理性と本能8題

蛭魔は再び本宅で、父親の幽也と向き合っていた。
その手には、数枚の紙片が握られている。
それには過去に父が行った違法な行為がいくつか書き記されていた。

「この程度のことで、私を脅しているつもりか?」
父親は鼻で笑った。
書かれている主な内容は収賄や詐欺まがいのものが多い。
確かに立件は難しいし、時効になっているものもある。

「まさか。これだけで脅せるなんて思っちゃいねぇよ。」
父親の反応があまりにも予想通りなので、蛭魔は内心ほくそ笑んだ。
「ものの数時間で揃ったネタを持ってきただけだ。時間をかけて調べればもっと出るだろ?」
そして嘲笑する。
今こそこの父親譲りのパフォーマンスを存分に発揮する時だ。

過去に蛭魔幽也の追い落としを狙った者たちは何人もいた。
だが今までスキャンダルがないのはひとえに政界の大物、蛭魔幽也の喉元まで迫れた勇者がいなかったから。
その全てをなぎ倒して、彼は君臨しているのだ。
「あんたのやり方はよく知ってる。どこをどう調べればボロが出るかはな。」
蛭魔は不敵に笑う。確かにその通りだった。
敵に回ればこの息子ほど怖い存在がないことを、彼はよく知っている。

「要求は何だ?」
父親からこの台詞を引き出して、蛭魔はニンマリと笑った。


「姉崎ホールディングスの新会長に瀬那を据える。俺は代表権のない相談役だ。」
「何?」
父の目論見はおそらく瀬那を傀儡として社長に置き、自分が後見人の立場で会長になることだろう。
この男の欲望は、財力よりも権力の方が強い。
姉崎ホールディングスという多岐にわたる企業を束ねる大会社を、思いのままにしたいのだ。

「社長には、武蔵だ。」
蛭魔はとどめとばかりにそう告げた。
無表情を保つ父は、頭の中で懸命に効果的な台詞を考えていることだろう。
その前に、手持ちのカードをもう1枚切ろうと蛭魔はすかさず口を開く。

「了解してくれたら、先代会長が美生さんに残した姉崎の株の一部をあんたに譲ると瀬那は言っている。」
「もし了解しなかったら?」
「瀬那とあんたの養子縁組を解消する。」
そうなれば姉崎ホールディングスと蛭魔幽也はまったく関係がなくなる。
蛭魔は瀬那と姉崎ホールディングスに父が関与できないようにしたいのだ。
金で穏便に解決できるならいいが、敵対するつもりなら傷つくのを覚悟で対決する。
蛭魔は実の父親にそれを伝えたのだった。
ほんの一瞬だけ驚いた表情になった幽也は、すぐにフッと笑いを漏らした。
「いいだろう。私は株主の立場で経営を見守るとしよう。」
蛭魔はその言葉に心底ホッとしたが、それを表情に出すことはしなかった。

「どうやら武蔵は、姉崎まもりが気に入ったらしい。将来まもりは社長夫人かもしれねぇな。」
蛭魔の言葉に、父は笑う。
決して蛭魔が父親に勝ったわけではなく、父がとりあえず一歩引いただけにすぎない。
こうして蛭魔父子は、この先も緻密な駆け引きを続けるのだろう。
でも愛情よりも策略が先行するこの関係は自分たちには相応しい。
蛭魔はまた不敵な笑みをもらすと、何も言わずに部屋を出た。


蛭魔が父親と相対していた頃、瀬那は別宅で昏々と眠っていた。
武蔵とまもりが同じ部屋に並んで座って、付き添っている。

武蔵が手を伸ばして、眠る瀬那の髪を撫でた。
どうやら食事も満足に摂っていなかったらしい瀬那の細身の身体は、さらに痩せていた。
そのあどけない面差しも、すっかりやつれている。
それでも健やかな寝息をたてて眠るのを見ていると、不思議と和む。
蛭魔が何もかも捨てても守りたいと思った少年は、確かに今ここにいる。

「俺はあんたを見直したよ。」
武蔵は不意にそう言って、まもりを見た。
まもりは自嘲気味に少し笑う。
武蔵はここ最近見せる開き直ったようなまもりの表情は悪くないと思う。
姉崎家でお嬢様然としていたときよりも、どこか皮肉っぽく笑う今のまもりの方が生き生きしている。

瀬那が失踪したとき、蛭魔は必死に瀬那を捜した。
だが交友関係も行動範囲も狭い瀬那の行き先は予想がつかず、捜索はすぐに行き詰った。
焦り始めた蛭魔に、まもりが教えたのだ。
瀬那は姉崎家の別荘にいるのではないかと。
そして別荘はいくつもあるが、海辺の別荘を瀬那は特に気に入っていたと言った。
その情報があったからこそ、大事に至る前に蛭魔は瀬那を発見できた。


「勘違いしないで。身を引いて蛭魔くんと瀬那の幸せを祈るとか、そんな殊勝な気持ちじゃないのよ。」
まもりはどこか諦めたような表情で、だがきっぱりと言った。

「自分を愛していない男にしがみついて、結局三宅みたいな男に利用されて。母は馬鹿だわ。」
武蔵は黙ってまもりの話を聞いている。
まもりの実父は、執事の三宅だった。
夫に愛されなかった姉崎夫人は、三宅に唆されて関係を持ったのだ。
そして三宅は生まれた娘まもりを利用して、姉崎家に食い込もうとした。
その事実を、蛭魔も武蔵もまもりには告げなかった。
だが先代会長が実父ではないとわかったときに、まもりはそれを察した。
その時から、まもりは決意したことがあったのだ。

