理性と本能8題

どこで道を間違えてしまったんだろう?
そしてこの先、どうすればいいんだろう?
瀬那は未だに意識が戻らない母親の傍らで、ずっと考え続けている。

先代の姉崎会長の実子がまもりではなく、瀬那であると公表された。
その日から瀬那は蛭魔家には帰らずに、母の美生の病室に寝泊りしている。
この病院は完全看護体制であり、泊り込みの付き添いは禁止されている。
だが瀬那の不安定な気持ちを察した蛭魔が、病院に話を通してくれたという。
そして瀬那の気持ちが落ち着くまでそっとしておくようにと、父親に頼んだのだと聞いた。

瀬那だってよくわかっている。
こうやって現実から目を背けて、引きこもりのようなことを続けているのはよくない。
決断して、直面している事態に立ち向かわなくてはいけないのだ。
それでも瀬那は、まるで救いを求めるように美生の横から離れられないでいた。

それにもう1つ、瀬那には気になっていることがあった。
自分の出生の秘密を聞かされたとき、蛭魔もあらかじめ知っていたのだと思った。
だから蛭魔に責めるような言葉を、投げつけてしまったのだ。
だがその後、武蔵から蛭魔もあの時初めて知ったのだと聞いた。
武蔵は蛭魔の父に言われて、蛭魔にはずっと隠していたのだと言った。

傷つけてしまった。まもりも、姉崎夫人も、蛭魔も。
それに美生の意識が戻って、瀬那が身体を売ったことや皆を傷つけたことを知ったら、きっと悲しむ。
そう思うと瀬那の心はますます沈むのだ。


姉崎まもりもまた、あの日から自宅を離れていた。
まるで瀬那と入れ替わるように、蛭魔家の別宅に身を寄せていた。

まもりの母親である姉崎夫人と、執事の三宅は裁判所の聴取を受けている。
瀬那が先代会長の実子であると知っているのに隠したこと。
そしてまもりが実子であると偽ったこと。
瀬那を騙して追い詰め、売春行為をさせたこと。
いずれも法に触れる犯罪だ。
姉崎夫人は、何もしなければ財産の相続権があったのだ。
だが犯した行為の悪質さから、相続権を廃除する手続きがされている。
三宅に至っては、売春組織との関係について警察からも聴取を受けていた。

そしてさらなる過去が明らかになった。
先代会長は使用人であった小早川美生と恋におちたが、身分違いであると周りに反対され、結婚はしなかった。
そして親が決めた相手である姉崎夫人と結婚したのだった。
だが先代会長の心は、ずっと美生のものだった。
そして姉崎夫人の満たされない心の隙間に侵入したのが、執事の三宅だった。
姉崎ホールディングスの財産を狙う三宅の策略に、姉崎夫人は墜ちたのだ。

まもりは大きくため息をついた。
まったく今の自分は、物笑いの種だと思う。
姉崎ホールディングスの跡継ぎの座も、贅沢な暮らしも、蛭魔の愛情も。
最初からすべて瀬那のものだったのだ。
それを自分のものだと思い込んで、瀬那はそれを脅かす存在だと思っていたのだ。
滑稽すぎて、涙すら出てきやしない。

コンコンとノックの音の後「食事だ」と声がかかる。
ドアが開くと、武蔵が顔を覗かせた。
そしてガラガラとワゴンを押しながら、まもりの部屋へと食事を運んでくる。
日に3度繰り返される儀式のような時間だった。


「私が自殺でもすると思っている?」
まもりは向かい合って食事を摂っている武蔵に聞いた。

最初は驚いたのだ。
とりあえず身柄を預かると言われて、蛭魔の別宅に来たその日から。
食事は毎食部屋に運ばれてきて、蛭魔ではなく武蔵と共にしている。
武蔵は特に気を使う素振りもなく、健啖な食欲を見せた。
それにほとんど部屋に篭るまもりだったが、たまに部屋を出るとき、武蔵はいつもドアの外にいた。

「あいにくだけど、自殺するほどの理性はないわ。」
まもりが豪華な食事を口に運びながら笑った。
今までの自分の境遇を考えたら、死んでしまった方がいいように思える。
だが不思議とそれを実行しようという気にはならなかった。

「俺もそう思う。あんたはそんなに弱い女じゃない。」
武蔵もまた淡々と食事をしながら、そう言った。
意外そうな表情のまもりに、武蔵はさらに続けた。
「あんたを見張るのは蛭魔の命令だからだ。あいつはあんたのことをわかってないからな。」
そう言われて、まもりは肩をすくめて笑った。

「私のことより、瀬那を見てあげた方がいいんじゃない?」
瀬那の名を聞いた武蔵の顔が微かに歪んだ。
「瀬那が美生さんを残して死ぬことはないさ。それに俺のことを許してないだろう。」
一瞬だけ寂しそうな顔をした武蔵は、また何事もなかったように食事を再開した。


蛭魔は、本宅の玄関の扉を乱暴に開けた。
父親と同じ屋根の下は疲れるからと、蛭魔はほとんど本宅には寄り付かない。
たまに本宅に顔を出す場合は、事前に連絡をする。
だからいきなり予告もなしに現れた蛭魔に、使用人たちは皆驚いた表情だった。
だが蛭魔はおかまいなしに、ずかずかと父親の部屋へと向かった。

容態が急変した小早川美生が、昨日息を引き取ったと聞いた。
そしてずっと付き添っていた瀬那は姿を消したということも。
それなのに蛭魔の耳に入ったのは、つい1時間前。
様子を聞こうと病院に電話をして、それを聞かされたのだ。
電話をしなければ、蛭魔は今もそのことを知らなかっただろう。
父親は意図的に、それを蛭魔に隠していたとしか考えられない。
蛭魔はそれを問いただすために、本宅へ乗り込んだのだった。

