ヒルセナ朝5題

「瀬那は出かけているのか?」
昔なじみの老け顔の男は、蛭魔のマンションを訪ねてくるなりそう聞いた。
ソファに座って新聞を読んでいた蛭魔は「いや」と首を振った。

老け顔の男は武蔵。
この男も普通の人間ではなく魔物で、蛭魔とはもう数百年来の友人だ。
蛭魔も瀬那も「ムサシ」と呼んでいる。
だが人間としては武蔵の読みを変えて「タケクラ」と名乗っている。

「まだ寝てる。さっき起こしにいったら爆睡してた。」
「はぁぁ?もう昼過ぎだぞ?」
「疲れたんだろう。慣れないことの連続だからな。」
「お前がたっぷり血を飲んだせいじゃねーのか?」

蛭魔と瀬那が学校に通い始めて、初めての日曜日。
初めての経験にどっと疲れが出たというのは嘘ではないだろう。
だがこんな時間まで寝込んでいたのは、おそらく貧血だ。
蛭魔も慣れない生活で消耗し、普段よりたくさん血を飲んだのだろう。
瀬那に甘い武蔵は、どうしても蛭魔への当たりが強くなる。

武蔵の皮肉っぽい口調にも、蛭魔は表情を変えなかった。
そのまま新聞へとすっと視線を戻してしまう。
だがほんの一瞬だけ苦しげに眉を寄せたのを、武蔵は見逃さなかった。
蛭魔だって瀬那に負担を強いていることがつらいのだろう。
武蔵もわかっているのだが、瀬那が実際に寝込んでいるのを見るとついつい皮肉が出てしまうのだ。



「お前も起こしにいったらどうだ?」
蛭魔は新聞に目を落としたまま、そう言った。
それは蛭魔なりの武蔵への気遣いだ。

武蔵は蛭魔とは違い、人間の「気」を糧とする魔物だ。
人間の中に混じり、その気配に身を浸すだけで活力となる。
蛭魔はそんな武蔵を「手軽でいいな」と羨ましがる。
血を摂取しないと生きられない蛭魔にとってはそう見えるかもしれない。

だがやはり好みというものがある。
心が美しい人間の「気」は不思議と美味なのだ。
そういう意味で瀬那の気配は極上だ。
だから蛭魔は気を利かせて、武蔵を誘ったのだ。
眠っている瀬那の横で気を感じるだけで、武蔵には力になる。

「いや、いい。それより聞かせろ。どうなんだ?」
武蔵は蛭魔の向かいに腰を下ろすと、身を乗り出した。
蛭魔が「組織」の依頼を受けて、高校に潜入すると聞いたときには驚いた。
そして瀬那も一緒に転入したと聞いたときには、さらに驚いたのだ。
何百年も生きた魔物とその「伴侶」が高校生なんて、ふざけている。
だが2人がどんな高校生活を送っているのかは興味深い。

「聞きたいか」
蛭魔は深々とため息をつくと、新聞をテーブルに放り投げた。
どうやら蛭魔にとっては、不本意な展開だったらしい。



遡ること数日前、蛭魔と瀬那が泥門高校に潜入した初日。
蛭魔は思いもかけない事態に困惑していた。
泥門高校には魔物の気配がそこら中に感じられた。
事実最初に紹介された担任教師の2人は、人間ではなかったのだ。

蛭魔の担任教師、三宅は蛭魔と同じ吸血鬼だった。
こっそりと生徒の血を掠め取りながら、細々と生き続けていたようだ。
蛭魔は三宅に「組織」の配下に入ることを勧めた。
特定の「伴侶」を持たない吸血鬼に、血を提供してくれる。
むやみに生徒を襲わなくても、確実に「食事」ができるのだ。
三宅は蛭魔の申し出を了承し「組織」の人間と引き合わせることになった。

だがそれ以外の魔物を見つけることはできなかった。
魔物の気配は感じるのに、その主がわからない。
まぁ初日でそんなに何もかも解決するのは、難しい。
だが瀬那はそんな蛭魔の予想を完全に覆した。

