に置かれた雪名の荷物が目に入った。
美大生である雪名のスケッチブックが何冊も積み上げられた上に置かれた1冊のノート。
ごくごく普通の大学ノートだ。
なぜそれが木佐の目を引いたかというと、それは表紙に書かれたイラストだ。
黒いマジックで落書きのように無造作に書かれた漫画タッチの男の子。
どうにもそれは木佐には、自分の顔に似て見えた。
気になる。どうにも気になる。
木佐はしばらくノートの前に座り込んで、考えていた。
このノートを見るべきか、見ないべきか?
いや「べきか」という問いだったら、絶対に見ないべきだ。
所有者の雪名に許可も取らずに見てはいけない。
いくら木佐の部屋にあって、これ見よがしに木佐の似顔絵が描かれていたとしても。
だが見たいのだ、どうしても。
木佐は落ち着きなくノートを手に取ったり、元の場所に戻したりを繰り返した。
そしてついに誘惑に負けた木佐は、表紙を開いた。
確か雪名は日記の類はつけていなかったはずだ。
多分授業か何かのものだろうし、きっと問題ない。
木佐は心の中で言い訳がましいことを思いながら、ページに目を落とす。
そしてその意外な内容に驚いた。
ノートの正体は、料理のレシピだった。
まず左上に日付が書かれて、その下は料理の作り方が書かれている。
雪名は大学の友だちに料理を教えてもらっていると言っていた。
それを書き留めたノートだったのだ。
見慣れた雪名の字と簡単なイラストでわかりやすく図解されている。
そして下の方に1、2行のコメントが添えられて。
そんなページが何枚もぎっしりと綴られていた。
『木佐さんはこういう味が好きみたい。』
『木佐さん、野菜には好き嫌いがなくて、よかった。』
『どうやら木佐さんは、すっぱいのはちょっと苦手っぽい。』
コメントは全部、食べた木佐の反応が書かれていた。
雪名の愛情が切ないほどに伝わってくる。
不覚にも目頭が熱くなった木佐は、慌てて手で涙を拭った。
こんなに愛されているのに、もっと愛されたい。
欲望に限りがないのは、きっと木佐自身も最初に逢った頃よりずっと雪名が好きだからだ。
俺も雪名のために出来ることを考えよう。
木佐はノートをそっと元の場所に戻しながら、そう思った。
*****
「いろいろお世話になりました。」
律はそう言って、深々と頭を下げた。
大丈夫、もうお辞儀をしても痛まないくらいに傷は治っている。
律は事件の後、ずっと高野の部屋で眠っていた。
しばらくは悪夢にうなされることも度々あったが、もうほとんどない。
それは高野が辛抱強く律に付き合ってくれたからだと思う。
何度もなでてもらって、優しく抱きしめられて。
律の身体も心も、ゆっくりと癒されていったのだ。
「本当に帰るのか?」
高野はどこか名残惜しそうな口調で言った。
帰るといっても、律は元々隣室の住人だ。
決してそんなに大袈裟な話ではないのだが。
「ずっといてもいいんだぞ?」
高野はそう言って、律の身体をそっと抱きしめた。
未だに高野は律の身体を気遣って、大事にしてくれる。
高野の真剣な目を見て、律は一瞬言葉につまった。
退院した後、律はずっと高野に甘えて過してきた。
吉野や木佐の前でこそ、気丈に振舞ってはみたものの。
やはり一番ダメージを受けたのは、実際に襲われた律だったのだ。
編集部で何とか普通通りにすごせているのも、高野の支えがあればこそだ。
本当はずっと高野の腕に甘えていたい。
何もかも振り捨てて「好き」と告白して、高野の部屋で暮らす。
そうしてずっと愛されたいと思う。
だがそうしたら、もう律は律ではなくなってしまう。
ただの高野の恋人、高野の所有物だ。
一流の出版者になる。宝物にしたくなるような本を作る。
その目標に向かってがむしゃらに突き進んでこそ律なのだ。
だからまだ今は、1人で頑張ろうと思う。
「もう大丈夫です。本当にありがとうございました。」
律はもう一度頭を下げると、高野に背を向けた。
そして玄関に向かって、歩き出そうとして。
高野に背後から強く抱きしめられた。
「な、何するんですか?俺、怪我人ですよ?」
「もう大丈夫なんだろ?」
律はジタバタと暴れるが、高野はガッチリと律を捕まえて離さない。
何のつもりなのかと振り返ろうとした律の耳元に、高野が唇を寄せた。
「ずっと抱きたかったけど、お前が怪我してるから我慢してたんだ。」
「え?まさか。。。」
「大丈夫なら、いいんだよな?」
「高野さん!」
高野は律を腕に抱えたまま、ベットへと進んでいく。
律は高野の変わり身の早さに、ただただ呆れるばかりだ。
この人に愛されたいと思ったのは、間違いだったのではないか?