「なんだ、妖一。騒々しい。」
部屋のドアをバタンと開け放つと、机に向かい書類に目を通していた父親が顔を上げて蛭魔を見た。
蛭魔が何をしに来たか、わかっているだろうに。
その涼しい態度が、蛭魔には忌々しくてならない。

「何故隠してた。」
「小早川美生が死んだことか?」
「それだけじゃない!」
「ああ、瀬那が消えたことか。」
幽也は事も無げにそう言うと、また書類に目を落とした。


「瀬那にとっては、母親が最後の砦だったんだ!」
「そうだな。」
「それを失った瀬那が消えたんだぞ、それを」
そこまで言って、蛭魔は言葉を切った。
そして自分の父親の真意を察して、呆然と立ち尽くす。

父にとって、瀬那の失踪、あるいは死も好都合なのだ。
姉崎ホールディングスは今や瀬那のもの。
だが瀬那にもしものことがあったとき、その財産を受け取るのは養子縁組によって父となった幽也だ。
父は瀬那のことを、その程度にしか見ていないのだ。

これ以上言っても無駄だ。
全ての人に裏切られ、唯一の存在である母親を失った瀬那は危ない。
早まったことをする前に捜さなくては。
さっさと父親に背を向けて部屋を出て行こうとした蛭魔だが、ふと足を止めて振り返った。

「なぁ、ずっと聞こうと思ってたんだけど」
「何だ」
「姉崎の実子が瀬那だって気がついたのは、いつだ?」
父はキョトンとした表情で、顔を上げた。
何故そんなことを聞く。そんな顔だ。
だが一瞬の間の後、答えが返ってきた。

「おまえ、武蔵に瀬那の事を調べさせただろう?その時に武蔵が雪光と接触して調べ上げた。」
「武蔵は俺には何も言わなかった。」
「おまえには話すなと口止めした。そうしなければおまえを蛭魔家から追い出すと言った。」
蛭魔は驚きと怒りに目を見開いた。
「まさか瀬那にも」
「そうだ。同じ事を言った。養子にならなければおまえを追い出す、とな。」
武蔵も瀬那も蛭魔のためだと半ば脅されていた。その事実に蛭魔の怒りが燃え上がる。

だが今はまず瀬那の事だ。
蛭魔は入室のときと同様、乱暴にドアを閉めて出て行った。


瀬那は海辺に1人、佇んでいた。
すぐ目の前には姉崎家の別荘がある。
ここは瀬那にとって数少ない、楽しい思い出がある場所だった。

子供の頃、夏に先代の姉崎会長と夫人とまもりは毎年ここを訪れており、美生と瀬那も同行した。
皆が楽しそうに笑っていた。
いつも美生と瀬那には冷たい姉崎夫人も、この時だけは楽しげだった。
瀬那はそんなことを思いながら、膝を抱えて砂浜に座っている。

ふと目を閉じると、どうしても考えてしまうのは蛭魔のことだ。
彼のことを考えると、心臓がギュッと掴まれたように痛い。
どうしても戻ることはできないのだ。
この別荘で、恋も知らず、渦巻く策略も憎悪も関係なく、ただ無邪気に笑っていた頃には。

いくら無自覚とはいえ、皆を苦しめた罪は重い。
唯一の心の支えだった母も、この世を去った。
さっさと後を追い、皆の前から消えるべきだろう。
自殺して詫びる理性くらいは、持ち合わせている。

そろそろ行こう、と瀬那は立ち上がった。
綺麗な思い出の場所を血で汚すことはしたくない。
汚れた身体と罪深い心を葬るに相応しい場所を、捜しに行こう。

ずっと座っていたせいか、ここ数日食べ物も飲み物も口にしていないせいか。
立ち上がった瀬那の身体がふらついた。
倒れる、と思った瞬間、背後から差し伸べられた手が瀬那の身体を抱き取った。


「蛭魔、様」
慌てて振り返った瀬那が、か細い声でその名を呼ぶ。
蛭魔はくるりと瀬那の身体を反転させて、自分の方を向かせると、力任せに抱き締めた。

「そんな風に呼ぶなよ。」
何か言おうと口を開いた瀬那の言葉を封じるように、瀬那の耳元で蛭魔が囁いた。
大好きな人のぬくもりと声が、瀬那の心を優しく溶かしていく。
最初は蛭魔の腕から逃れようと、モゾモゾと動いていた瀬那の身体から力が抜けた。
さらに強く、深く、蛭魔のたくましい胸が瀬那の身体をかき抱いた。

「こんなつもりじゃなかった。瀬那がただ笑ってくれればいいと思ってたんだ。」
いつも自信に満ちた様子の蛭魔の、弱々しい言葉に瀬那は驚いて顔を上げた。
蛭魔は今にも泣き出しそうなほど、悲しげに顔を歪ませている。
瀬那は蛭魔のそんな表情を見て、胸が締め付けられるような切なさを感じた。

「悪かった。でももうおまえを離してやれないんだ。」
蛭魔はそう言うと、瀬那の唇にキスを落とした。
驚いた瀬那がちいさく「あ」と声を上げる。
開いてしまった唇に、チャンスとばかりに蛭魔がさらにくちづける。
蛭魔が瀬那の唇や歯列や舌を存分に味わうと、瀬那はぐったりと蛭魔の腕の中に倒れこんだ。

「おまえを愛してるんだ。弟とか友人じゃなくてこういう意味で。」
瀬那の大きな瞳から、涙の珠がコロリと落ちた。
蛭魔はそれを指先で掬い取りながら「ずっとそばにいてくれ」と祈るように告げた。

【続く】
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