…したい10題

【傷つけたい】

アイツこそ吉川千春だ。
男は自分の前を通り過ぎていった青年をチラリと見た。
そして間違いないと確信する。
彼が見覚えがあるジャケットを着ていたからだ。
男はポケットに隠しているナイフの柄を握りなおした。
アイツをこのナイフで傷つけたい。
ただそれだけを思いつめていた。

吉川千春を狙うと決めて、その素性を調べて驚いた。
てっきり女だと思っていたが、男だと知れたのだ。
一応それは秘密になっているようだが、そのガードは甘かった。
アシスタントや編集者、作品をアニメ化やゲーム化するときのスタッフ等々。
実は男であることを知っている人間は、かなりの人数だ。
それだけの人間が知っていれば、秘密は漏れてしまうものだ。
そしてついにその住居を突き止めた男は、ずっとその前で張り込んでいた。

ここで問題が発生した。
吉川千春の顔写真だけは、ついに手に入れられなかったのだ。
編集者やらアシスタントやら人が多く出入りする場所で、吉川千春本人がわからない。
男の襲撃計画は、あと1歩のところで停滞していた。

だがようやく長い張り込みの努力は実を結んだ。
唯一目標を識別できる目印である薄いベージュのジャケット。
それを着た青年が出て来たのだ。
男は青年を尾行した。
青年はまったく警戒などしていない様子で歩いていく。
そしてコンビニへ入ろうと歩調を緩めた青年に向かって、男はナイフを振り上げて突進した。

*****

小野寺律はコンビニに向かって歩いていた。
吉川千春こと吉野千秋に頼まれた買い物をするためだ。

今月分の原稿、律の担当の作家はいつになく早めに原稿をあげてきた。
こんな月もあるのかと律は自分の幸運をにわかに信じられなかった。
だが人生のプラスマイナスはバランスが取れているものだ。
その月、いつにも増して遅れていたのが吉川千春の原稿だった。
ただでさえ遅れ気味の上に、アシスタントの間にインフルエンザが流行るという不運ぶり。
柳瀬優以外のアシスタントが全滅したのだ。
律と同じく今月比較的早めに担当作品を入稿できた木佐が、羽鳥と共にヘルプに来た。
トーンを貼ったり、写植を貼ったり、単純作業の手伝いだ。

コンビニの新発売のプレミアムケーキが欲しい!
突然、煮詰まった吉野千秋がそんなことを言い出した。
疲れてしまったし、気持ちをリフレッシュしたいからと。
「甘えるな!」と怒る羽鳥に、吉野は「食べないと描けない」と言い張った。

木佐が買ってくると言った。
言い争っている間に、コンビニに行った方が早いからだ。
だが律は、木佐が先程からさかんに咳をしているのが気になっていた。
風邪、もしくはインフルエンザなどかもしれない。
律はすかさず「俺が行きます」と言った。
すっかり気温が下がっているので、吉野が貸してくれたジャケットを着て、律は出かけた。

そしてコンビニの前で足を止めた瞬間。
ナイフを振り上げた男が、自分に向かって突進してきたのが見えたのだ。

*****

木佐翔太はコンビニに向かった。
買い出しに出たはずの律がいつまで待っても戻ってこなかったからだ。

吉川千春宅からコンビニまでは徒歩で数分。
何かあったとしても1時間も戻らないのはおかしい。
しかも携帯電話を鳴らしてみても、応答がない。
そこで木佐がコンビニまで行ってみることになったのだった。

まったく何をしているんだろう。
木佐はそんなことを思いながら、のんびりと歩いていた。
大事が起きたとは夢にも思わず、何か小さなアクシデントだと思っていた。
例えば吉野が指定したプレミアムケーキとやらが店になかったとか、そんな感じの。
だから心底驚いたのだ。

コンビニ前でまず木佐が目にしたのは、パトカーと救急車だ。
そして物々しい雰囲気を聞きつけた野次馬たち。
驚いて駆け寄り、人垣をかき分けて近寄り、その惨状を見た。

わき腹の辺りから血を流して倒れている律。
その横で血まみれのナイフが落ちていた。
そして返り血を浴びた男が手錠をかけられ、警察官に両脇を固められている。
救急車から救急隊員が降り立ち、律に向かって「大丈夫ですか?」と叫んだ。
だが律は目を閉じたまま、反応しなかった。

木佐が大声で「律っちゃん!」と叫び、駆け寄った。
その声に、犯人らしき男が獣のような唸りとも叫びともつかない声を上げた。

【続く】
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