律がそう思ったのは、ほんの一瞬のことだった。
そっとベットに倒されて、優しくキスを落とされれば、律の胸も熱くなる。
実は律だって高野に抱かれたいと思わなかったわけじゃないのだから。
怪我人だからと大事にされていた日々はもう終わり。
今日からは今まで通りの高野と律だ。
【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
「どうしたんだ、これ?」
羽鳥がテーブルの上を見回して、目を丸くしている。
吉野は恥ずかしくなって、俯いてしまった。
あの事件のせいでひどく落ち込んだ吉野は、随分みんなに迷惑をかけたと思っている。
柳瀬らアシスタントにも、羽鳥らエメラルドの編集者にも。
アシスタントたちには今度打ち上げと称して、食事を奢ることにした。
エメラルド編集部には、何か美味いものでも差し入れをするつもりだ。
間違えられて大怪我をした小野寺律にも、何かしなくてはと思っている。
それとは別にすごく心配させてしまった羽鳥に何かしたかったのだ。
そこで吉野は、たまには羽鳥に手料理を振舞おうと決心した。
もちろん凝ったものは出来ないし、ましてや羽鳥の料理には遠く及ばない。
でも目玉焼きとかサラダとか、いわゆる朝食っぽいメニューなら。
吉野だってそうそう失敗しないはずだ。
かくしてとある日曜日の朝、吉野は自宅に羽鳥を招いた。
だが実際、吉野の料理というか不器用さは吉野本人の予想以上だった。
黄身が偏ってしかも割れてしまった目玉焼き、どうにも不恰好なサラダ、黒く焦げた焼き魚。
どうにも修復できず、どうしようと途方にくれているときに羽鳥が現れたのだ。
「これ、お前が作ったの?」
吉野は羽鳥の問いに、渋々頷いた。
恥ずかしい。わざわざ呼んでおいてこの有様。
お礼どころか、ますます迷惑をかけているではないか。
「ごめん。何か奢るから外に食いに行こう。」
「何で。俺、千秋の手料理がいいんだけど。」
羽鳥はそう言って、吉野の身体をきつく抱きしめた。
そして吉野の耳に唇を寄せて「すごく嬉しい」と囁く。
それだけで吉野の心臓は跳ね上がり、バクバクと不穏な鼓動を刻む。
「なぁトリ、今度俺に料理を教えてくれない?」
2人で向かい合って朝食を食べながら、吉野は羽鳥にそう切り出した。
「お前は料理なんかできなくても。。。」
「俺もトリのためにいろいろしたいんだ。漫画を描く以外にも!」
それでちゃんと愛されたい。
吉野は心の中だけで、そう付け加えた。
「わかった。最初は簡単なものから少しずつ。仕事に支障が出ない範囲でな。」
「よし!頑張る!」
吉野が見せた久しぶりの屈託のない笑顔に、羽鳥も幸せな気分になる。
2人だけの甘い休日の始まりだ。
*****
雪名がいない木佐の部屋。
たまには雪名だって外出するのは当たり前なのに、ひどく違和感があって戸惑う。
その理由は簡単だ。
あの事件の後、雪名はいつも木佐より後に出かけて、木佐より先に帰る。
つまり木佐をこの部屋で1人にしないようにしていたのだ。
雪名だって、学校があって、アルバイトがあって、友だちもいる。
その全てを木佐のためだけに制限してきたのだ。
雪名は苦労など微塵も見せないが、それはかなり大変だったはずだ。
ふと木佐の目に、部屋の片隅に置かれた雪名の荷物が目に入った。
美大生である雪名のスケッチブックが何冊も積み上げられた上に置かれた1冊のノート。
ごくごく普通の大学ノートだ。
なぜそれが木佐の目を引いたかというと、それは表紙に書かれたイラストだ。
黒いマジックで落書きのように無造作に書かれた漫画タッチの男の子。
どうにもそれは木佐には、自分の顔に似て見えた。
気になる。どうにも気になる。
木佐はしばらくノートの前に座り込んで、考えていた。
このノートを見るべきか、見ないべきか?