「同じクラスに3人いました。十文字君と黒木君と戸叶君。」
「3組の雷門君と小結君もそうでした。」
「あと4組の瀧君。1年はそれで全部だと思います。」
休み時間のたびに蛭魔の教室に現れた瀬那は、そんな報告をしてくる。
つまり瀬那は初日で1年の中に紛れ込んだ魔物を、全員捜し当ててしまったのだ。



「なんで蛭魔にわからねぇのに、瀬那には見つけられるんだ?」
蛭魔から転校初日の話を聞いた武蔵は、首をひねった。
吸血鬼の「伴侶」となり魔の気配に慣れた瀬那だが、所詮は人間だ。
魔を感じ取る力なら、蛭魔の方が強いはずなのに。

「どうやら俺の気だと警戒されるようだ。だが瀬那の気には引き寄せられるらしい。」
「なるほど。癒やされる感じか。」
「瀬那が見つけた連中は、全員『組織』の管理下に置かれることを了承した。」
「何だ。ほとんど瀬那の手柄じゃねーか。」

武蔵がからかってやると、蛭魔は面白くなさそうに顔をしかめる。
だがすぐに真顔に戻ると「問題はこの先だ」と呟く。

「まだ魔物の気配はある。しかも強い邪気だ。」
「凶悪なのが潜んでいるってことか。」
「しかも瀬那の担任の女教師も人間じゃない。」
「はぁ?それって瀬那が危険じゃねぇのか?」
「魔の気配はあるが、敵意はないんだ。それに瀬那曰く彼女は自分を人間だと思っているらしい。」
「そんな馬鹿なことが」
「ちなみにその女は、瀬那の姉貴に瓜2つ。名前まで同じだ。姉崎まもり。」

蛭魔はそれだけ言うと、じっと押し黙った。
瀬那の姉にそっくりな魔物の女。
蛭魔はその女をどうするべきか迷っているようだ。
その女に瀬那が特別な気持ちを持っているのは、間違いないのだから。

蛭魔が願うのはただ1つ、瀬那の幸せだ。
「組織」の依頼を引き受けたのは、きっと邪悪な魔物を少しでも減らすため。
そうすることで少しでも瀬那が安心して生きられる世界を作りたいのだろう。

武蔵も瀬那を大事に思っている。
蛭魔のように「伴侶」として愛しているのとは違うが、弟のようにかわいい存在だ。
それならば自分も瀬那を守れる場所にいたい。
この日、武蔵はある決意をした。



「む、武蔵さん?どうしたんです!」
月曜日の朝、蛭魔と共に登校した瀬那は校門の前で、頓狂な声を上げた。
2人を待っていたのは、泥門高校の制服に身を包んだ武蔵だった。

土曜日の夜、たっぷりと蛭魔に血を取られた上に身体を重ねた瀬那は昏々と眠った。
起きたのは実に月曜日の早朝で「宿題、やってない!」とパニックになった。
どうにか宿題を片付けて学校へ向かう道すがら、蛭魔から昨日武蔵が来ていたことを聞かされた。
瀬那もまた武蔵を兄のように慕っており「どうして起こしてくれなかったんです?」と文句を言う。
だが蛭魔は「起こしにいったら爆睡してたぜ」と涼しい顔だ。
久しぶりに武蔵に会いたかったのにと悔しがる瀬那の前に、まさにその武蔵が現れたのだ。

「俺も今日から高校生だ。よろしくな。瀬那!」
「制服、似合ってねーな。」
唖然とする瀬那に変わって茶々を入れたのは、もちろん蛭魔だ。
老け顔で、どちらかと言えば壮年期のような風貌の武蔵。
そんな男の制服姿は、とにかく人目を引いている。
だが瀬那はそんなことにはまったく気付いていないようだ。

「武蔵さんも泥門生になるんですか!?」
瀬那は笑顔全開でそう叫ぶと、武蔵に駆け寄り、抱きついた。
武蔵は瀬那の身体を抱き止めると、くしゃくしゃと髪を撫でてやる。
瑞々しく爽やかな瀬那の気が、武蔵の胃袋を満たした。
蛭魔が面白くなさそうな顔で見ているが、武蔵にとっては知ったこっちゃない。

だがとにかく味方が増えるのはいいことだ。
それだけ瀬那の危険が減るだろうから。
蛭魔は無理矢理そう思うことで、かわいい「伴侶」が他の男の腕にいることに耐えていた。

【続く】
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