「だから私は絶対に母のような生き方はしない。」
まもりは切り捨てるように言い放つ。
その凄絶な笑顔を見て、武蔵はニヤリと笑った。
しとやかな令嬢の仮面を脱ぎ捨てて、強く生きることを決意したまもり。
今までの存在理由を否定されたまもりの、したたかな生存本能だ。

瀬那が小さく呻くような声を上げた。
起こしてしまったかと、武蔵とまもりは慌てて瀬那の顔を覗き込む。
だが瀬那は微かに身じろぎをすると、また寝息を立て始めた。
ほっと息をついた瞬間、部屋のドアが開き、蛭魔が顔を覗かせた。
その表情を見て、武蔵はどうやら父子の対決はさほど悪い方向へは進まなかったことを察した。


瀬那が目を覚ますと、そこには心配そうな顔で自分を見ている蛭魔と目が合った。
慌てて身を起こそうとしたが、蛭魔がそっと瀬那の両肩をおさえて、押しとどめた。

「ここ、は?」
「別宅だ。おまえは丸1日寝てたんだぞ。」
そう言われて、瀬那は「あ」と小さく声を上げた。
疲れきっていた瀬那は、姉崎家の別荘の前の海辺で蛭魔に抱き締められたまま眠ってしまったのだ。

「蛭魔様が、運んでくださったんですか?」
「いい加減にその呼び方はやめろ。敬語もなしだ。おまえは戸籍上は俺の弟なんだぞ。」
蛭魔はそう言って、瀬那の頭をくしゃくしゃとかき回した。
「戸籍、上。。。」
「そうだよ。だって血のつながりはないし、本当は恋人同士なんだから。」
蛭魔は手慰みのように、瀬那の頬を指でつつき、顔中にキスを落とす。
瀬那は真っ赤になって、身を捩った。
蛭魔はそんな瀬那の様子を見て笑っていたが、不意に身体を離して、硬い表情になった。

「おまえの具合がよくなったら、美生さんの葬儀をするからな。」
その言葉に瀬那の表情が強張る。
「よく寝て、たくさん食って、元気になれ。それで美生さんを送ってやれ。」
蛭魔はそう言って、布団の上から瀬那の肩をポンポンと叩く。
瀬那は涙に潤んだ目で、蛭魔を見上げた。


「僕は生きていても、いいんですか?」
涙を含んだ瀬那の声に、蛭魔はカッと目を見開いた。
蛭魔を怒らせてしまったのか、と瀬那は一瞬身を縮める。
だが蛭魔は一転して悲しげな表情で、瀬那に顔を近づけた。

瀬那は今、切実に生きたいと思う。
蛭魔の優しさと力強さに触れ、さらに深く愛してしまったからだ。
ずっとこのまま蛭魔の横で、生きていきたいと思う。
罪の意識と生存本能の狭間で、瀬那は揺れていた。

「おまえがいないと、俺は生きられない。」
何か言おうと口を開いた瀬那の言葉を封じるように、瀬那の耳元で蛭魔が囁いた。
大好きな人のぬくもりと声が、瀬那の心を優しく溶かしていく。
「だから俺のために生きてくれ、瀬那」
懇願するような蛭魔の声に、瀬那の瞳から涙が零れ落ちた。

蛭魔はありのままの瀬那を受け入れてくれる。
瀬那の出生のこと。身体を売ったという過ち。
全てを知ってなお、守って、愛してくれるのだ。
今もこうして瀬那が生きる理由を示してくれた。
生きていてもいいのだと、許してくれる。

この人の横でなら、生きていける。
蛭魔の腕の中で、瀬那の涙が悲しみから歓喜へと変わった。


小早川美生の葬儀がひっそりと行われたのは、それからかなりしてからだ。
随分痩せて、やつれてしまった瀬那の回復を待ったためだった。
元のような元気な姿で送りたいと、蛭魔も瀬那も希望した。
参列したのは、蛭魔と瀬那、まもり、そして武蔵の4人だけだった。
その頃には、瀬那とその周辺の者たちは少しずつだが変化を遂げていた。

姉崎邸は遺産相続の手続きの後、瀬那の名義になった。
だが蛭魔家の別宅で暮らす瀬那には、必要のないものだ。
空き家にしても家が荒れるし、他人に貸すのも売るのも気が進まない。
すったもんだの挙句、今は武蔵とまもりが住んでいる。

姉崎ホールディングスは、蛭魔と武蔵によって経営されるようになった。
高校生に経営など出来るものかと冷ややかだった会社の重鎮たちも、今ではすっかりおとなしい。
幼い頃から帝王学を学んだ2人によって、少しずつだが業績を伸ばしている。
瀬那もまた蛭魔や武蔵から経営学を仕込まれている。
いつの日か3人で、日本をも動かす大企業の経営を担うためだ。

「妖一兄さん、くすぐったい」
蛭魔が瀬那を撫でたりすると、瀬那は恥ずかしそうにそう言って笑うようになった。
呼び方も話し方もより親密になった瀬那の変化が、蛭魔には一番嬉しく感じる。
それでも可憐な笑顔は変わらない。
蛭魔はその顔を見るために、毎日飽くことなく瀬那に寄り添っている。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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