いや「べきか」という問いだったら、絶対に見ないべきだ。
所有者の雪名に許可も取らずに見てはいけない。
いくら木佐の部屋にあって、これ見よがしに木佐の似顔絵が描かれていたとしても。
だが見たいのだ、どうしても。
木佐は落ち着きなくノートを手に取ったり、元の場所に戻したりを繰り返した。
そしてついに誘惑に負けた木佐は、表紙を開いた。
確か雪名は日記の類はつけていなかったはずだ。
多分授業か何かのものだろうし、きっと問題ない。
木佐は心の中で言い訳がましいことを思いながら、ページに目を落とす。
そしてその意外な内容に驚いた。
ノートの正体は、料理のレシピだった。
まず左上に日付が書かれて、その下は料理の作り方が書かれている。
雪名は大学の友だちに料理を教えてもらっていると言っていた。
それを書き留めたノートだったのだ。
見慣れた雪名の字と簡単なイラストでわかりやすく図解されている。
そして下の方に1、2行のコメントが添えられて。
そんなページが何枚もぎっしりと綴られていた。
『木佐さんはこういう味が好きみたい。』
『木佐さん、野菜には好き嫌いがなくて、よかった。』
『どうやら木佐さんは、すっぱいのはちょっと苦手っぽい。』
コメントは全部、食べた木佐の反応が書かれていた。
雪名の愛情が切ないほどに伝わってくる。
不覚にも目頭が熱くなった木佐は、慌てて手で涙を拭った。
こんなに愛されているのに、もっと愛されたい。
欲望に限りがないのは、きっと木佐自身も最初に逢った頃よりずっと雪名が好きだからだ。
俺も雪名のために出来ることを考えよう。
木佐はノートをそっと元の場所に戻しながら、そう思った。
*****
「いろいろお世話になりました。」
律はそう言って、深々と頭を下げた。
大丈夫、もうお辞儀をしても痛まないくらいに傷は治っている。
律は事件の後、ずっと高野の部屋で眠っていた。
しばらくは悪夢にうなされることも度々あったが、もうほとんどない。
それは高野が辛抱強く律に付き合ってくれたからだと思う。
何度もなでてもらって、優しく抱きしめられて。
律の身体も心も、ゆっくりと癒されていったのだ。
「本当に帰るのか?」
高野はどこか名残惜しそうな口調で言った。
帰るといっても、律は元々隣室の住人だ。
決してそんなに大袈裟な話ではないのだが。
「ずっといてもいいんだぞ?」
高野はそう言って、律の身体をそっと抱きしめた。
未だに高野は律の身体を気遣って、大事にしてくれる。
高野の真剣な目を見て、律は一瞬言葉につまった。
退院した後、律はずっと高野に甘えて過してきた。
吉野や木佐の前でこそ、気丈に振舞ってはみたものの。
やはり一番ダメージを受けたのは、実際に襲われた律だったのだ。
編集部で何とか普通通りにすごせているのも、高野の支えがあればこそだ。
本当はずっと高野の腕に甘えていたい。
何もかも振り捨てて「好き」と告白して、高野の部屋で暮らす。
そうしてずっと愛されたいと思う。
だがそうしたら、もう律は律ではなくなってしまう。
ただの高野の恋人、高野の所有物だ。
一流の出版者になる。宝物にしたくなるような本を作る。
その目標に向かってがむしゃらに突き進んでこそ律なのだ。
だからまだ今は、1人で頑張ろうと思う。
「もう大丈夫です。本当にありがとうございました。」
律はもう一度頭を下げると、高野に背を向けた。
そして玄関に向かって、歩き出そうとして。
高野に背後から強く抱きしめられた。
「な、何するんですか?俺、怪我人ですよ?」
「もう大丈夫なんだろ?」
律はジタバタと暴れるが、高野はガッチリと律を捕まえて離さない。
何のつもりなのかと振り返ろうとした律の耳元に、高野が唇を寄せた。
「ずっと抱きたかったけど、お前が怪我してるから我慢してたんだ。」
「え?まさか。。。」
「大丈夫なら、いいんだよな?」
「高野さん!」
高野は律を腕に抱えたまま、ベットへと進んでいく。
律は高野の変わり身の早さに、ただただ呆れるばかりだ。
この人に愛されたいと思ったのは、間違いだったのではないか?
律がそう思ったのは、ほんの一瞬のことだった。
そっとベットに倒されて、優しくキスを落とされれば、律の胸も熱くなる。
実は律だって高野に抱かれたいと思わなかったわけじゃないのだから。
怪我人だからと大事にされていた日々はもう終わり。
今日からは今まで通りの高野と律だ。
【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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